バットマン・ノーリターン

 おれの町には「バットマン」と呼ばれている人がいる。だいたい町の中心の駅周辺に自転車に乗って現れる。夏でも冬でも穴だらけの黒いコートと黒いズボンを着て、「えおおおお!」とか「ええああろ!」とかなんだかよく分からないことを叫んでいる。髪も髭も伸び放題で表情はほとんど伺いしれないし、おそらく四十代くらいではないかと思われるけど、実際はよく分からない。どこに暮らしていて、何で生計を立てているのかも分からない。ただ、ママチャリのカゴに表面がボコボコに凹んだ金属バットを入れていて、何か気に食わないことがあるとそれを振り回すのだ。しかしそれはあくまでもバットマンなりの威嚇で、実際にバットで殴られたりした人というのはいない。むしろ金属バットとかそういう危ないものに興味のある中学生や高校生のグループに絡まれて、逆に殴られていた。バットマンはひどく貧相な体つきをしていたし、弱さをごまかすための金属バットなのだから、いざふたを開けてみればただの情緒不安定なおじさんだった。だからバットマンは常に傷だらけで、みずぼらしくて、とても弱かった。本家であるゴッサム・シティのダークヒーローとは程遠い存在だった。
 おれはおれでバットマンに負けないくらい弱い存在へと成り下がっていた。高校の入学式で仲良くなったおなじクラスのレイカという子に手を出したところ、レイカは二個上のキョウヘイという別の高校の先輩と付き合っていることが分かり、キョウヘイ先輩はそれが許せなかったため、仲間と共謀しておれを呼び出した。おれは市民体育館の裏で結構な人数の奴らに囲まれて、彼らの怒りと嘲笑が入り混じる中でボコボコにされた。その挙句にレイカが妊娠したから中絶費用を持ってこいと二十万要求され、おれはちゃんと避妊していたしそんな額は払えないと断ると、さらにボコボコにされて有り金を巻き上げられた。今まで仲間だと思っていた奴らも悪名高いキョウヘイ先輩に目をつけられるのを恐れておれを無視し始めた。先輩は町のいろいろな交友関係を駆使しておれをいたるところに呼び出しては金銭を要求した。深夜の公園や廃墟になった工場に親の財布から抜き取った金をこっそり持って向かうと、どんどん上の何をしているのかよく分からない怖い人たちが現れて、肉体的にも精神的にもおれを痛めつけてしっかり金は回収していった。そういう人たちに痛めつけられるのははっきり言って本当に嫌なので、体調不良を理由に四六時中ずっと家に引きこもるようになると、両親や祖父母が心配して、おれの一件を学校に相談して大事にしてしまい、危害は家にまで及んできた。キョウヘイ先輩は得意の情報網を駆使しておれの家の場所なんか簡単に割り出してきた。おれの部屋の窓ガラスに石が飛んできてパリンと割れ、その空いた部分から奴らの馬鹿みたいな笑い声とじいちゃんの「コラーッ! この糞ガキども!」という怒鳴り声が聞こえた時、おれはどうしようもない気分に陥り、すこし泣いてしまった。反抗しても、屈しても、彼らの圧倒的チームワークの前ではどちらも結果はおなじで、おれがどうあがこうが地元が大好きなヤンキー主体で動く田舎の強固なパワーバランスは変わることはないのだ。おそらく一生。
 世の中は群れた方の勝ちだ。いくらケンカが強くても数の力には敵わない。おなじような価値観、おなじような格好の奴らが集まって、浮かないように自分を取り繕っている。強い奴らは弱い奴らを遊び半分で虐げる。虐げられる側の気持ちなど微塵も考慮せず、ただ退屈が紛れたらそれでいいのだ。奴らは絶対に一人では行動しない。一人でいれば群れの同調圧力にやられてしまう。だからみんな必死で群れの中では波風を立てないように行動している。そしてその同調圧力からはみ出した者の待つ先には「消える」という選択肢しかないのだ。この町にはおれの味方なんていない。だからおれは自転車で隣町まで行き、河原や公園などあまり人と出会わないような場所で膨大に残された時間を浪費する以外にすることがなかった。いつまでこんな無駄な時間を過ごさなくてはならないのか、考えれば考えるほど恐ろしくなる。高一の夏は途方もなく長く感じた。

 ある夜、なかなか寝付けなかったおれは当てもなく自転車で近所の辺りを徘徊していた。河川敷公園の方まで行くと、駐車場に原付バイクが何台か停めてあるのが見えた。嫌な予感がして引き返そうとした時に、橋の下の暗がりの中にバットマンがいた。バットマンはバスケットコートで五、六人のグループに囲まれて正座をさせられていた。おれは橋の上からその様子を見つめていた。怒鳴り声と笑い声が同居する中、グループの一人がバットマンの持っている金属バットを手に持って振り回し始めた。ギャハハハという仲間たちの笑い声が響く中、そいつはバットマンの頭を目がけてバットを振り下ろした。ゴツン、という重々しい音と共に遠目でも分かるくらい血が大量に吹き出している。「おい、さすがにこれはやべぇって」という声とバタバタスニーカーの鳴る音がして、連中は河川敷から橋の方に上がって来た。おれはすぐに公衆トイレの中に隠れてその場をやり過ごした。そして原付のやかましいエンジン音が過ぎ去ったのを見計らってすぐさまバスケットコートへと下りていった。バットマンは黄色い歯を見せて仰向けに倒れていた。血は青いコートの上にじんわりと溜まっていく。
「大丈夫ですか?」
 おれが声をかけると、バットマンは「えあああお……」と呟いてよろよろと立ち上がり、血の付いた金属バットを握った。そして「えあああああっ!」と叫んでおれの方へとふらつきながらバットを振りかざしてきた。当然そんなへろへろの攻撃なんてまともに喰らう訳がない。おれはスッと横にずれ、バットマンはふたたび地面に倒れ込んだ。それでもバットマンは血まみれのまま奇声を上げておれの方に向かってくる。弱い。弱すぎる。おれはなんだか悲しくなってきて、思わず声を荒げた。
「何なんだよ! 弱すぎんだよ、お前は! 何でバット持ってるのにあいつらに負けるんだよ? 頼むから奴らをぶち殺してくれよ! おれ、お前の気持ちが分かり過ぎて辛いんだわ。いっつも一人きりでさぁ。いっつも今みたいな奴らに立ち向かってるだろ? おれもそうなんだよ。お前はおれの希望を叶えてくれるヒーローなんだよ。あいつら、一人じゃ何にもできないからいっつも群れててムカつくんだろ? ボコボコに殴りたいんだろ? だからもっと強くなってくれよ……頼むわ、マジで。お願いだよ……。頼むから奴らの頭、一人残らずそのバットでかち割ってくれよ……」
 いつの間にか泣いていたおれは鼻をズッと啜り、立ち上がろうとするバットマンの肩を持った。ひとまず安全な場所へ連れて行こうと思った。バットマンはおれの肩を借りながらバットを杖によろよろと頭から血を流したまま河原を歩いた。こつ、こつ、とバットが地面に当たる音が響く。
「ほら、頑張れ。負けるな。死ぬなよ。生きろ。頼むから」
 おれの水色のティーシャツは血で黒々と染まっていく。バットマンの荒い息も、むわっと漂う体臭も、臭くてたまらない。でも今はそれどころではない。
「えはぁ、えはぁ、ぱははぇ」
バットマンはおれの方を向いて、泣いてるのか笑ってるのか分からない声を出した。おれたちは心のどこかで分かり合えた気がした。橋の街灯には蛾や小さい羽虫が群れをなして飛び回っている。おれたちの顔にバチバチと当たるが、痛くもかゆくもない。
「おああああえぇ!」
バットマンは突如金属バットをグッと握り直し、おれの肩から腕を離した。
「行け! 進め! あいつらをぶちのめせ!」
「ばえええぁ!」
 バットマンはそう絶叫して走り出し、しばらくしてゆっくりと前のめりになって倒れた。

 結局バットマンはおれの呼んだ救急車に乗せられて病院に運ばれた。その夜以来バットマンの姿を見ていない。血の付いたティーシャツは確かにあるから夢ではなかったと思う。犯行グループは見つかったのかどうか分からないまま、おれはダンゴムシのようにひっそりと勉強に精を出し、大学進学と共にこの町を離れた。そして頑張って仕事に就き、結婚して子供を育てている。今ではもうずいぶん昔のことのように思えるが、あの時のバットマンのきつい体臭は未だに覚えている。バットマンが結局どうなったのかは分からない。生きているか死んでしまったかも謎のままだ。けれどおれの中のバットマンはもう戻って来ない。不幸の塊のような存在だった自分もいない。誰かを傷つけることよりも誰かを守りたいと思うようになった。おれは無事に立派な大人になった。と同時につまらない奴になった。
おれは時々あの頃のことを思い出して神様に祈る。
「自分より弱い人間が虐げられることがありませんように」
「バットなんかなくてもいいくらい強くなれますように」
「どうか誰も独りぼっちで泣きませんように」
「どうか」
「どうか」

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