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美しさという感情の手触り感

ちょっと突飛な話であるが、過去にひとつの命題「なぜ人類は生命を紡いでいくのか?」という問いに向き合っていたことがある。その時も恐らく苦しい思いをしていたころで、この人生を生きねばならない理由みたいなものを欲していた。当時辿り着いた答えは「知的生命体が、より宇宙というものを解き明かしていくことが即ち宇宙の存在証明である。人間の人生なんて長大な宇宙の歴史に比べれば短すぎるので、紡いでいかねばならない。」ということだった。この納得感を得たときの僕の感動は結構なモノであった。

背景には宇宙物理学の研究者が考えている「人間原理」にある。例えば私が地球上にただ唯一の人間として存在していたとして、鏡に写る私は鏡像でしかなく実物の私を客観的な視覚で捉えることはできない、私が自分で発している声の録音を聞けば「えっ、こんな声なの?」と愕然とするように、自身の発する声もまた違い、コミュニケーションで生じる自身の思考の正当性や対応の善悪などもまた、理解することができない。目の前のアナタの反応によってのみ、私は私を理解できるのである。そして、私の存在と反応によって目の前のアナタの存在証明となる。そうした考え方を宇宙(この世の全て)対人間として考えた時に、宇宙というものの存在証明として人間(知的生命体)が必要であるという考え方だ。これに妙に腹落ちして納得している。宇宙というものは、何も量子論や相対性理論や天文学だけを指すのではなく、個々人の中の世界を捉える概念の総和なのだとも思っている。「今日食べたソバが旨かった。」も宇宙を構成する一部を認証した出来事なのだとも思う。そうした意味で、宇宙の解明には個々人の知的欲求を最大化していくことが不可欠なのだと思うし、趣味の追求というものこそ人間の存在価値であるように思う。なんだっていい、1分前に知らなかったことを知ると、より宇宙の解明に貢献しているのだと思う。

この考えは既に僕の中にインストールされているにも関わらず、では、「自分はどの分野で宇宙解明の最先端にいきたいのか?」みたいな問いで、また立ち止まり悩むのだ。考えるのではなく、悩む。そうして、日々悶々と時を過ごしその進捗のなさに苛立ち体育座りで縮こまっている。

僕がお客さんとの電話応対で待ちぼうけさせてしまった先輩は空を眺めながら言った「ありがとう。ソネダさんのおかげで、改めて空に浮かぶ雲をじっくり眺めてキレイだなって。それで、低いところの雲と高いところの曇って逆方向に進んでるんだね。気流が逆に動いてるのがよくわかる。」
待ちぼうけのその時間のフォローとして、こんな気の利いたセリフがあるだろうか。

キャンプ椅子にもたれながら、僕も空を眺めてみる。秋空で澄んだ青色の上空に、明瞭な雲の境界が見て取れる確かに手前の雲たちは足早に僕の頭上から足元へ向けて過ぎ去っていく、一方で、その上空の雲たちはゆったりと今度は僕の足元から頭上の方向にその行進を進めていた。「あぁ美しいな」と思えた。自然は僕らの感情の在り方に全く関係なく、ある意味絶対的な存在として凛とした美しさを常に醸し出しているという事実にハッとした。こうした身近な事象を取り逃しながら、「何が宇宙の解明」だろうか。ごくごく見直に感情を震わせるものがあるということに、気づかずにいるもったいなさに向き合わざるを得なかった。

僕が見たかった僕ならではの宇宙観は初め、「ポジティブ心理学的な幸福感を持った人が増える世界に貢献したい。」だった。この幸福感についての詳細は慶応大の前野先生の著書「実践ポジティブ心理学 幸せのサイエンス」を読んで欲しい。すごくざっくり言うと幸せの4条件「やってみよう(誰かのせいにせず、主体的に課題に取り組む人)。ありがとう(応援してくれる仲間、事象に感謝すること)。なんとかなるさ(失敗や将来の不安に打ちのめされるのではなく、人間万事塞翁が馬、最悪も最高に転じるということ)。あなたらしく(あなたはあなたのままでオリジナルでそしてその在り方でよい)。」という事を日々実感できていること、それが持続的な幸福感(フラーリッシュ)にあるよねということだ。そんな世界を目指しています、と。

これ、聞こえは凄く良くないですか?

でも、「この世界観に貢献したい」という立ち位置が、既に他責になっていることに気づいちゃったんです。だって幸福かどうかを感じるのは自分以外の人にも関わらず、こう感じるのいいですよね、という押し付けをしているし、はたまた何で伝わらないんだとばかりに勝手に残念がっている。自身の在り方を差し置いて、勝手に外界にそれを要請して、勝手に残念がっている。そうして、日々目の前に現れていたはずの心を震わす美しい情景にすら気づかないようになっていた。

ものごとを捉える自分の主観には色眼鏡がつきものだ。バイアスとも呼ばれている。美しいものを美しいものとして捉えなくなってきたこと。目の前の人の対応が自分にとってネガティブだと感じてしまうこと。人生の再出発を企てている僕は、ある意味自分の主観というものがグラつき、自分の感性が取り入れるものが全て「これでいいのだろうか?」と、危うく感じている。一見すると心許なく、不安定の怖さがつきまとう。しかし、このバイアスに気づけるようになった今の状況というものは、ちょっとしたボーナス時期だとも思うのである。自身に根付いたバイアスを丁寧に一考していくことで、改めて美しいもの(=前向きに自身の感性を震わす何か)に焦点を当てていきたいものだと思った。

まだまだ抽象的な話しかできていないけれど、「そねだくん、やりたいのは分ったけん。そろそろ、やらんね?」という愛のある言葉が脳裏に浮かぶ。一つ一つ積み重ねていくことで、1㎜だけでも僕の宇宙観に近づいていくのだ。

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