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「作業者のダンス」を見に行く|『トヨタ物語』続編連載にあたって 第3回

■國松さんの『警察物語』

 話は2003年にさかのぼる。

 わたしは大分県、湯布院の温泉旅館「玉の湯」で元警察庁長官の國松孝次と知り合った。國松さんは退官した後、スイス大使となり、その時、わたしがスイスについて書いた本を読んだということだった。取材で宿泊していた玉の湯にちょうど國松さんが投宿していたのである。

 玉の湯の社長、溝口薫平がわたしを紹介し、話をした。その後、國松さんとは会うようになった。ゴルフも行ったし、食事もした。警察についての話を聞くようにもなった。

 そして、ある日…。

 「警察と國松さんについて取材をして大きな物語を書きたい」

 おそるおそる切り出したのだが、元長官は不敵に笑った。

 「ダメダメ。オレはストーリーになるような男じゃないよ」

 だいたい、この人は長官をやめてからインタビューや取材はほぼ断っている。出るのは彼が推進しているドクターヘリ(救急医療用ヘリコプター)、大使としての任地だったスイスに関連することくらいで、警察時代については語りたがらない。長官時代、狙撃されたことを一生の不覚と思っているようで、公の場に出ること、取材に答えることから遠ざかっている。叙勲の話もあったのだが、絶対に受けない。

 わたしもしつこい方だから、様子を見ては、「では、警察の話よろしく」と切り出して、事実、数回はインタビューしている。しかし、なかなか『警察物語』を書くことを了承してくれない。それでもわたしはやる気でいる。そんな状態が17年間、続いている。

■張の話を聞け

 2005年のことだった。

 「あー、野地くん、君、ちょっと張に会ってくれないか」
 「誰ですか? 張って?」
 「オレの同級生だよ。トヨタの張だ」

 それが張富士夫。当時のトヨタの社長である。國松さんと張さんは東大法学部の同窓。ふたりは剣道部で、張さんが主将、國松さんが副将だった。

 しかし、どうして自動車業界にはまったく無縁のわたしに白羽の矢が立ったのか?

 國松さんはこんな話をした。

 「君は、トヨタ生産方式というのを知っとるか? トヨタの創業者(豊田喜一郎)が提唱したものを大野耐一という人がまとめたものなんだが、大野さんは張の師匠なんだ。
 張は大野さんのことを尊敬していて、『社長を辞めたら、仕事から身を引いて、大野さんの評伝を書きたい』…。それがあいつの望みなんだよ。
 ついては、君が力になってあげなさい」

 なるほどと思った。会ってみたい、会わなきゃ損だと瞬時に感じた。

 なんといっても、トヨタの社長にインタビューする機会は多くはない。話を聞くことができればどこかの雑誌に必ず載せることができる。原稿料収入になる。それは悪い話ではないどころか、とてもいい部類の話ではないか。

「わかりました。ともかく会いに行きます」

 國松さんが張さんに話をしてくれたこともあり、ほどなく取材の日程が決まった。

■インタビューの極意

 実は、張さんに会う前、同社の広報担当者から呼ばれた。場所は後楽園近くにあるトヨタの東京本社ビルである。

 担当者は「あなたは自動車に詳しい方ですか? トヨタ生産方式をご存知ですか?」と聞いてきた。ものすごく疑い深い目だった。

 「いいえ、どちらも詳しくありません。まったくと言っていいくらい知りません」

 その頃のわたしの代表作は『キャンティ物語』と『サービスの達人』だから、トヨタの広報は「こいつは水商売専門のライターだろう」と断じていたに違いない。しかし、実際にその通りだから、わたしが文句を言う筋合いはなかった。

 トヨタの広報は要するに「こいつを社長を会わせていいものか」と、ものすごく不安だったのである。だが、國松元長官からの話だから絶対に断れない。…それにしても、こいつ(わたしのこと)は大丈夫なのか?

 広報の担当者はその場でトヨタ生産方式について、約1時間ほど説明をしてくれた。こんな感じだった。「ジャスト・イン・タイムとジドウカ…にんべんの付いた自働化が2本柱で…うんぬんかんぬん…」

 はっきり言うけれど、何の話かさっぱりわからなかった。

 「よくわかりました」と頭を下げ、パンフレットをもらって帰ったものの、頭のなかは「?」どころか真っ白だった。家であらためてパンフレットを読んだが、混迷は深まるばかりだった。

 さすがに、わたしも「これでトヨタの社長に会うのはいかがなものか」と思ったけれど、迷った時は「当たって砕けろ」である。さもわかったふりをして質問をしようと決めた。張さんという人物の懐の広さに賭けることにしたのである。

■ひとつだけ聞いた

 取材当日、東京本社の社長室に入ったら、張さんはたったひとりだった。A4判の紙1枚だけを持って、じゃ、始めますかと言った。

 わたしがどうしても聞かなきゃいけないと思ったのは、ひとつだけである。最初から、その質問をした。それは…。

 「トヨタ生産方式とは文字の説明を読んだだけでは理解できないと思います。生産現場を見ないと、トヨタ生産方式の理論はわからないと思うので、現場を見せてください」

 張さんはあっさり答えた。

 「そうです。おっしゃる通りだと思います。野地さん、この後、プリウスを作っている堤工場を案内してもらってください。そこで、働いている人を見てください。組み立てラインで働く熟練の作業者はまるでダンスを踊っているみたいに見えるから」

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 インタビューの翌週、わたしはトヨタの堤工場(愛知県豊田市)へ行った。今でも忘れないけれど、ライン側にいた20代の女性作業者の動きはダンスというか、プロのアスリートのようだった。ゆっくりとした動作で、身体にムダな力が入っていなかった。

 チャップリンの映画「モダン・タイムス」ほどではないにしろ、ラインの流れに急かされるように作業する姿を勝手に想像していたが、まったく違ったのである。

 そして、その時から、わたしの工場行脚が始まった。

 元町工場、本社工場、上郷、高岡、田原、トヨタ自動車九州工場、アメリカのケンタッキー、テキサス、中国の広州の工場などに行った。一度ではない。何度も見に行った。

 現場に行くと、それまでなかなか理解できなかった、「かんばん」の実物があった。実物と組み立て作業を見ながら、エキスパートに説明をしてもらったら、なぜ、かんばんが重要なのかがすぐに理解できた。

 かんばんは単なる部品の発注書ではない。かんばんがラインで製造する数をコントロールしている。トヨタ生産方式では「売れる数だけ作る」となっているけれど、それは、かんばんがあるから可能だ。かんばんはマーケットで売れている自動車の数を伝える情報指標である。

 そういったことはパンフレットを読んでも、教室でレクチャーを聞いてもわからない。工場へ行ってラインの流れと働いている人を見て、そのうえで、わからないところをエキスパートに質問するしかない。

 わたしはそうやってトヨタ生産方式はどういったものなのかを理解した。ただ、理解するまでに工場見学を70回以上したから、7年間もかかった。

 トヨタ生産方式の意味は、書いてある文字を読めば、文字の意味は誰でもわかる。しかし、現場を見なくては、かんばんの働きなどは理解できない。
現地現物でトヨタ生産方式を理解したから、『トヨタ物語』を書こうと決めたのである。

 以下はわたしが初めてトヨタ生産方式について、当時、社長だった張富士夫にインタビューした時の抜粋だ。

(文中一部敬称略、次回に続く

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