二匹

第5回阿波しらさぎ文学賞一次選考落選作です。

 車を停めようとしたときに、光るものがあった。よく見ればそれは二メートルほどもある大きな水槽であり、中には自転車のチューブのような魚がいる。今日家を出た時にはこんなものはなかった。俺は家の中に入り、妻を呼んだ。
「庭の、あの水槽は何?」
「あれはオオウナギだよ」
「なんでそんなのがうちにいるの?」
「徳島の親戚が釣ったんだって。母川って川で。天然記念物らしいよ」
「天然記念物を勝手に飼っていたらまずいんじゃないの?」
「バレなきゃいいんじゃない?」
 二週間前、俺の浮気が妻にバレた。「浮気してるでしょ?」と後ろから肩を叩かれた。言い訳もなく、俺は謝罪の言葉を述べた。妻は「別にいいんじゃない? そういう気分だったんでしょ?」とすんなり受け入れた。それがかえっておそろしく感じた。「バレなきゃいいんじゃない?」という言葉が、俺への皮肉のようにも聞こえる。
「水槽はどこで買ったの? ああいう水槽って高いんじゃないの?」
「その親戚に譲ってもらったのよ」
「そうか。でも勝手に譲り受けちゃいけないな。俺に相談してからでも良かったのに」
「あなたに相談しても断られるに決まってるもの。私は大きい動物を一度飼ってみたかったの」
 珍しいと思った。出会ってから今まで、妻は自分の願望を口にすることがほとんどなかった。いつも自分より俺の言うことを優先し、尽くしてきた。その代わり、俺に対して一度も嫉妬や愛情表現をすることがなかった。時折、本当に俺のことが好きなのだろうかと疑いたくなるくらいで、もちろん看病をしてくれたり、プレゼントをくれたりしたことはあったが、今日に至るまで明確にはっきりと愛情を感じる言動をとることはなかった。俺はどんどん空恐ろしくなり、仕事場の後輩との情事に走ってしまったのだが、妻はむしろ今までより機嫌がいいように思える。なので今回のオオウナギの件は何か俺に対する復讐なのではないかと考えてしまう。
「名前は? もう決まったの?」
「うん。ブライアンっていうの」
「ブライアン? またずいぶん洋風な名前だね。何かのスポーツ選手からとったの?」
「ううん。一目見て決めたの。これはブライアンだって」
「するとこいつは男なんだね?」
「分からないけど、なんかブライアンって感じがしない?」
 ブライアンは何も考えてなさそうな目をして口を半開きにしている。

翌朝、あまり眠れなかったせいで早く目が覚めた。妻は鏡台の前で口紅を塗っていた。妻が化粧しているのを久しぶりに見た気がする。介護の仕事だし、どうせマスクをしてしまうのだから口紅など関係ないのに、わざわざ塗る意味が分からない。妻は俺がいることなどまるで気に留めないように、唇を軽く開いた。濃いピンク色の唇がどこか南国の植物の花びらを連想させる。
「ブライアンは何を食べるんだ?」
「小魚じゃないの?」
「それじゃあ捕ってこないとな」
「あなた、捕ってきてくれる?」
「俺は仕事があるよ」
「私だってこれから仕事だよ」
「じゃあ帰りに川で捕ってくるよ。でもあまり期待するなよ」
「よろしくね、あなた」
 妻は俺のことを「あなた」と呼ぶ。別に嫌なわけではない。しかし妻は昔の男のことを名前で呼ぶ。それはブライアンのような突飛なあだ名なのだが、妻はさも当然のようにそれを口にする。何故俺にはあだ名を付けないのか、聞いてみたことがあった。「あなたには関係のないことでしょう」と言われた。するとブライアンのような突飛なネーミングを、昔の男には付けていて、俺には一切しないという点で、俺は妻に特別視されているのかもしれない。しかしあだ名は親しい人に対してつけるものだろうから、俺は妻にとって親しい間柄ではないのか。ならば何故結婚にまで至ったのか。妻は「じゃあブライアンをよろしくね」と言って玄関から出ていった。俺はきちんと用意された朝食を一人で食べて、仕事に向かった。

網を持って川辺まで来た。芒がぼうぼうと生えていて腕を切った。網を水面に入れて、泥を掬って持ち上げると、小鮒一匹と泥鰌が三匹入っていた。あの大きな身体なのだからこれだけでは足りないかもしれない。しかしひとまず餌は捕れたので、俺はバケツに小鮒と泥鰌を入れて家に帰った。庭に妻の姿があった。水槽に手を入れている。
「ブライアンは元気?」
「あまり動かない。大人しい。寒いからかな」
「さっき小魚を捕ってきたよ。食べるかどうか」
「ありがとう」
俺は水槽に小魚を放した。ブライアンは動かないで鰓をパクパク動かしているだけだ。
「なんで食べないんだろう」
「きっと見られて恥ずかしいのよ」
 妻はピンク色の爪をブライアンにぎゅっと食い込ませた。うふふ、と笑って人差し指でブライアンの肌をいたずらっぽくいじっている。
「ほら、ぬるぬるするのよ。気持ちいい」
 妻が私の鼻先に人差し指をちょん、と乗せた。不快な感覚がして思わず「やめろよ」と言って後ろに下がった。妻はうふふ、と笑ってまた水槽に手を入れた。

芒で切った腕の傷に絆創膏を貼っていると、不意に妻の部屋着が目についた。カーテンレールの上にハンガーで吊るされている紺色のLeeのパーカーが、反対から読んだときにeelとも読めることに気がついた。鰻は英語でeelだ。庭から帰ってきた妻にそのことを伝えると、「考えすぎだよ」とそっけなく言われた。確かに俺は考えすぎている。しかし何を考えているのか自分でも分からない。
「傷、早く良くなるといいね」
 妻は洗面台からそう言った。詮索はしないが、妻は何かを隠している。いや、隠しているものをだんだん開放しているように思える。オオウナギを飼うことになってから開き直ったようにどんどん妻の表情が明るくなる。

朝になり、ブライアンのいる水槽に行ってみると、小魚がまだ泳いでいた。小鮒も泥鰌も一匹もへっていなかった。ブライアンは呆けたような顔でじっとしている。小魚たちが口元の真横を通っても我関せずといった感じだ。俺は水槽をとんとん叩いてブライアンの気を引こうとした。すぐ後ろから妻が「食べてた?」と声をかけた。いつもとにおいが違っているような気がする。いいにおいというわけではなくて、何か別の場所にいた時のような、かすかなにおいの変化だった。勘違いだろうか。俺は今の妻を信用できていない。
「ぜんぜん。やっぱりまだこの水槽になじんでないのかな」
「そうかもね」
「昨日ネットで調べたんだけど、オオウナギは蟹が好きらしいんだよ」
「じゃああなた、蟹を捕ってきてよ」
「でも、蟹はどこにいるの? この辺にはいないと思うけど」
「頑張ってよ」
「じゃあペットショップに行って買ってくるよ」
「分かった。よろしくね」
 妻は白いレースの付いた靴下を履いていた。職場用のベージュのズボンの裾から、スッとそれが目に入る。いつもこんな靴下を履いていただろうか。
「じゃあ行ってくるね」
 妻は颯爽と車に乗り込んだ。ステレオから英語のヒップホップが鳴る中、妻は一瞥もくれずに会社へと向かっていった。妻が普段ヒップホップを聴いているなんて今日初めて知った。
 仕事の帰りにペットショップで沢蟹を買った。一匹三百円だった。三匹買ってブライアンのいる水槽の中に放り込んだ。妻が大きな動物を飼いたいと始まったのに、いつの間にか俺の方がブライアンの世話をしている。
「いっぱい食えよ」
 俺はブライアンの水槽を軽く叩いた。リビングに入ると、妻がパソコンに向かっていた。
「OK. See you again」
 妻は流暢な発音で英語を話している。一度二人でハワイに行ったことがあるが、その時は確か妻の英語は流暢なものではなかった。
「誰なの? 会話しているのは」
「ああ、英会話の先生。最近習い始めたの」
 妻がどんどん変わっていく。ブライアンは英会話の講師の名前ではないか。俺への当てつけで浮気をしているんじゃないか。俺の頭の中に大きな外国人の男の姿が浮かんだ。
「蟹、買ってきてブライアンの水槽に入れておいたよ」
「ありがとう。食べてた?」
「いや、ぜんぜん」
「そう。やっぱり寒いからかな」
 窓ガラスには霜がおりていた。

雪がちらついてきた。ブライアンは水槽の隅でじっとしている。あれからブライアンは何も食べていない。餌はちゃんと水槽に放っているのだが、小魚も沢蟹も変わらずにいる。ヒーターを入れればいいのだろうが、庭には電気が通ってないため、それも難しそうだ。なんだかブライアンに自分の姿を投影してしまう。妻に気に入られたのはいいものの、溺愛はされずに、しかし生きていけるだけのことはされているというか、何か満たされないような日々を感じている。別に生きてはいるし、何も問題はないのだが、妻が他の事に気を取られているうちに見殺しにされるのではないかという、変な不安感が募ってきている。妻はたまにブライアンに触って、心配こそしているものの、餌の調達は依然として俺の仕事だ。
「生き抜こうな。春になればきっと大丈夫だ」
 
 雪が積もった日、ブライアンは仰向けになって水槽の底に沈んでいた。目は白く濁り、もう生きていないのが分かった。妻は先に家を出ていた。このことは分かっていたのだろうか。俺は手を合わせて会社に向かった。
 家に帰り、妻にブライアンが死んだことを告げようとリビングに向かった。妻は揚げ物をしていた。
「ブライアン死んだの分かってた?」
「うん。だから今竜田揚げ作ってる。ぬめりをとるのが大変だったよ」
 三角コーナーにはブライアンの頭が捨てられていた。
「これからブライアンを食べるの? 埋めようとか思わなかったの?」
「だってオオウナギなんてめったに食べられるものじゃないでしょ?」
「……そうだけどさ」
「待ってて。一応ネットで調理法調べたから」
 ブライアンの竜田揚げは皮が硬く、下水道のような味がした。「不味いね」妻は笑って残りを捨てた。
 その晩、性行為をしようとしたが、俺はブライアンの頭が浮かんできて不能になった。こんなことは一度もなかった。俺は「ごめん」と謝った。妻は俺の股間を触って「まだまだね」と笑った。
「どういうこと? サイズがってこと? 俺じゃ物足りないのか?」
 妻は俺の目を見て「考えすぎよ」と言った。
「私、今とても嬉しいのよ。あなたは私の見えるところでどんどんダメになっていけばいいの。それ以外のこと、考えないで」
 妻に抱き寄せられた俺は耳元でこうささやかれた。
「好きよ、ジェームス。あなたは今日からジェームスよ」
 思わぬ愛の告白をされて思った。俺は今、ブライアンと完全に同一視されてしまった。俺は小魚や蟹に目が眩んでしまった。それには見えない針がついていた。俺を捕らえるための必要悪。後は付かず離れずの距離でダメになっていく俺を観察し、いつか頭を切り落として不味いと笑う。妻はやはり俺を見限っていたのだ。
「ジェームスは無駄に考えすぎる癖があるから、一度頭を空っぽにしないとね」
 妻は「今から踊ってみようか?」と俺を床に立たせた。
「てーててててーて、てーててててーて、てーててててててててててー」
 それは昔の武富士のコマーシャルソングだった。俺は裸のままそれに合わせて即興で踊り始めた。右足を高々と上げ、その下で一度両手をはじき合わせる。パンッ、といい音が鳴る。腰に手を当てて左右に腰を振る。妻はゲラゲラ笑っている。とても恥ずかしい。
「て~て~てて、てててててて、て~て~て、てててててててててて~、ででででっ!」
 俺は一回転してしゃがみ込み、両足を組んで決めポーズをとった。久しぶりの運動で荒い息が出る。妻は拍手をして抱きついてきた。
「本当にあなたは馬鹿だわ、ジェームス」
 その時、ボッ、と妻が放屁した。妻は「アハハハハ」と笑いながら身体を離して、また「てーててててーて」と歌い始めた。俺もまた踊り始めた。
それから五回踊って、俺たちはベッドに戻った。俺に背を向けた妻が呟いた。
「ねえ、ジェームス。私、やっぱり浮気しようかな」
 妻の首筋に黒く淫猥な影が絡みついた。股間が硬くなった。もうこの人からは逃れられない。頼む、見捨てないでくれ。頼むから「あなた」と呼んでくれ。昔の男たちとは違う。ブライアンとも違う。俺はジェームスなんかじゃない。不安と興奮が交じり合う中、俺は後ろから妻の身体に抱きついた。

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