思考のクセ

自然豊かな田園風景の背中に、生のピーマンをかじっている少年。

僕の幼少期の時の写真の一枚である。子どもたちの多くがピーマンが苦手だと聞いて、一風変わった感じのこの写真が好きになった。

爆竹が流行れば火薬を集めてちょっとした爆弾を作ったり、子どもだけの秘密基地づくりに熱中し、夏休みの自由研究では木工のエクスカリバーソードを作ったり、ミニ四駆が流行れば三国藤吉のスピンアックスを敬愛し、マジックザギャザリングでは緑に統一、将棋では角将で攻め切るタイプだった。変わった感じとまでは言わないが、みんなが向いている方高とはちょっと違う空いてるスペースを見つけることに長けていてそのスペースにポジションを移動させることを自然とやってのけていた。ニワトリサッカーと呼ばれるような、全選手が一つのボールをめがけて集まっているときに、きっと仲間がここにパスをくれるだろうとスペースを虎視眈々と狙う、そんなタイプだった。

なぜそうしたプレイを好むのかは分からないが、そういう振る舞いは自然と世の中ではやっている流行を避けるように働き、みんなが良いというものに違う視点を持ってくるような天邪鬼になってしまっていた。みんなと同じようにやろうと思えばできるし、そういう状況に虫唾が走るような特性ではない。けれど、どうしても現状を俯瞰し逆の視点がないか、長期的にはどうあるべきか、どうありたいかなどをずっと考えてしまっている。

これは直すべきなのだけれど、多用するフレーズに「いや、」「でも、」「そもそも、」などがあり、目の前の誰かの言葉を違う角度で見るようなコメントをすることが多い。自身の中では議論を深めたり異なった違う視点の味方として建設的な議論をしているつもりではあるのに、多分言われた方は嫌だったんだろうな、と最近気づいた。気を悪くしていた皆さんごめんなさい、悪気は無いんです。

とはいえ、この思考のクセは僕自身の特徴ではあるので何か上手く使って誰かの役に立てないかと思案しているが、一向に喜んでくれる誰かが思い浮かばずこうしてnoteにシタタメテみたりしている。こうすることで、何かしらピンとくるひとがいたら嬉しいなと思っている。

例えば僕は「売り上げ至上主義」という言葉にとても抵抗がある。日本史観で言うと、士農工商のようにお金を扱う人を身分的に下に見ていた(でも実際は豊かに暮らしていた)なんてこともあり何となく同意する人も多いかもしれない。でも、身分がどうとかじゃあない。お金の成り立ちから考えたとき、初期の人類は私が持っている価値とあなたが持っている価値の交換という事で、魚と野菜や果物を交換したりという物々交換であった。そうした交換においての持ち運びがしやすく価値があるものとして金や銀などが用いられるようになり、その後ルールとしての貨幣が生まれたことで”共通幻想として貨幣が永続的な価値”を持つことになった。人と人との価値の交換ツールであったはずの媒体が、それ自体が価値をもつようになったということである。この逆転が少し気持ち悪く感じている。自分たちの仕事の付加価値を高めていく努力をすること、すなわち人に喜んでもらうことが、後々の取得する貨幣の増大(売上アップ)につながるはずなのだ。ということで、目指すべきは顧客への提供価値の最大化(つまり、お客さんをハッピーに)が大事だと思っている。

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