蟹国家

 仙台短編文学賞落選作です。

 私の住む地域は田舎なので、冬になると雪に閉ざされてしまう。そのため車を持っていない者は、何か買い物をするには隣町まで歩いていかなければならない。

買い物用の大きなリュックサックを背負って雪道を進んでいく。私が歩いているすぐ脇を車が何台か通っていく。周りの木々は枝に包帯を巻かれたように雪をまとっている。長靴で歩いていると、新雪がぎゅ、ぎゅ、と音を立てる。吐く息は白く、透明な鼻水が髭を濡らしていく。私は食料品を買いに行くつもりだった。お目当てはカニクリームコロッケだ。こんな寒い日はひとつ揚げたてのを食べたい。

町の外れから隣町へと続く橋を渡っていると、「電気牛の遠吠え」が町内スピーカーから流れだした。その声は国からのメッセージを伝えるにはすこしうるさ過ぎる。またか、と思いながら人々は「安全な場所」への移動を始める。そのせいか、辺りには誰もいなくなった。私は「安全な場所」を持っていなかったため、ただ歩みを止めて右往左往していた。きっとひろしも慌てているに違いない。「誰だよ、ひろしって」知りもしない友人を頭に思い浮かべて私は笑った。「電気牛の遠吠え」はこのところ何度も聞いていた。もう何回聞いたか覚えていない。きっとこの薄暗い曇り空の上では、「将軍様の大きなボールペン」が飛んでいるに違いない。この国の近くの海にボールペンは墜落するのだろうか。それとも今度こそ本当にこの国に落ちるのだろうか。みんな死ね。みんな死んでしまえ。私だけが生き残れ。そう思った。

 突然吹雪になった。勢いよく風に乗って降る雪は視界を遮ってしまう。先程から車が一台も通らない。もうみんな「安全な場所」への避難を終えてしまったのであろうか。目指すスーパーはまだまだ先だ。閑散とした道に吹きつけるビューッと狂った笛のような風の音だけが聞こえてくる。

昨年の秋に同級生の経営しているバーに行ったら、若者がダーツをしていた。彼らは何か賭けようと思案した結果、罰ゲームとして敗者は私とキスをすることになった。私は何故そのような発想が生まれるのか分からなかった。私は異性愛者だ。男とキスするのは嫌だ。そんなことなど露知らず、若者たちはダーツに興じていて、失投をするたびに悲鳴を上げて悔しがる。つまり私とのキスを嫌がっているのだ。一人、また一人と勝者が生まれていき、最後に残った者は床に伏せて悔しがった。私は店の中央まで駆り出されて、唇を突き出した。敗者の若者はオエ~とか言いながら私の唇に向かって小鳥のようなキスをした。その様子を勝者の若者たちがスマホのムービーで撮影してゲラゲラ笑っている。その晩私は枕を濡らした。ピエロとして彼らのゲームに加担したことを恥じてぼろぼろ泣いた。彼らはきっと今「安全な場所」にいるに違いない。

 真っ直ぐ続く道路には誰もいない。吹雪の中で考えることは、いつも決まって過去のイラついた出来事だ。

数年前に中学からの友人と久しぶりに会うことになり、飲みに行った。私を車で迎えに来た友人は運転があるからと酒を飲まず、私だけが飲んでいるという状況になった。会計の際に友人がここは奢ると言い始めた。私は別にお金に困っているわけではなかったし、割り勘で問題ないと言った。しかし友人はここは払うと言って聞かない。仕方なく友人に支払いを任せて車に乗った。私は何故無理に奢ろうとしたのか理由を知りたくて友人に訊ねた。友人はお前は働いていないから仕方なく自分が払ったのだと主張した。私は確かに職に就いておらず、障害者年金をもらってはいるが、別に節約すれば生活できるし金に困っているわけではない。だからそういうことは止めてほしいと言った。しかし友人は苦い顔をして言った。「お前といると金がかかるから嫌なんだよ」それ以来その友人とは会っていない。
 
まだ道のりは長い。車は一台も通らない。吹雪を避けるように下を向いて歩く。長靴が左右互い違いに視界に現れる。嫌なことを思い出したせいか、気持ちまで下を向いているような気分になってきた。明るいことを考えようと、私はどんな惣菜を買うか思いを巡らした。カニクリームコロッケは絶対に買うとして、揚げ物はもう二品くらい買ってもいいかもしれない。エビフライもいい。タルタルソースをかけて食べたい。あとシシャモのフライもいいかもしれない。あの苦みは酒によく合う。となるとやはり酒を買う必要がある。いつもは発泡酒を買うが、今日の気分としてはサッポロ黒ラベルが飲みたい。五百ミリリットルを二本買って、すこし贅沢をしよう。あとは野菜だ。キムチは買いたいところだ。キャベツとにんじんも欲しい。牛乳はまだ残っていたはずだから買わないでおく。ソースが確か無くなりそうだったから買う。揚げ物にソースは不可欠だ。

ところでもうさすがに誰か出てきてもいいんじゃないか?

 人類が絶滅した地をひとり歩いているような気持ちになってきた私はそう呟いた。今日はちゃんと薬を飲んでいるし、まさか幻覚というわけではないだろう。私は不安になってきたので、大声で歌を歌った。美空ひばりの『リンゴ追分』だった。トゥッテトゥットゥン、トゥッテトゥットゥン。イントロも自分で歌った。しかし寒いのですぐに止めた。ひろしは今日もナポリタン。だから誰だよ、ひろしって。信号機は平然と動いている。ということは電気は来ているのだろう。だが相変わらず人の姿はない。小便がしたくなったので、どうせ誰もいないのだからと電柱にめがけて尿を放出した。雪に黄色い穴が開いていく。昨日の酒の残りがあるためか、尿はやや茶色がかっている。まあ、これも加齢のせいということで健康的には問題ないだろう。私はまた歩き出した。吹雪は一向に収まる気配がない。ミリタリーコートには雪がべったりと付着している。

暖房の効いた部屋で、アイスが食べたい。食べたい。食べたい~ん。

 口から出た独り言はむなしく、早く買い物を済ませて家に帰ろうと思った。もう視界は真っ白で、どこを歩いているかも分からない。耳を通り過ぎる風の音が孤独感を強めていく。いつもならスーパーが見えてくるはずのところまで歩いたが、吹雪でよく分からなかった。スーパーに行けばさすがに車の一台もあるだろう。いったい何が起こっているのか確かめたい。みんな避難しているのだろうか。それともみんな死んでしまったのだろうか。そんなはずはないだろう。
 
スーパーの駐車場が見えた。ぽつぽつと車が停まっている。良かった、何か情報を聞けるかもしれない。私は早歩きで車に近寄った。軽自動車には誰も乗っていない。まあ、買い物に来ているならそうかもしれないと思った。一応他の車も覗いてみた。やはり誰もいなかった。私は不安な気持ちでスーパーの中に入った。そこは空洞のように人の姿がなく、店内の陽気なBGMがかえって不気味だった。本当に誰もいないのか確かめた。隈なく店内を歩いて探したが、人の姿は確認できなかった。食材はほとんど売り切れていた。きっと「安全な場所」に隠れる前にみんな買い占めたのだ。するとポンポンポンポーンというチャイムと共に店内のスピーカーから音声が流れた。

ただいま緊急事態が発生しております。速やかに店内から退出してください。繰り返します。ただいま緊急事態が発生しております。速やかに店内から退出してください。

 それは分かっている。今具体的に何が起こっているのかが知りたいのだ。速やかに退出してくださいと言われたところでどうしようもできない。私には「安全な場所」がないのだから。「ん?」一瞬だったが大勢の人が出口に向かって逃げているような影が見えた。混乱した様子だった。しかし一瞬で元の無人のスーパーに戻った。逃げる場所は無いとしても、何が起こっているのかだけは聞いておきたかった。私は「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉を開けた。アナウンスがされるということは誰かしら店内に人が残っているはずだ。男の声だったから店長かもしれない。店内BGMはいつしか止んで、後には冷蔵庫のボーッという地鳴りのような音しかしなくなっていた。

すみません、客ですけど今何が起こっているんですか?

 私はそう叫びながらバックヤードを歩いた。中は誰もいない。人の痕跡すらない。仕方なく諦めて、私は一旦外に出た。吹雪は依然として続いていて、さっき見た車たちはもう雪の中に飲まれているようだった。私はとりあえず煙草を吸おうとコートのポケットから煙草とライターを取り出した。風が強いのですぐに火が消えてしまう。イライラしながらもなんとか火は点き、私は煙を吐きだした。冷静さを取り戻した私はしばらく外の様子を確かめた。向こう側にパチンコ屋がうっすら見える。人の姿は確認できない。私はこれからどうしようかと考えて、またスーパーに戻ることにした。無人のスーパーはどこか特別感がある。たとえば深夜の学校の体育館のような、普段見られないような違う一面を私に見せた。私は一列一列棚を確認していった。あまり人気のなさそうな煮豆やふきなどは残っていた。でもあまり食べたい気分ではない。野菜ジュースが何本か残っていたので、かごに入れた。お金はどうすればいいのだろうか。いくら無人といえども電気は来ているし、「安全な場所」への避難がいつまでも続くとは思えない。やはりレジにお金を置いておいた方が良さそうだ。合計がいくらになるか分からなかったが、私はとりあえずレジの前に五千円を置いた。しかし不意に人影が見える気がするのは何故だろう。先程から逃げ遅れたのか小さな子供や腰の曲がった老人が見える気がする。ほんの一瞬だけ見えるので「あ」と言ったらもう消えている。

小さい頃、私は同年代の子供と仲良くすることができず、いつも公民館で田んぼに石を投げて遊んでいた。親が心配して野球部に入部させたが、チームプレイが苦手なのは治らず、補欠だった。それでも打撃練習は楽しく、石を木製バットで打って遊ぶようになった。ある日いつもよりも遠くの方まで石を打つことができた。とても心地の良い感覚がした。芯を食った石は田んぼを越えて畑の方まで飛んだ。するとそこから頭から血を流した老婆が顔を出して何か叫んでいた。私は怖くなってその場から逃げた。

厨房があったので入ってみると、やはり誰もいなかった。だんだん不安よりも誰もいない解放感のようなものがこみ上げてきた。「あいむし~~んぎんいんざれいんっ!」と絶叫しながらボウルやまな板を蹴飛ばしたり、包丁を握り、「俺は流しのシェフだ! 俺の料理は美味いぜぇ~」と言ってみたりして楽しんだ後、やはり不安が勝ってきた。「誰かいませんかぁ~!」と叫んでみたが、何の反応もない。ふと隅のコンロのところのまな板にカニが一匹いるのを発見した。まだ生きていて、種類は分からないが、大きなカニだった。もうカニでもいい。ここに残っているものがいて私はホッとした。

今何が起こっているんですか?

 私はカニに訊ねた。カニは何も答えずに移動を始め、ごとん、と流しに置いてあった鍋の中に入った。ここがカニにとっての「安全な場所」なのかもしれない。その時私に妙案が浮かんだ。

材料もあるだろうし、ここでカニクリームコロッケ作ればいいじゃん。

 私はカニがいる鍋に水を入れ、コンロにかけた。カニはじたばたと足をばたつかせている。さて、これからが分からない。そもそも私はカニクリームコロッケの作り方を知らないのだ。とりあえず私は冷蔵庫を開け、何かないか探してみた。するとタッパーに「クリームソース」と書かれたものが入っていた。たぶんカニクリームコロッケはクリームコロッケにカニが入っているものだろう。だとすればこの中にカニの身を入れて俵型に丸め、小麦粉パン粉溶き卵をつけてきつね色に揚げるだけだ。カニが真っ赤に茹で上がった。ざるに上げてすこし水道水で冷やした。足をもいで殻を剥ぎ取り、箸で身をこそぎ取っていく。どうせならカニの身をたっぷり入れよう。カニは甲羅だけになった。足のないカニはどこか間抜けだ。私はすこし笑った。クリームソースをレンジに入れて解凍し、その間にフライパンに油を入れて、小麦粉とパン粉と溶き卵を用意した。チン、とレンジが鳴り、解凍が終わった。クリームソースにカニのほぐした身を入れる。そして俵型に形成して小麦粉を表面にまぶし、溶き卵にくぐらせてパン粉を付ける。油は菜箸から泡が出るまで待ち、いい頃合いでコロッケを投入した。じゅわ~っという音が心地よく響く。火が通ったところで油から出してみた。初めてにしてはよく出来ているのではないだろうか。さっそく食べてみることにした。割り箸で表面を割ってみると、クリームソースとカニの身がとろっと溶け出してきた。いいじゃんいいじゃん。私は一口食べてみた。

もうちょっと火を通せば完璧だな。

 初めてにしては本当によくできたと思う。残りの具材をぜんぶ使ってカニクリームコロッケを五つ作った。残りは持ち帰ろうとタッパーに入れた。私はかごに入れた野菜ジュースの口を開けて飲んだ。何かいけないことをしているようで、とても楽しくなった。その後も煮豆を鼻の穴に入れて、「ろくぅ、でなしぃ~」と歌い、フンッと息をして床に飛ばしたり、フキを耳の中に入れて「我は聖なる犬」などと言ってみたりした。そして案の定不安が募ってきた。一瞬自分への悪意ある視線を感じたからだ。本当は何も起こっておらず、平穏な日常の中に自分はいるのではないか。何か脳が間違った映像や音声を感じているだけなのではないか。私は時折腕を前に伸ばして誰かに触れようと試みた。しかし触れるものは無く、むなしく腕は空を切る。これではいけない。みんなお天道様の下で暮らしたいのに、普通の日常を送りたいはずなのに、「安全な場所」に閉じこもって国からの指示を待っている。ならば自分がこの地がもう安全であるとどこかの政治家のようにアピールしなければならない。私はスーパーを巡って、残った品物を手に駐車場へと向かった。

まずは焼きそばを頭にのせて下を向きながらあうあうあうあうと踊り、「レゲエの人」と呟いた。老婆が「あれぇ」と言った気がする。次に煮豆を耳に詰めて「ワイヤレスイヤホン、サイコー」と身体を上下に振った。今度は誰も見えなかった。これは駄目だったらしい。ソースを雪に撒いて「かき氷はやっぱりソースに限るね」と地面にうずくまり、雪を食べてみた。子供の冷たい視線を感じた。やはりどこかに人はいるのだ。私は人々の気を引くためにつまらないギャグを披露し続けた。

股間を押さえて「今現在非常におしっこがしたい」
牛乳パック
自分の髪を掴んで「でっけぇアブラボウズがとれたぞー」
鮮魚コーナーから
厨房に落ちていた軍手をはめて「やあ、僕はミッキーマウス」
日用品
板の上に乗り「サーフィンしても安全ですよ」
お前のその場限りの感覚なんて知らないんだよ
「安全ですよぉ、何も起きませんよぉ」
現に起きているから今こうしてここにいるのだ
「緊急地震速報。緊急地震速報。テレンテレン、テレンテレン」
いくら気を引きたいからってそれはやっちゃいけないだろう? この地の人間にとってその言葉が、その音が、どれだけの意味を持つのか分かっているのか?
ミッキーマウスの声色で「マウスウォッシュ! お口は大切にしてね」
現在ご覧の地域で暴風雪警報が発令中です
タラの身を握り「タラちゃんですぅ~」
タラの芽の天ぷらはまだ早い、季節は冬だ
「安全は立証されました。処理水は検査の結果海へと放出しました。この地で獲れたカニを食べて中国に勝ちましょう」
本当に安全だと言うのなら、まずお前から食べろ
「カニは美味しいなぁ。補助金出すから頑張って漁業しようね!」
 勝手に殴っておいて、慰謝料出すからもっと殴らせろみたいなことか?
「ぼーくは力持ち! サーベルタイガーみたいだよぉ~」包丁を前歯にあてがいながら
ママ、いつになったらおうちに帰れるの?
「蛙化した日常」自分の白い腹を出して
ゆっくり過ごしていきなさい
「すみませんが、もう決まったことなので認めていただくしかないんですねぇ。皆さんに寄り添いますよぉ、ですからご理解のほどよろしくお願いいたしますぅ。安全ですよぉ、この場所は」
 お前、俺たちと対話する気ないだろ?
「出口はない。あっ、ちょっとちくわ食べたいなぁ」
まんず、この天気だば、おいのビニールハウスが……
「スーパーサディスティック気象予報士ちかこが今後の気象情報を告げる。分かるよ、これから大変な事態になるって。でもそんな不安を抱えて明日が憂鬱になるのはもう嫌なんだよっ!」
不穏な予兆に従うしかない私たち、悪いことに加担しているみたい
「みんな死ねと言ったのは嘘です。許してください。ここはもう安全なんです」
 駄目だ、許さない
「お願いだからもう出てきてください。そうでないと支持率が……」
 出てこない
「私は現在下半身を露出している」
 誰も私に注意しない、これも国が目指すと言っている多様性を重んじる社会なのか
「何度も何度も踏みつけられている。もう無理だと思った。でも」
それでもきっと大丈夫なように、大丈夫なようになることを
「ただいまご覧の地域に線状降水帯が発生しております」
河川の氾濫、避難指示、真夏の体育館、大型扇風機が振動する床、あてどない不安と焦燥
「私がぜんぶなんとかするから。何年かかってでも安全な場所にするから」
レベル4だから避難しないといけない
「車がないからゆっくり歩く」
 不便だなぁ、不安だなぁ
「将軍様がまたミサイルを……」
Jアラート、朝の不穏さ、避難しろっつったってどこに? テレビに映るアナウンサーの冷静な声と日本地図
「津波警報」
突然現れる「きけん」の文字、安全な場所、高台に避難、濁流に飲まれる家々、それでも生きていかなければならない、瓦礫の上で飯を食い、眠る、瓦礫の下になった人たちのために。罪のようなものを感じる、間違ってはいないかと、生きることが正しいのかと、いなくなった者たちと比べてしまい、様々な辛い出来事があっても、生きているだけいいじゃないかという罰のような
「花は咲く」
復興の二文字、絆……木綱……家畜を固定する頑丈な綱……私たちをここから動けなくする道具……
「私は大丈夫だから。この地にずっといるよ」
踊れ踊れ季節を謳歌しろ踊れ踊ろうおどろおどろしく
「私はここでダンスを」
季節はどんどんと変わり、「いつも」より暑い夏、「いつも」より厳しい冬、でもここで生きていかねばならない
「あなたにカニクリームコロッケの作り方を教えてあげる。得意なんだ、作るの」
命は続いていく、どこまでも長く確かに……。

私は二つの世界を見ていた。一つは猛吹雪の続く冬の世界。もう一つは平穏無事な「いつもの」世界。冬の世界は誰もおらず、無情なまでに静寂を保っている。「いつもの」世界は周りに人がいて、普通の生活を送っている。「いつもの」世界がぼんやりと残像のように冬の世界に重なって現出してくる。私は最後のギャグを披露することにした。

小学校一年生の時、視力検査があった。前にいる人たちはみんな目が良かった。自分もたぶん大丈夫だろうと思い、左目を隠した。普通に見えている。次は右目を隠した。するとぼんやりとした嫌な世界が広がっていた。とにかく何もかもぼんやりしていて一番上の記号さえも見えない。私は左目が弱視だったのだ。
 
私は右目を塞いだ。うっすらとだが初夏の新緑が見える。人もいる。次に左目を塞いだ。はっきりと吹雪の風景しか見えない。目玉は二つある。どちらかが本物で、どちらかが私の妄想が見せている世界だ。本当の風景はどちらだろうか。こうあって欲しい方を選ぼう。私はリュックサックからボールペンを取り出して、はっきり見える右目に向かってボールペンの先を突き立てようとした。自分の目を潰すのはたぶん間違った行動だろう。だが、それがどういう理由で間違っているのかが分からない。正しいこととはいったい何なのだろう。永遠に答えが出ないのにずっと考えている。ただ目を潰すことは許されているはずだ。何故あなた方はじっとそこで耐えているのか。もう我慢しなくていいから出てきて欲しい。あなた方をちゃんと存在させたいから。「いつも」では考えられないようなことでもまかり通るくらいこの地はもうおかしくなってしまった。それでもこの地で生きるしかない私たち。我慢して我慢して生活を送っている。あなた方は確かにいるはずなのだ。本当は目なんて潰したくなんかないが、あなた方の存在が保たれるのなら仕方ないじゃないか。

やめてください、将軍様ぁ

目にペンが迫った。ひんやりとしたペン先をグッと押す。ズキンという痛みがあり、弾力のある眼球がはじけて熱い血が流れ、プツンと視界は曇り出した。

残ったのは草原だった。風化したアスファルトの下から生えている草は風に揺れている。私はそのぼんやりとする目で新緑のにおいを嗅ぎながら踊った。日が暮れて夜が来た。そしてまた日が昇った。緑は枯れては生え、徐々に大きくなり、私の背丈を超えていく。美しく生い茂る緑はたくさんの命を宿して成長を続けていく。木が生えて、実をつけて、その実を動物たちが美味い美味いと食べていく。私の身体には蔦が絡まり、次第に身動きができなくなる。鳥が鳴き、巣を作る。ミミズたちが土を肥やす。雨が降る。雪が降る。雹が降る。可能性のあるものはぜんぶここに降る。雷が鳴る。雨水が流れる。雨水は小川になり、魚たちが泳いでいる。草木は黙って一切の天気を受け入れる。スーパーの軒先にはアシナガバチの巣が作られる。チョウが舞い、受粉を始めて花は実に変わっていく。実は落ちて動物たちの餌になる。私は蔦が絡まった身体を動かすこともなく、悪い左目だけでその風景を眺めていた。雪が降り、雪が解けて水となり、大地はふたたび芽吹きだす。春の柔らかな日差しも、夏のじりじりとした日差しも、秋の涼やかな日差しも、冬の暖かな日差しも、私の目を輝かせた。どれほどの月日が流れたか分からなくなった時、私の目の前には大きな白い花の蕾があった。パッと蕾が開いて、透明な汁が弾けた。

もういいよ。出てきても。

私は気がついた。ここはとても「安全な場所」に変わっていた。もう煩わしいものも憎むべきものも何もない。ぜんぶ流れたか、消失してしまった。

もう出られないんだ。すまない。

白い花を覗くと、そこには私の周りの草木が刈り取られて、新たに建物が建設されようとしていた。とても大きくて立派な建物だった。何か大事なものを守ってくれるような、そんな雰囲気があった。木は切断され、動物たちは住処を奪われて死ぬかどこかに消え去った。建物はたくさんのテナントが入り、休日は親子連れで賑わいを見せた。地域に根差した様々な催し物も開かれるようになった。周りには新しい樹木が植えられ、その下にはベンチがあって人々がその日陰に座って気持ちよさそうにしている。多くの命の上に鎮座したその建物は、人々の憩いの場となった。高校生が初めてのデートをしている。お年寄りが孫と手を繋いで歩いている。子供の手には風船があり、父親が肩車をして子供は満面の笑みだ。その光景は一瞬だけだったが、私は涙が出そうになった。憩う人々が素晴らしく素敵なものに映ったからか、周りにいたはずの生き物がみんな死んでしまったからか、それは自分でも分からない。ただその場所にあった川に魚を釣りに来たひろしを地元に残る同級生が「いい加減現実に戻れ」と叱っているのが見える。果たしてひろしは間違っているのか? あったものをなかったようにするのが「いつもの」現実に戻ることなのか? ひろしは風化して、白い花が枯れた。瓦解する風景の中、残ったのはただの冬のスーパーだった。駐車場は半分くらい車で埋まっていて、買い物を終えた人たちが自分の車に戻っていく。私は佇立していた。行き交う人々の目をはっきりと感じながら。

さすがに帰りも歩きはきついのでタクシーを拾った。家のある集落の名前を言うと、タクシーの運転手は料金メーターを作動させ、発車した。
「今日雪ひどいなぁ。大変だったでしょう?」
「ええ。まあ歩いて帰るのは難しいですね」
「雪国の宿命だねぇ」
「はい」
「早く止んで欲しいですねぇ」
「そうですね」
「不便だけど、ここで暮らすしかないもんねぇ」
 厳しい環境のこの地で暮らすように縛り付けているものとは一体なんなのだろう?

 家の前に着いて千三百二十円を支払って外に出た。家の庭にはだいぶ雪が積もっている。後で雪かきをしなくてはならない。家の鍵を開けて、居間の石油ストーブのスイッチを入れる。コートを脱ぎながら、リュックサックから買った食料品を取り出した。もう昼になっていた。私は炊飯ジャーからご飯をよそって、テーブルに置いた。カニクリームコロッケを取り出して皿の上に乗せた。そしてソースをかけた。
「いただきます」
 テレビを点けて無言で食べた。ニュースでは芸能人のスキャンダルを報じている。カニクリームコロッケがいつもより美味しく感じられる。ぼんやりと室内が暖まってきた。灯油の燃えるにおいがする、冬の「いつもの」日常だった。右目がズキンと痛んだ。一瞬だけ吹雪の中に自分が見えた気がした。右目から血を流したまま、何かをじっと我慢しているような、陰気な顔をしていた。

 それから右目が痛むたびに、幻覚が見えるようになった。足をもがれたカニがいる。白いまな板の中央に、真っ赤に茹で上がり、甲羅だけになったカニがいる。それはやはりどこか間抜けで、日の丸のようで微妙に違っている。多くの人間はまさかカニが国旗になっているとは思っていない。こんなふざけた国旗を掲げている国家では、どんな馬鹿げた政策でもまかり通ってしまう。この国家は権力をふりかざし、私たちを苦しめる多大な人災をもたらしてきた。「喉元過ぎれば」とそれらを忘れさせようとしているが、私ははっきりと記憶している。私たちができるのはこの国家の動向を注視して行動し、いつまでも忘れないことだ。足のないカニの下敷きになっていてはいけない。あなた方よ、そこにいるなら怒りを持って立ち上がれ。


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