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トヨタ物語 ウーブン・シティへの道|第19回 日の出モータースの魂

■原点はサービス

 トヨタの第一号代理店が愛知トヨタである。創業は戦前で、当時は日の出モータースという名称だった。グループ売上高は4041億円で、グループ従業員数は6340名。

 会長の山口真史は3代目である。

 「僕らの原点はサービスです。もちろん車も売っているのですが、売ったその瞬間からサービスに移行します。壊れたら修理する。しかも現地に出向いて行って直す。それが我々、日の出モータースです」

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愛知トヨタ自動車の山口真史会長

 彼の祖父、山口昇は、(トヨタ創業者の)豊田喜一郎がトヨダG1型トラックを1935年に完成させた直後、初年度の全生産台数20台のうち、6台を名古屋地区で売った。しかし、6台のうち、故障しなかったのは2台だけで、残りは故障、立ち往生の連続だったのである。

 とりわけ故障が多かった1台は運送業者の武田有造が買ったトラックだった。名古屋と大阪の間で木材や建築材料を運んでいた武田は国産品愛用主義者で、国産トラックが出たことに感激してすぐに購入した。そのうえボンネットの横に『国産トヨダ』と大書して宣伝しながら荷物を運ぶというほどのトヨダファンだったのである。

 ところが、彼が買ったトラックは毎日のように故障した。初日、エンジンをかけて少し走っただけで、キャブレター不良でエンストした。それでもなんとか動かして直ったと思って走っていたら、刈谷にあった豊田自動織機の工場前で再びエンジンストップ。すぐ近くにいた日の出モータースの人間が駆けつけて、修理した。

 その後も武田が買ったトラックはまともに走らなかった。フレームが折損したり、大阪までの長距離走行中にサードギアが車体から抜け落ちてしまうという信じられない出来事もあった。

 さすがの武田も頭に来て、車を売った日の出モータースに怒鳴り込んだが、山口昇は地面に頭が付くまで平身低頭し、素早く修理してしまう。何度、持ち込まれても、平身低頭と修理で、なんとか武田をなだめたのである。山口は武田に代車として新車のトラックを提供したのだが、最初の1年だけで3台も用意したというから、武田が日常の仕事に使っていたのは自分の買ったトラックではなく、代車の方だったと思われる。

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1935年、発表会で披露されたトヨダG1型トラック[写真提供:トヨタ自動車]

 3代目の山口真史も祖父と同じで、人をそらさない。腰が低く、頭を下げる。

 「祖父の時代からうちは新車販売のマージンよりも、アフターサービスが商品なんです。祖父の魂を引き継いで、車を直してきました。そうして当社で修理、整備の先頭に立ってきたのが彼です」

■オニちゃんのこと

 男の名前は鬼束直次、同社の常務を経て常勤顧問となっているが入社以来、整備と修理サービスひと筋で働いてきた。スーツよりも、つなぎを着ている方が似合う。顔はいかついが、鬼の顔ほどはコワくない。顧客は誰もが彼を「オニちゃん」と呼ぶ。すると、彼は恥ずかしそうに笑う。

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