シドと白昼夢

第六回阿波しらさぎ文学賞落選作です。

「おねえさん、誰ぇ?」
「はじめまして、橋本環奈です」
「キョーッ!」
「それじゃあどうがよろしぐお願いします」
「分かりました。じゃあ、いってきます」
 支土は跳び上がりながら道を走っていく。それを駆け足で追っていくのはセーラー服を着た信子だった。
 支土の父親である雅史から「橋本環奈になって欲しい」と信子に依頼が来たのは三日前のことだった。支土のことは知っていた。よく雅史と二人で散歩をしているのを見かけていた。支土は自閉症と知的障害があるようで、その奇声は時折耳に残って離れなくなる。
「こったことお願いするのも馬鹿げでらど思うんですけど、わだしも医者がらもう長いこどねぇって言われでで。わだしが死んだら支土は山の施設さ行がねばいがなぐなるんです」
 支土はずっと二つの夢を抱いていた。一つは徳島の眉山に行くこと。もう一つは橋本環奈とデートをすることだった。
「信子さんは東京さずっと住んでだって聞ぎました。標準語も話せるど思って。この辺で一番橋本さんさ年近いってば信子さんしか思い当たらなくて……。支土の夢とば叶えでやってもらえねぇべがど思って」
 信子は当然のごとく戸惑った。自分はもう三十だ。顔だってぜんぜんあんなお人形さんのような愛らしいものではない。しかも雅史が言うには支土はセーラー服を着ていないと橋本環奈ではないと認識するらしい。
「セーラー服とば着た橋本さんが好ぎみたいでして。衣装代はこちらで工面するので。これがわだしが親としてやってあげられる最後のことがもしれなくて……。なるべぐ早ぐデートに行ってもらえればありがたいんですけど……」
 もちろん人に頼みにくいことだし、変なことを言っているとは雅史も重々承知のはずだ。しかしその生気の無い土色の顔や額の脂汗、やけにもぞもぞとした話しぶりが信子にこの依頼を断ってはいけないという脅迫めいた感情を抱かせてしまう。
「ご用件は分がりました。今日一日考える時間とばください」
 信子は、言ってしまった……と思った。
「分がりました。それではどうが良い方に検討していただけるようお願いします」
 雅史は出された麦茶を飲み干し、苦しそうに息をしながら玄関先で何度も頭を下げた。先が長くないというのは本当のことだろう。雅史の連絡先が書かれた紙を見つめながら、信子はああああと頭をかきむしった。引き受けなかったらどうなるのだろう。私は悪者になってしまうのか。もっと他に適任はいないのか。この集落にはいないが、もっと知り合いをあたるとかできないのか。いや、そんなことができないからほとんど話したこともない自分を頼ってきたのだ。
「やるしかないな」
 信子は雅史に依頼を引き受けることを伝えた。
 次の日、信子は実家まで車で向かった。「あれぇ、なんがあってらのが?」「来るんだば連絡ぐらいよごしへんが」両親の不審がる様子を尻目に、信子は二階まで上がった。パーティーグッズのような安っぽいセーラー服を着て出歩いたら、きっと自分は変質者扱いされてしまう。いや、どっちにしろ三十路の女がセーラー服を着て出歩いたら変質者か。部屋はきちんと整理されていて、前に来た時と変わらない。信子は箪笥の奥にしまってある中学の制服を取り出した。身長はさほど変わっていないし、体重は増えたがなんとかなるはずだ。着てみると、やはりウエストがきつく、ファスナーが上がらない。しかしそれ以外は問題なさそうだ。ウエストの部分を安全ピンで留め、信子は鏡の前で自分の姿を確認した。そこにはコスプレをした風俗嬢にしか見えない自分がいた。信子は「しんどいな」と深いため息をついた。両親にバレないように制服をトートバッグに入れて、すぐさま実家を後にした信子は、次にネットでメイク動画を閲覧した。自分のコンプレックスでもある細い切れ長の目をなんとか橋本環奈のように大きく愛らしいものにしなければならない。髪は以前使っていた黒髪のウィッグを被れば問題ないが、顔の作りだけは根本的に違う。動画を観ると、持っていないメイク道具ばかりが使われていて、いかに普段自分が適当にメイクをしていたかが分かる。とりあえずドラッグストアに行き、カラコンとアイプチ、動画で紹介されていたメイク道具を買って、また家に戻った。そして動画の通りのメイクを施してみることにした。下地を入念に塗り、アイライナーで涙袋や目尻のラインを描く。コンシーラーでシミを隠して、その上に明るめのファンデーションを重ねていく。アイプチで無理やり二重にし、ピンク色の口紅を塗った。最後に薄い茶色のカラコンを入れて、黒髪のウイッグを被り、ふたたびセーラー服を着てみた。するとどうだろう。さすがに橋本環奈とまではいかないものの、だいぶ垢抜けた自分がそこにはいた。これならなんとかいけるかもしれない。信子はすこし自分がきれいになったのを喜ばしく思った。後はマスクをすれば、ちょっと可愛い大学生くらいには見えるだろう。すくなくとも鏡の前の自分にキツさはない。もうすぐ帰ってくる息子に悟られぬように、信子はすぐさま着替えてメイクを落とした。
 支土とのデート当日、夫と息子を送り出した信子は洗面台に立って二日間研究してきた橋本環奈風メイクを施した。
「よし、これでなんとか」
 信子はセーラー服を着て、気合いを入れる意味で下着は白いシンプルなものを付けた。仕上げに紺の靴下にローファーを履き、外に出た。もう後には引き返せない。夏の日差しが自分を異質なものとして否定しているように感じた。
「支土くん、今日はどこに行くの?」
「ビザァン!」
 信子は懸命に可愛い声を作って話しかける。支土は洗剤のにおいをふりまきながら煤けた黒いティーシャツに早くも汗をにじませて前を歩いている。信子は近所の人に見られたらと思うと気が気ではなかった。何故支土が眉山に行きたがっているのかは雅史から聞いていた。
「死んだ妻の出身が徳島でして、夏休みによぐ支土と帰省してったんです。眉山にもよぐ登りました。でも妻も妻の両親も亡ぐなって、すっかり行がなぐなってまって」
 支土はどこに歩いていくのか、最寄り駅を過ぎても止まる様子がない。次第に民家は消えていき、隣町に行くバイパスに出た。車通りが多く、信子はみんな自分を見ていくような気がして恥ずかしかった。息が上がり、マスクの中は汗と蒸気でいっぱいになっていく。支土は特に歩みを止めずに、時折「キョーッ!」「ビザァン!」「橋本環奈さぁん!」という奇声を上げながら橋の下の河川敷公園へと下りていった。支土は野球のグラウンドの方へと走っていった。信子はグラウンドにあるベンチに腰を下ろした。野球のベンチなので屋根がついていて、日差しを避けられるのがありがたい。信子は一旦マスクを取り、スポーツドリンクを一口飲んだ。もう化粧はだいぶ落ちてきている。水色のハンドタオルで口周りを拭くと、ファンデーションや口紅の色が混じって付いていた。支土はバックネットの裏に回り込んだままじっとしている。今日は早めに風呂に入ろう。信子は前方に見える緑色の岩木山を見ながらそう思った。しかし支土は何をしているのだろう。すこし心配になった信子はバックネットの方に向かった。
「支土くん、何してるの?」
 支土は無言のまま背中を向けて何かをじっと見ている。信子はすこしつま先を立てて確認した。支土が見ていたのは風雨に晒されたエロ本だった。信子が「うわっ」とすこし悲鳴を上げても、支土はエロ本を見る手を休めない。
「支土くん、そういうの見るの良くないよ」
「エエエ」
「ほら、一緒にベンチまで行こう?」
「イヤァ」
「お菓子あるよ。私一人で食べちゃうよ?」
「イヤァ」
「じゃあそれ持っててもいいからこっちに来ようよ。ね?」
 支土は「わかったぁ」とリュックにエロ本をしまい、信子の後ろについてきた。信子はトートバッグから保冷剤で冷やしていたシュークリームを取り出した。支土はそれを「おいしい」と口の周りをべたべたにして食べた。信子はティッシュで支土の口を拭いてやり、ふたたび岩木山を見つめた。まだ陽は高い。今日は長い一日になりそうだ。信子は「ごめん支土くん。私、ちょっと横になるね」と言ってハンドタオルを顔に被せた。支土は「わかったぁ」とグラウンドの方へと走っていった。
 眉山へ向かうロープウェイに乗っている。ロープウェイの中は六畳ほどの和室になっていて、ずっとここで暮らしてきたような気もする。夜で、反対側の眉山を下るロープウェイにはこれから別れるであろうカップルたちが下を向いて乗っている。窓からその様子を見ていると、ロープウェイが止まった。部屋の中に支土がいることに気がついた。支土はまだ小さい子供で、鼻をほじりながらこっちを見ている。これ以上先には進めないらしいと告げると、支土の顔は風船が膨らむように少しずつ大きくなっていった。やがて支土の顔はロープウェイの室内を圧迫するほどに膨張し、頬の無精髭がちくちく皮膚を刺して痛い。その時にどぉん、と爆発音がした。ほぼ真上にきれいな青い光線が浮かび上がった。信子と支土はそれを見つめている。次から次に打ちあがる花火の振動で窓ガラスが揺れているのが分かる。支土は元のサイズに戻り、信子の隣にいる。「きれいだね」支土はとても低い声でそう言った。「うん」窓ガラスに映る信子は橋本環奈になっていた。支土は窓辺の紺色のカーテンを掴んだ。しかし実際に支土が掴んだのはカーテンではなく、信子のスカートだった。汗ばんだ手が信子の内股まで這い上がる。突然のことで何が何だか分からなかった信子だったが、意識は次第に覚醒して、支土の黒い影が自分の奥まで迫っていることが分かった。
「支土くんっ、それはダメだよっ、ダメッ! 絶対に止めて!」
「エエエ、キョーッ!」
 支土が信子の下着に手をかけた時、信子はとっさにウエストの安全ピンを支土の二の腕に刺した。「ギャーッ!」と支土は腕を押さえて身体を離した。支土の股間はしっかりと盛り上がっている。「ごめん! ごめんなさい!」支土はそれからワーワー泣いてしまった。辺りはもう暗くなっていて、橋の上を通る車もまばらだ。どうすればいいのか分からず、うろたえる信子は支土を懸命になだめた。
「支土くん、もう帰ろう? お父さん心配してると思うよ」
「アアアアア!」
「手、繋ごう。ね?」
 おそらく女性経験のない支土が、好奇心でやったことだ。大目に見よう。今日のことは誰にも言うまい。信子は泣いている支土の手を握り、橋の方まで歩いた。街路灯がオレンジ色に光り、集まった羽虫が汗でべたつく顔に触れて不快だ。蚊に刺されたようで手足が痒い。
「いつか本当に好きな人ができたら、その時はじめてさっきみたいなことをするんだよ」
「橋本環奈さぁん! スキィ!」
「そうだね。支土くんは私が好きなんだもんね」
「スキィ! スキィ!」
「ありがとう。でも今日は帰った方がいいと思うよ」
「イヤァ! ビザァン!」
「分かるよ、分かるけどさぁ」
 信子は自分も泣きそうになるのをこらえていた。もう声を作るのも忘れていた。ほとんど地金が見えても嘘をつき通さねばならない自分が哀れだ。今支土くんは周りの人たちが決めた世界にいる。サンタを信じることを強制された子供のようだ。違和感に気づくこともなく、いつまでも本当のことを教えてもらえないまま、ずっと人生を過ごすのだ。でもそれでいいはずがない。いつか誰かが夢から覚まさないと、これが現実として扱われてしまう。
「支土くん」
 支土が振り向くと、茶色い短髪の女がセーラー服を着て立っていた。
「これが本当の私だよ」
 女は手に持った黒髪のウイッグを被った。
「ね? 分かるよね? この意味が」
 支土は「エエエ」と首をかしげ「キョーッ!」と奇声を上げると、走り出して信子と距離をとり、何度も振り返った。「逃げないで。ちゃんと向き合って」再びウィッグをとった信子は走って支土を追いかけた。そして腕を掴んだ。車が一台スピードを落としてこっちを見ている。関係ない。興奮状態の支土をなだめながら、二人は来た道を歩いた。雅史に今から帰ると連絡をした。家に着くと怯えたように支土は雅史の傍へと駆け寄った。雅史は「本当にありがとうございます」と何度も頭を下げた。もう悔いはありません。そう言う雅史に信子は笑顔で両手を振った。
「さて、現実に戻るか」
 セーラー服を着たまま家に帰った信子は夫と息子の「え? どういうこと?」という問いかけを無視して浴室へと向かった。クレンジングで顔を洗うと、魔法が解けていくように、鏡の前にはいつもどおりの顔があった。風呂から上がった信子は下着とハンドタオルを洗濯機に入れようとした。水色のハンドタオルに白いぬるっとしたものが付着していた。
「ああ、シュークリームのか。え? あれはティッシュで……え? 臭っ、気持ち悪っ」
信子はいつもより多めに洗剤を入れて洗濯機を回した。
 それから一か月ほど経って雅史は亡くなり、支土は山の麓の障害者施設に入所することになった。もう奇声は聞こえなくなり、集落はすこし静かになった。信子はテレビや雑誌で橋本環奈を見ると、支土とのデートを思い出した。支土の独り言に「橋本環奈さん、かつら」が加わった。支土が河原で拾ったエロ本は、新しい部屋の引き出しの奥に大切にしまわれている。

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