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金沢ピープルファイル003:原田英二②

どんな町にもたいていひとつは気のおけない食堂があります。竹内紙器製作所のある幸浦で言えば「メルヘン」がそう。これからするのはそのメルヘンをめぐる、ある家族についての物語。あらかじめおことわりしておきたいのはすべて本当の話だということ。

第2回 おふくろのこと②

 やがて日本は戦争に負けて、ベトナムにいた日本人たちも引き揚げていくんだけど、親父は会社の責任者だったからすぐには帰国できなくて1年くらいハノイで塀の中に囲われてたんだよね。当時おふくろはサイゴンにいてハノイとはその距離約2000キロ。もちろん親父に会うことはできなくて、お互いに身の上を心配しあっていただろうね。

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 ある嵐の夜のこと、親父の部屋のドアをコンコンと叩く音がした。こんな日にいったい誰だろうとドアを開けたら、顔に泥を塗りたくってアオザイを着たおふくろが立ってたんだって。周りはマシンガンを持った兵隊がうろうろしていたし濠もあったというのにそれを乗り越えてね。現地の人に宝石を渡してアオザイと馬車を手に入れて、自分で二昼夜馬車を飛ばして来たっていうんだ。

 僕は兄弟から橋の下で拾われたとかもらいっ子だとかよく言われたわけ。昭和21年の10月に生まれたんだけど、親父は昭和20年の8月から21年の9月まで1年間いなかったから、なんで僕ができたんだってことだよね。あるときこの話を親父に聞いたら「エイジ、お前はその一夜の子なんだよ」って言うんだ、奇跡の子だって(笑)。おふくろはベトナムから日本へ帰る船上で生まれちゃうんじゃないかと思ったみたいだけど、日本に着いてから10月に生まれた。推理小説家の斎藤栄がこのエピソードを小説に書きたいっておふくろに何度も言ってきたみたいなんだけどついに書かせなかったな、シャイだったんだ。

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 おふくろのすごいところをもうひとつ言うと、妊婦だからお腹が大きくて服もゆったりしているよね。そこへ砂糖やイースト菌とかご飯を干したものなんかを何キロも体に巻きつけて隠して持って帰って来たの、宝石だと没収されちゃうから。帰国後はそのイースト菌とかを売って食いつないだんだよ。焼け野原で何もなかったから、中華街とか元町で売って歩いたんだって。そうやって資金を作って化粧品屋を始めたんだ。鰻屋を始めるのはその後のこと。だからおふくろはエアガールで美容師で板前なんだよ。

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