見出し画像

わからないことは、何かの始まりである。

「なんでそんなにnoteを書いているの」と問われることがあります。

その問いに対してぼくは、「わかることが楽しいから」だと答えてきました。

noteに限らず、人と会って話すことも、本を読むことも、誰かのnoteを読むことも、その感想をつぶやくことも。根源的には、「わかることの楽しさ」があります。

自分の思考が深まること
思考や感情を様々な形で表現すること
表現を受け取ってくれる他者がいること
受け取ってくれた人が、応答してくれること
その応答を受けて、またひとつ思考が深まること

そんな繰り返しの全てのプロセスが好きで、その結果として少しずつ「わかる」ことが楽しくて、ぼくは表現をしています。

でも、そんな「わかることの喜び」の裏には、「わからないことを抱える不安」があること、そしてそれに耐えきれない自分がいることを、ずっと感じていました。

人生、わからないことだらけです。本当に、何もわからない。

他人のことも、世界のことも、自分のことも、全然わかりません。

こんなにわからないことだらけだからこそ、わからなさを抱えて生きていくことは、とても不安で恐いことです。

モヤモヤした自分の気持ち
他人の感情
世界のさまざまな問題
自分が生きる物語

わからないという漠然とした不安を抱え続ける我慢強さと潔さがぼくにはないので、いろいろなことをわかろうとしてきました。わからなさに溢れた真っ暗な世界で、わかることが希望の光だと、唯一の道筋だと感じていました。

でも、わかることで生まれるのは、新しいわからなさです。

「わかる」の小さな光で照らされることで初めて、その周りには想像もできないほど深くて暗い「わからなさ」があることに気づき、不安にかられ、絶望する。

そんな日々を繰り返してきました。

人生は、たくさんの偶然に溢れています。

ぼくの人生も、これを読んでいるあなたの人生も、きっとたくさんの偶然に溢れ、積み重なり、今がある。

そんな風に偶然に思いを馳せると、人生で起こる全ての物事は偶然起こったものであるかのように思えてきます。ぼくという存在がこの世に生まれ落ち、こんな人生を生き、今ここでnoteを書いていること。全てが偶然の産物。

そう、全ては偶然の産物。偶然が「産み落とした」物。

一方で、人生の出来事全てが、人間の力ではどうしようもないような何かによって決定されているのか、そこに人間が介在する余地が全くないのか、と言われると、そんなことはないように思えます。

ぼくたちは、確実に何かを「選択」している。偶然に溢れた世界の中で、それぞれのタイミングで何かを掴み取って、手繰り寄せて、日々を生きています。

無限に広がる偶然の中で、「今だ!」と人間が何かを選び取り、その選び取った結果はまた偶然に左右されながら、今この瞬間の始まりになっている。

そう考えると、全ての瞬間は、偶然が「産み落とした」物なのではなく、偶然から人間が「産み出した」物であると考えることができます。

世界の全てを、偶然が産み出した物であると捉えると、そこに広がるのはのっぺりとした暗闇であるかのように見えてしまい、「わからない」という不安に押し潰されそうになります。ぼくはそうでした。

でも、一見すると真っ黒に見えるわからなさの中には、目を凝らすとチカチカとそれぞれのタイミングで光る、小さな小さな偶然の光があり、それはぼくに「掴み取ってくれ」と呼びかけている。

そんな光を選択し、掴み取ってきたからこそ、ぼくの今の人生がある。産み出してきた瞬間の積み重ねがぼくの人生である。

そんな風に思うと、わからなさは恐るるべきものではなく、可能性に満ちたはじまりであると捉えられます。

わからないからこそ、はじまることがある。偶然に満ちているからこそ、自分の意志ではじめることができる。

ぼくは、そうやって一歩一歩、ラインを踏みしめながら、歩んでいきたい です。

このnoteは、『急に具合が悪くなる』宮野 真生子, 磯野 真穂を読み、その勢いのまま書きました。

どのくらい表現できたかはわからないのですが、ここで書きたかったことは、この本を読んでぼくが生きることに希望を見出したということです。(別にそんなに絶望していたわけじゃないけどね)

そんな本に今このタイミングで出会えた偶然にも思いを馳せながら、締めくくりたいと思います。

2020/02/13追記

今日、このイベントにいってきました。

その中で磯野先生が少し触れていたこちらのnoteを読み、そういう見方もあるなあと。

ぼくがここで奮い立たされたのは、宮野先生が死が迫っている、偶然性に支配された世界でも「強い個」であろうとする意志です。

一方で、日々の中には、もっと緩やかな個が存在する。ぬるっとした変化が、決めたのか決めていないのかわからないような選択が存在する。

「強い個」であることは確かに理想かもしれないけど、現実として、そんなに人は強いままでいられないし、強くあり続けることが必ずしも幸せではないということは、心に留めたいなと改めて感じました。

写真はガンジス川を見つめる人と犬。生と死を飲み込んで流れるこの川は、繰り返しぼくに何かの示唆を与えてくれるみたいです。

サポートでいただいたお金は、今後もよりよいnoteを書き続けていくために、サウナに行ったり美味しいもの食べたり本を買ったりと、ぼくのQOLアップに使わせていただきます。いつもnoteを読んでくださって、本当にありがとうございます。