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Cift(拡張家族)へのお宅訪問

先日東京に行った際に、念願かなって神田(平本)沙織さんが関わる渋谷CAST内にあるCiftを訪れた。
(※Ciftとは新しいコミュニティの概念であるので、訪れるという表現が正しいのかは分からないが、ここら辺を厳密に言い始めるとめちゃめちゃこんがらがりそうなので、この後は厳密さというより、伝えたい事ベースで書いていこうと思う。)

 Ciftは拡張家族を謳うコミュニティのかたちである。これまでコミュニティとは地縁・血縁・テーマ毎にその関りの境界がぼんやりとあった。曽根田敏治の血縁は上流には曽根田家と戸高家、及びそこから派生する血脈の括りがあるし、地縁で言うと僕が住んでいる佐伯市本匠小川のエリア的コミュニティ、佐伯コミュニティもあれば、関東にいたときの関東大分県人会コミュニティ、テーマでは学校や会社に所属することでのコミュニティ、まちおこし界隈コミュニティなどなど、いくつものコミュニティに属し関係性の糸を張り巡らせている。拡張家族は、ある意味で地縁・血縁・テーマに対して横断的に横ぐしを刺した新しいコミュニティの形なのだなと感じた。ここでのテーマは“世界平和”という抽象的、でも誰しもが望んでいるもので、後述するがこのテーマ設定が非常に拡張家族の価値観として重要な働きを持っている。

 Ciftは形式的には渋谷CASTの13階に存在する共同住宅(シェアハウス)であって、各部屋はキッチン・フロ・トイレなども完備した個室としても存在していた。一方で、共同スペースとしての談話室や共同キッチンスペースもあり、Ciftメンバーが集まれるようにもなっている。プライベートとパブリックの往来に対する選択の自由度が高いところだな、と感じた。対比的に僕が知っている一般的なシェアハウスは、6畳間ぐらいの寝室のみがあり、キッチン・フロ・トイレが共用であり、良くも悪くも共同住居者と顔を合わせずにはいられない仕様が多い気がしている。

 昔々田舎から都会へと一旦移住した僕。3-4階建てのアパートでの独り暮らしをしていた。実家にいた頃の家族と顔を合わせたり、地域の人たちと挨拶を交わしたりという生活が無くなり、それはそれで楽ではあったけれども、寂しさのようなものを感じていたし、特に東日本大震災を栃木県足利市で経験した時には、遠くの親戚より近場の他人との関係性が緊急時の身の安全にとてつもなく大事なことだと痛感した。そういう意味では僕はシェアハウスには住んだことは無いけれど、地縁的なコミュニティを設けるという意味での住居はとてもいいものだろうなと思っている。

 沙織さんの話の中で面白いなぁと思ったのが、商業化が進みすぎた都市には人の生活圏がなくなるという話だった。ドーナツ化現象の話ではあるのだけれど、なんだかその話をようやくリアルに理解できた気がする。現在地方に住んでいる僕にとっては、経済がよく動くところには人が集まり、そして人が集まるところはよく経済が動く(=つまり儲かる)なので、東京 対 地方という構図での東京一極集中の二項対立的な物語で話を進めてしまいがちだ。そのイメージで行くと東京の中心部が最も人が多くて、離れるほど住民が減っていく感じ。政令指定都市や、県庁所在地とその対比的な地方の構図も似たようなものだと思っていた。しかし、地価というものによって、人を住まわせるには経済効率がわるいという事実によって、極々高地価の場所には住居用のスペースがなく、オフィスや商業施設に占有されるというのだ。渋谷CASTはそのような通例に一石を投じれないかという意味合いでの多様性をコンセプトで建設が進められたそうだ。

 沙織さんは子育ての中で感じる不合理と、この気持ちに対する他者の共感性のなさに憤っていた。ベビーカーを押しながら電車に乗るとき、エレベーターを利用するとき、なぜか周囲の人に頭を下げることが一般的になってしまっているのか、子どもを育て共に行動するという事に何の非があるのだろうか。なぜ多くの女性が結婚をすると姓を変えなければいけないのか。通例や一般的と扱ってきたものそのものに疑いをもつべきではないのだろうか。この個人主義が進みすぎた都市生活において、拡張家族という社会実験はある意味必然となる選択肢であったそうだ。共働きの沙織さん夫婦にとって、遠く離れた両親に頼むには物理的距離によって困難なことが、Ciftのメンバーであれば頼める。血縁の家族程切れない縁ではないけれど、友人たちよりも濃く強い縁。個人主義と全体主義・家族主義のあいなかに存在するようなコミュニティ、拡張家族。

 恐らく従来の長屋のような生活圏なのだと思う、近くにいるおいちゃんおばちゃんお姉さんお兄さんが子どもの成長を眺め、時にお世話し、ご飯食べさせたり、遊びに付き合ったり、はたまた叱ったり。Cift自体は社会実験だと読んでいるけれども、そうして過ごして修正して進んでいくコミュニティとしての在り方の重要度は益々上がっていくだろうと感じた。
 
 また、このコミュニティのテーマである“世界平和”。その根底には相手の立場に立って考える、という多様性の本質があるのだと感じた。これまでは、個人主義バンザイばりに当人がよければそれでいいと言われていた時代だったようにある。僕らが感じている日本の伝統的な価値観とは違うけれど、なぜか社会風潮がそれを推し進めてきたように感じる。コミュニティに属することは良い面と同じだけのめんどくさい部分はあるかもしれない。相手の立場に立って考えるにしても、独りだけでよければ考える必要すらない。しかし、自己の正義だけを推進した結果は、外部との衝突しか生まれないしその先には争いが生まれてしまう。そうなる前に立ち止まり、「社会参画の一員としての相手の気持ちを慮る」をお互いが持って生きることで、ひいては世界平和へと通ずるのではないかと思うのである。

※写真は沙織さん提供、どれも凄く良い写真

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