エンドレス・パンク

第一回NIIKEI文学賞落選作です。

「僕たちの班は観音寺に行って仏海上人の生涯を学びました。えー、仏海上人は即身仏というのに日本で最後になった人として知られています。即身仏というのは生きながらにして仏になる行為のことで、仏海上人は小さな棺の中に入って水も食べ物もとらずにその中で死ぬまでお経を唱え続けたそうです。身体を腐らせないために漆まで飲んだそうです。そして結果的にミイラになりました。その写真を見せたかったのですが、絶対に撮影をしてはいけないということだったので、えー、なんというかとてもグロかったです。黒っぽい皮膚が骸骨にまとわりついている感じでした。それで僕たちが考えたのは、何がこの仏海上人を即身仏まで駆り立てたのかということです。普通誰だって死ぬのは嫌だし、ましてや食べたいものも食べられないという状況になるのはとても辛いことだと思います。仏になるということがそれほど素晴らしいとは僕は思いません。それがたとえ人のためだとしても死んでしまってはいけないと思います。仏海上人は生前、県に七回も表彰されているとても偉いお坊さんだったそうです。ならそのまま生きて人々の役に立った方が絶対にいいと思いました。僕は仏海上人の気持ちが分かりません。絶対に何か自分はすごいことをしてやろうという名誉欲のようなものがあったんだと思います。仏海上人の行為は宗教上の理由があったにせよ、僕は到底納得できません。即身仏は自殺です。しかも人に迷惑をかけるような自殺でした。明治に即身仏の行が行われたのですが、墓を勝手に掘り起こしてはいけないという法律があって、遺体を取り上げたのは昭和に入ってからだったそうです。自分の名誉欲のために後世の弟子たちにまで迷惑をかけるのはどうかと僕は思いました。そんなにも人を動かす宗教について僕はあまり知りませんが、戦争とかも宗教が絡んでいるみたいだし、やはりすこし距離をとって接していかなければいけないと思います。もちろん信教の自由というのは憲法で保障されてはいますが、人に迷惑をかけるような行動は慎むべきだと思います。ということで仏海上人はとても理解しがたい行為をとりましたが、まあ、それで観光客とかも来るなら、それはそれでいいのかもしれないと思います。これで僕たちの発表を終わります。ありがとうございました」

 学年集会での総合学習の発表が終わってから、俺はすぐに金子先生に職員室へと呼び出された。「あの発表は、なめているのか?」俺は「なめてなんかいません」と答えた。すると金子先生は俺めがけてビンタをくらわした。耳がキーンとして、頬が熱くなった。「てめぇ、何するんだよ!」俺はすぐさま殴り返した。金子先生の分厚い眼鏡のレンズが吹き飛んだ。俺は金子先生のネクタイを掴んだ。明らかにケンカをしたことがないひ弱な金子先生はそれでもビンタをしてこようとする。金子先生が三発、俺が四発顔面を殴ったところで周りの先生たちに制止された。俺はすぐさま生徒指導室に連行され、二週間の停学が決まった。荷物を取りに教室へ戻ると、五十嵐や丸山が俺の方を向いて、「どうだった?」と聞いた。「最悪。二週間停学くらった」と言うと、クラスに歓声が起きた。「金子、ムカつくもんな」「よく殴ったわ、三年の秋に」俺は「まあ、殴られたら殴り返すわな」と鞄を肩に担ぎ、教室を後にした。金子先生は病院に行ったらしく、俺は生活指導の山本の車で家まで向かった。玄関口で母親と三者面談のような形になり、外出禁止と反省文の提出を言い渡された。母親は「申し訳ありませんでした」と頭を下げ、俺も促されるように頭を下げた。「毎日面談には来るからな」と山本は厳しい眼光で俺を睨んだが、俺は別にどうでもよかった。むしろ自由に勉強できる環境ができて有難いぐらいだった。西暦二〇〇〇年の秋のことだった。

 俺は反省文を教師の心に響くような感じで書き上げた。イヤホンからはセックス・ピストルズが流れている。別に俺は総合学習でウケを狙ったわけではなかった。宗教にすがるのはクソだと思っていたし、即身仏なんて馬鹿げていると思ったのも嘘ではない。しかし、金子先生が自分を殴ったのは意外だった。金子先生は英語の教師で、いつも刈り上げの部分にフケを付けているような気持ちの悪い奴だ。中学生では到底理解できるはずのないレベルの英語をべらべら流暢に話し、みんながポカンとしている様子を分厚いレンズ越しに見て悦に浸っているような、そんな教師。たまに学校に来る奥さんが若くて美人で、それも嫌われている要因の一つでもあった。噂では元教え子だったという説もある。明らかに不釣り合いだ。五十嵐は奥さんのファンで、ケータイのデータに金子先生の奥さんの写真を入れている。まあ、金子先生を殴ったのはちょっとやり過ぎたかもしれない。今の時期の停学は受験にも間違いなく影響するだろう。でも何故金子先生は俺を殴ったのだろうか。その理由はちょっと知りたかった。普段体罰とは無縁のタイプの人間なのだが、何故あの時に俺にケンカを売るような真似をしたのだろうか。


 二週間の停学を終え、俺は学校に戻った。五十嵐や丸山が「お勤めご苦労様です」とジュースをくれた。「やめろって」と俺は笑った。「金子はどうしてる?」と俺が訊ねると、「あれ、聞いてないの?」と五十嵐は意外そうな顔をした。

「金子、学校辞めたよ。辞職願出したみたいで」

 俺は思わず「は?」と口が歪んだ。意味が分からない。そういえば何で家に来ないんだろうとは思ったが、まさか辞めているとは。丸山が「まあ、気にすんなよ。あんな奴、辞めて正解だよ」と俺の肩に腕を回した。「そうそう。絶対あいつ犯罪犯すタイプじゃん。奥さんもなんかクスリとかで弱み握って結婚まで持ち込んだんだって」五十嵐がニヤニヤと笑っている。俺は「まあ、そうか。俺が制裁を食らわしたってことだよな」と口ではそう言ったが、やっぱり心のどこかでは腑に落ちなかった。俺のせいじゃん。俺のせいで金子の人生狂ったじゃん。

 俺は内申点が良くないのは分かっていたので、入試の成績を重要視する高校を受験し、無事に受かった。五十嵐は工業高校、丸山は私立の高校に進学した。


 高校ははっきり言って退屈だった。毎日毎日勉強漬けで、家に帰っても予習や復習に時間をとられる。周りの生徒はなんだか気持ちの悪いオタクみたいなのばっかりで、すこし俺みたいな空気感の奴らもいたが、所詮は家が金持ちのお坊ちゃまみたいな感じだった。俺は早々に授業についていけなくなり、補習もサボり、すっかり学校で浮いた存在になってしまった。五十嵐や丸山たちは高校で友達ができて付き合いが悪く、俺は行き場のない怒りと倦怠感から、よく海まで自転車で向かった。イヤホンからは相変わらずセックス・ピストルズが流れていた。武家屋敷や商人街がキングズ・ロードに変わるはずもなく、秋になれば鮭の生臭いにおいが漂うこの町に、俺は何の希望も見出せなかった。海が見たくなるのはそこに可能性みたいなものを感じるからだ。日本海の寂しい風景を見て、でも海は世界と繋がっていると考えることで、一縷の希望みたいなものを感じることができた。日がな一日海辺に座り、煙草が吸いたくなったら公衆トイレに入った。アンモニア臭い個室はなんだか落ち着いた。誰も自分を見ていないと感じることで、この町の人間とは違う、俺は絶対にこの町を出ていく、と思えた。

 高三の時の進路はもちろん東京にした。なんとか授業にも出て、勉強した。受験期の教室は息をするだけでもしんどくなる。休み時間なのに参考書と向き合う奴らを見て、俺は既に場違いだと思うようになっていた。

 初雪が観測されて、鬱屈とした冬が始まるという時に、金子先生が自殺したと知らされた。庭の柿の木の下で首を吊ったらしい。俺はものすごく腹立たしくなった。俺のせいなのか。ぜんぶ俺の責任なのか。殴ってきたのは金子の方だろう。なんで生きている俺が苦しまなくちゃいけないんだ。もちろん葬儀には行かなかった。奥さんはどういう心境なのかは気になったが、遺影を見たらきっと怒りしか湧かないだろうと思った。

 

東京に来てみて、その人の多さと路上のゲロの多さと空の狭さにびっくりした。周りの大学生たちはまったく似合っていない茶色い髪を自慢げにいじっていた。俺の姿を見ると、明らかに委縮した目で道を譲る。それもそうだろう。俺は頭をモヒカンにして、耳にはピアスをじゃらじゃら付け、ぼろぼろのモッズコートを着ていたから。大学デビューという訳ではないが、やはり人とは違うと思われたかった。話しかけてくる奴もおらず、サークルにも入らず、講義も退屈で、俺はアパートにこもりがちになった。隣の部屋は夜になると必ずと言っていいほど宴会が始まる。アパートの異常に薄い壁からその奇声は耳を刺激して、俺はイヤホン無しでは生活できなくなっていった。バイトもなかなか見つからなかった。見た目だけで落とすようなところばかりだった。ようやく見つけた居酒屋のキッチンのバイトで、俺はミスを連発した。先輩からの言葉は耳には入っているが、頭には入って来ない。ぼんやりとしていて注文を間違え、繁忙期には邪魔だと蹴られ、結局クビになった。もうどこに行っても俺の居場所はなかった。その辺りになると、周りが全員敵に見えてきた。なんでこいつらは俺がこんなに辛いのに笑っていられるのだろう。なんで俺の嫌がることしかしてこないんだろう。ある日唯一の味方だったイヤホンから機械の音声みたいな声で、死ね死ね死ねお前はすぐに死ねみんなそう思っているお前の行動はみんな手に取るように分かっているだから死ね早く死ねという言葉が聞こえてきた。俺は絶叫して耳を塞いだ。それでもなお聞こえてくるその声は止むどころかますます俺の脳みそを支配していき、声は二重三重に増幅していき、俺は居ても立ってもいられず裸足でアパートの外に飛び出した。

「救急車! 救急車!」

 俺は叫んだ。しかし道行く人は俺の姿を見るなり眉をしかめて立ち去っていく。伸びたモヒカンは乱れ、ぼろぼろのティーシャツとジーンズには耳を押さえ過ぎてピアスホールから出た血が付いている。こんなにも苦しんでいるのに誰も助けてくれない。もうこの世に味方はいないのか。俺が死んでもどうでもいいのか。俺は都会の人の冷たさに絶望して裸足のまま歩き、ようやく病院を見つけたのでそこに入った。受付の人に事情を話した。すぐさま看護師たちが来て、俺は処置室に寝かされた。医者が来て「この格好で来たの?」と半笑いを浮かべ、目をペンライトで見られた。「とりあえず今は鎮静剤打っておくから。落ち着いたら今後のことを親御さんと話すからね」と俺の腕に注射針を刺した。幻聴は次第に耳鳴りに変わっていき、俺はすこしだけ休むことができた。数時間ほどで点滴は終わり、精神病院への転院を勧められた。「今親御さんの連絡先分かるかな?」俺は母親のケータイの番号を言った。医者はそれをメモしてまた部屋を出ていった。「今日はひとまずここで過ごしてもらうよ」俺は患者用の寝間着に着替えさせられ、スリッパを履いて個室の病室へと歩いた。足の裏を何かで切ったらしく、ベッドのシーツに血が滲んでいた。夜に「お母さんから電話ですよ」と看護師が子機を持ってきた。母親は意外と冷静だった。「とりあえずあんたのアパートまで行くから。あんたはとりあえず寝てなさい」消灯時間が来て、俺は渡されていた薬を飲んだ。夜の病院は初めてだった。ジーン、と空気が音を立てて流れている感じがする。不思議と今は絶望していない。むしろ助かったと思っている。俺はしばらくアパートで眠っていなかった。ようやく清潔なシーツの上で眠ることができる。瞼が次第に重くなってきた。俺は枕にうつ伏せになり、朝まで眠った。

 昼頃に母親は病室に来た。「あんたのアパート、換気してなかったでしょ? もうタバコ臭くて臭くて」俺はぼんやりする頭で母親のキンキンする声をどこか懐かしく聞いていた。

「大学、どうしよう。やっぱり休学かな?」

「当たり前でしょ。こっち帰ってしばらく休みなさい。ゆっくり休んで、また一年生の気分でやり直しなさい。もう、バカみたいな頭して」

 俺は母親に付き添われてアパートに戻り、大学に休学届を提出した。そして二日後新幹線で実家に戻った。実家の自室はきれいに片付けられていて、ホッとした。病院から紹介状をもらっていたので、市内の精神病院へと通うことになった。待合室には異様な感じの人たちがいて、自分も他人にはこう見えてるんだろうなと思った。心理テストのようなものを四時間ほど受け、頓服をもらってその日は帰った。後日、医者の口から統合失調症であるとの診断が下った。「しばらく投薬治療という形になると思います」と告げられて、俺はぼんやりと遠い星のことのようにそれを聞いていた。この辛さに当てはまるものがあって、かえって安心した。薬は朝や夕食後、寝る前といろいろ出された。聞きなれない薬の名前に俺は困惑した。それから月に一回病院に通う日々が続いた。季節は夏から秋に変わろうとしていた。

 夕方、ベッドで寝ていると、ぐらっと床が揺れる感覚があった。薬の副作用かと思ったが、どうやら地震のようだ。揺れが収まってから一階のリビングに向かうと、母親が「ちょっとすごいことになってる」とテレビを指さした。川口町で震度7を観測していた。被害の状況はまだ分からないという。「こっちは何ともなくて良かったけど、これは大変ね」地震の様子は日を追うごとにはっきりとしてきた。何十人も死者が出た。建物が壊れた。避難所で暮らさざるを得ない人たちの様子が流れた。しかもおなじ新潟の中でだ。俺は目に焼き付けるようにテレビを見つめた。

 冬になり、体調的にも落ち着いてきた俺は街中を散歩することが日課になった。湿った雪は自分を殻に閉じ込めてしまう。それが嫌で意地になって長靴を履いて出かけた。三面川には今日も小さな舟が出ていて鮭を獲っている。もう戻ることはないと思っていた故郷に自分はいる。鮭は本当にこの川に戻りたかったのだろうか。別の場所の方がいいと疑わなかったのだろうか。コンビニの辺りでふとどこかで見た顔があった。それは金子先生の奥さんだった。顔はすっかり頬がこけていたが、佇まいは昔と変わっていない。俺は近づいて「僕のこと知ってますか? 渡辺といいます」と言った。先生の奥さんはすこし驚いた表情をして「ええ。主人からよく伺ってました」と笑った。

「今もこの辺に住んでるんですか?」

「そうですね。今もこの辺です。渡辺くんは今どうしてるの?」

「僕は今東京の大学の一年生です。今は休学してますけど」

「そうなのね」

「金子先生のことはとても残念でした。僕のせいですよね」

「そんなことないですよ。良い生徒だってよく言ってましたし」

「でも、それなら自殺なんてしてないですよね? 僕のせいですよ」

「いえいえ。あの人は昔からいろいろ抱え込んじゃうタイプだったんですよ。少しずつ溜まってきた水がちょうどコップから溢れるみたいなもので……。本人は小石につまずいたって言ってたけど」

「小石?」

「そう。普通の人ならぜんぜん気にも留めないような小石に自分はよくつまずくんだって。だから僕は生きるのが下手なんだって。よくそう言ってたよ」

 何かその時に俺は金子先生に共鳴するものがあった。普通の人が気づかなかったり、無いものとして扱っている事柄に、俺はものすごく苦痛を感じているのかもしれない。

「奥さん」

「何? どうかした?」

「俺、今精神病になっちゃって休学してるんですけど、俺みたいなのでも教師ってなれますかね?」

 先生の奥さんは嬉しそうに「きっとなれるよ。いい先生に」と笑った。「これ、あげるね」と俺に缶コーヒーをくれた。車に乗った先生の奥さんが見えなくなるまで俺は手を振った。俺は先生の奥さんのことが好きかもしれないと思った。

 それから俺は生まれ変わった。髪を切り、ピアスを外した。煙草も止めた。病気で元のように勉強ができるわけではなかったが、休み休み家で大学の講義の分の遅れを取り戻していった。四月に復学してからは教職の講義をとり、図書館で勉強漬けの日々を送った。そのおかげもあり、俺は一年前に落とした単位の分を取り戻し、優秀だと教授に褒められた。相変わらず通院はしていたし、メンタルには好不調の波もあったが、それでも目標ができるとやる気が違った。

 成人式の案内が来たと実家から連絡があり、俺は出席することにした。父親の車で会場に向かった。

「おお、五十嵐。久しぶり」

「ああ。渡辺か」

 五十嵐はどこか怪訝な目でこっちを見ている。五十嵐は白い袴を着ていて、眉毛は中学の時よりも細くなっている。

「お前、大変だったな。聞いたよ、なんか病院通ってるって」

「うん。でも今はぜんぜん大丈夫だ」

「ふうん」

 丸山が「五十嵐、呼んでる」と声をかけた。五十嵐は俺の方をちらっと見て「またな」と言った。丸山は茶色い長髪を垂らし、指にはごつごつした指輪をたくさん付けている。

「渡辺、お前ダサくなったな」

 俺は窓ガラスに映る自分の姿を見た。親戚から借りてきた紺色のダブルのスーツに、坊主が伸びて角刈りっぽくなった頭、大きな銀縁の眼鏡。確かに言われてみれば親戚のおじさんみたいな見た目かもしれない。

「お前、大学休学したんだって? 俺でも今二年生だぞ。大学の授業なんて普通に出てたら単位とれるぞ」

「まあ、そうだけど。俺、精神病になったからさ、好不調の波があって」

「大変だな。まあ、でも治るもんだろ?」

「治るかは分からない。一生治らないかもしれない」

「まあ、難しく考えるなよ。人生まだまだ始まったばかりだしな。飲み会には来るだろ?」

「いや、薬飲んでるから酒は飲めないんだ」

丸山は「つまんねぇなぁ~」と俺の肩を叩いて向こうに消えていった。その後の市長のあいさつや記念撮影で俺は疲れ切り、早々に父親の車で会場を後にした。「楽しかっただろう? 久々に友達に会えて」「うん……」俺は家に戻るとスーツを脱いで、イヤホンを耳に付けた。激しい曲を聴くと幻聴が聞こえそうなので、最近は勉強していても流せるジャズやクラシックを聴くようになった。さっきの五十嵐や丸山の言葉を反芻する。俺はつまらない奴になったらしい。つまらない奴に時間を割くほどあいつらも暇ではないだろう。もう奴らとつるむことはないだろうと思う。たとえこの町に戻ってきたとしても、もう価値観が違い過ぎる。俺は次の日の新幹線で東京に戻った。


教育実習でまた中学に戻ってきた。俺は中学の英語の教師になろうと思っていた。いつしか金子先生とおなじ道を歩み始めていた。生活指導だった山本は教頭先生になっていた。「まさかまたお前と会うことになるとはな」すっかり禿げ上がった山本の頭頂部を見つめながら、俺は「精一杯頑張ります」と頭を下げた。教育実習は思いのほか楽しかった。同時期に研修に来た人たちともうまくやることができたし、生徒に何かを教えるというのはやりがいのあることだと思った。まだ中学生は大人になり切れていない感じがして、その幼さを可愛いなと思えるようになった。他の先生が生徒からラブレターをもらった時には冷やかしたりする余裕もあった。遅くまで残ってプリントを作るのも、指導する先生に怒られることも、何か充実したものがあった。


隣町の中学校から採用通知が来て、俺は実家暮らしを始めた。病院はまた転院することになったが、一度来たことがあるので戸惑いはなかった。薬は少しずつだが減らすように医者に頼んでいた。「だいぶ良くなってきましたね」と医者に言われるほど体調も落ち着いた。

教師の仕事は楽しかった。最初生徒手帳を作る時に、顔と名前が一致せず、非常に手間のかかる作業だとは思ったが、生徒のことを考えると苦ではなかった。俺は一年目から担任を任され、授業もなるべく生徒が興味を持つような話題を考えて行った。それは今流行っている歌や漫画の英語の部分の解説だったり、有名なセリフの英訳だったりした。ウケると手ごたえを感じたし、それをテストに出してみたりして自分なりに楽しい授業にしようと心掛けた。しかし、時は無情なまでに過ぎ去っていく。生徒と関われても三年しかない。その間に問題を起こす生徒がいて、その保護者や学年主任や生活指導の上司に頭を下げた。クラス内のいじめは毎年のようにあった。学校が変わっても、それはおなじだった。毎年毎年それを経験していくと、本当にこいつらは何を考えているんだろうという思いに駆られるようになった。自分の身体の中に黒くてどろどろとした漆のような液体が溜まっていく感覚。それは冷たく心を冷やして、脳の働きや感情の起伏を鈍麻させていった。いつも同じことの繰り返しのように感じ、ただそこを過ぎる名前と顔だけが変わっていった。初めは痩せていた俺も、どんどんと肉が付き、顔は弛み、髪の毛は薄くなっていった。


地震も、豪雨も豪雪も、マスク生活も、時が過ぎれば何も感じなくなった。二〇二三年の秋になり、俺は三十八歳になっていた。

仕事の帰りに車に乗っていると、コンビニの前で金子先生の奥さんを見かけた。隣にいるのは誰だろうと思い駐車場に入ると、それは五十嵐だった。俺は一度車を降りて、店内に入った。五十嵐は黒い上下のスウェットを着ていて、金色のネックレスを首にぶら下げている。金子先生の奥さんは相変わらずきれいで、顔がすこしふっくらしたように思えた。

「久しぶりです。渡辺です。覚えてますか?」

 先生の奥さんは「ああ」と呟いて会釈をした。その脇には五十嵐が立っている。

「二人はどういう関係?」俺は訊ねた。

「ああ、結婚したんだよ。誰かから聞いてない? もう子供もいるよ」

「え? そうなんだ。こっちで暮らしてるのか?」

「今は柏崎にいる。今日はちょっと実家に用事あってこっちに来てるけど。五十嵐はどうなの? 教師やってるって聞いたけど」

「うん、まあ、なんとかやってるよ」

「大変だな。まあ、頑張ってくれ」

 五十嵐は先生の奥さんの隣を歩き、黒いアルファードに乗って行ってしまった。五十嵐が先生の奥さんと結婚したとは誰からも聞いていない。ファンの域を出ないと思っていた。それが結婚までこぎつけるとは思いもよらなかった。俺には友達も恋人もいない。ろくに恋愛もしないまま、この年になってしまった。その時漆のような液体が身体中を駆け巡った。脳がぐるぐると毒に酔い、すべてが遥か遠くに霞んで見えた。落ち着け。冷静になろう。俺は久しぶりに煙草を吸おうと、セブンスターと百円ライターを買った。雪がちらちらと舞っている。だいぶ早い初雪だ。雪は積もることなく道路に落ちては黒く水に変わっていく。コンビニの脇の喫煙スペースで煙草に火を点けた。頭がくらくらした。

家に着いた時にスマホが鳴った。生活指導の斉木からだった。

「あー、もしもし。渡辺先生の受け持ちの小林がCD万引きして店から呼び出しくらってるんですよぉ。すぐに来てもらえませんかぁ?」

 俺は「分かりました」とふたたび車を郊外の方へと走らせた。もう、どうでもいいや。

 店の休憩室のパイプ椅子に小林は座っていた。目には涙を浮かべている。もう小林の母親も斉木もそこにいて、店長と思われる制服姿の男が腕組みをして立っている。

「失礼します。担任の渡辺と申します。この度は本当に申し訳ありませんでした」

 もう慣れたもんだな、と思った。とりあえず頭を下げておけば大事にはならない。しかし店長は警察に連絡すると言って聞かない。

「防犯カメラを確認したら、だいぶ前から常習的に盗んでたみたいなんですよ。捕まったのは初めてですけど、前からマークしてて。ね?」

 店長は小林を睨んだ。小林はこくん、と頷いた。テーブルの上にはセックス・ピストルズのCDが載ってある。俺は小林の前に座った。

「これ、盗もうと思ったのか?」

 小林は頷いた。

「本当に欲しいと思ったのか?」

 また頷く。

「いいか? お前は最低なことをした。要するにクソだ」

 小林の母親がハッとした表情を浮かべる。

「このアルバムはクソだ。だいたい中学生の時に聴く音楽なんてのはぜんぶクソだ。将来になんの役にも立たない。むしろ害悪でしかない」

 黒い液体が全身を駆け回る。もう止まらない。

「いいか? お前にとっては小石につまずいた程度の出来事かもしれない。でもその小石を一つ一つお前の歩く道から拾い上げるのは俺たちなんだ。たとえどんなに小さな石でも命取りになる可能性だってある。俺は毎日毎日お前らの相手をして、もううんざりしている。好きでやっていると思うか? 好きでお前みたいなクソ相手に仕事終わりにここまで来ると思うか? そんな訳ねぇだろ。お前がクソだからこうして汚ねぇケツを拭きに来てるんだよ」

 斉木と小林の母親が「もうその辺で……」と言うのを俺は無視して続けた。

「ムカつくか? クソの癖にクソって言われるとムカつくか? じゃあ殴ってみろよ。ほら、早く。グーで殴れよ。ムカつくんだったら。じゃあ俺が殴ってやろうか?」

 俺は小林の頬をビンタした。バチン、という音が部屋に響く。

「ほら、どうだ痛いか? 早く俺を殴れよ。殴らねぇともっと殴ってやる」

 俺はビンタを続けた。二発、三発と続けた。小林は頬を押さえ、涙目で俺をじっと見ている。

「殴れって言ってるのが聞こえねぇのか? ほら、グーで来いよ。早くしろ!」

 小林は俺の頬を撫でるようなパンチを出した。

「何するんだよ!」

 俺は小林をグーで殴った。斉木と店長が俺を制止する。

「クソがっ! これで分かっただろう、お前も俺も同罪だ。どっちもクソだ。クソ以下だ!」

 俺はCDを手に取って床に投げつけた。ガシャン、とケースが割れて、中からCDと歌詞カードが出てきた。

「今どきのガキがCDなんて盗むな! サブスクで十分だろ! これは俺ぐらいのおっさんのもんなんだよ!」

俺は壊れたCDを拾い、部屋を出た。店長が「ちょっと!」と肩を掴んだが、俺はそれを振り払って逃げた。もう何もかもが真っ黒で、目に入るもの、耳に入るものすべてが俺の敵だった。俺は走って車に乗り込んだ。そして海岸沿いの国道を猛スピードで北上した。もうこうするしかない。行くべき場所は決まっていた。やるべきことも決まっていた。海は真っ黒で、か細く降る雪を飲み込んでいく。

 着いたのは高校時代に入り浸っていた公衆トイレだった。俺はCDと鞄を持って個室に入った。iPodの電源を入れ、イヤホンを付ける。もう何百回も聴いたアルバムの五曲目をフルボリュームでかける。俺はCDの歌詞カードを見てその曲を歌った。


God save the queen

The fascist regime

They made you a moron

Potential H-bomb


仏海上人を小馬鹿にした総合学習のことを、金子先生を殴ったあの日のことを、漫然と退屈な日々を送った高校時代を、裸足で走った病気になった日を、教師になろうと決めたコンビニの前のことを、仕事に燃えていた新米だった頃の自分を、中学生のことが分からなくなった教師としての日々を、五十嵐と金子先生の奥さんのことを、そしてCDを盗み生徒を殴ってこれから逮捕されるであろう自分のことを、俺はぜんぶひっくるめてクソだと思った。過去がクソなら、未来はもっとクソだ。久しぶりに聴くジョニー・ロットンの歌声はそう言っているように思えた。


No future no future no future for you

No future no future no future for me


 俺は持っていたすべての精神薬を便器の水で飲み、カッターで手首を何度も切りつけた。血でべとつく腕を下ろすと、次第に眠くなってきた。残されたわずかな時間を俺は無言のまま煙草を吸って過ごした。


 先生、俺、今あなたの気持ちがよく分かります。先生も辛かったんですね。俺、教師になりました。先生とおなじ中学の英語の教師に。でも中学生のことなんて一つも分からなくなりました。俺も中学生だったはずなのに。ここは狭くて暗くて冷たいです。漆を飲んで棺に入った仏海上人もおなじ心境だったのかもしれませんね。今でも時々何で先生に殴られたかを考えることがあります。先生はたぶん仏海上人と自分を同一視していたんじゃないかって。自分の未来を犠牲にしてでも、間違った道を歩く俺を救おうと殴ったんじゃないかって。今俺は未来が怖くて仕方ないです。単調で、面白いことなんて一つもなくて、ただ疲労と苦しみだけが黒くなって溜まっていきます。俺も生きるのが下手だったんです。小石につまずいてしまったんです。先生、もうすぐそっちに行きます。今ならいろいろ楽しくやれそうな気がする……


“Are you kidding? You have a fucking future!” 金子先生は舌を出して中指を立てた。


「先生!」

 俺はベッドから起き上がった。左手首にはぐるぐると包帯が巻かれ、赤く尖った痛みがある。胃と喉がヒリヒリとものすごく痛い。

「ああ、目覚めたんですね。よかったよかった」

 年配の看護師さんが俺の方を向いて言った。突然腹がぐう~っと鳴った。

「あら、おなかが空いてるのね。ちょっと待っててくださいね」

 看護師さんは俺におかゆを持ってきた。銀色の皿に梅干しがちょこんと一つのってある。「ゆっくり食べてね」と言って看護師さんは病室を出ていった。真っ白なおかゆはうっすら湯気を立てていて、ほんのり甘いにおいがした。窓は白くて淡い光でいっぱいで、暖房の効いた病室は暖かい。その当たり前のような温もりに、そのなんともなさに、俺はぼろぼろと涙をこぼした。薬の副作用で震える手で一さじ一さじゆっくり食べた。スプーンが皿に当たる音だけが病室に響く。いずれ警察が来るだろう。それまでおかゆを食べよう。これから待っている最低でクソな未来も、黙って受け入れる。人生は続く。未来は、ある。

最後までお読み頂きありがとうございました。今確認したら、もしかして字数オーバーだったんじゃないかと…(1万2000字以内の規定)。パソコンの表示はぎりぎりだったけど、noteの表示は200字ほどオーバー。まあ、そんな凡ミスも含めてまだまだ甘いですね。これからも書き続けるので、応援よろしくお願いします。對馬考哉

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