漏電蚕

 切明池の底からある日突然地上に出てきた子供がいた。子供は池から這い出ると、そのほとりを歩き始めた。服は着ておらず、泥まみれのままぐるぐる池の周りを回った。釣りをしていた第一発見者の吾郎はとりあえず毛布でその子供を包んだ。子供は暴れる様子もなく、すたすたと歩いた。吾郎は集落の長である谷口の元まで向かった。
「どうした吾郎? その子は」
「切明池の底から這い出てきたんです」
「どこの子だ?」
「それが、ぜんぜん話さないんです。身元が分からなくで……」
「困ったなぁ」
「とりあえず谷口さんのところに預けてもらえないでしょうか?」
「うーん、誰か引き取り手が見つかればいいんだが……」
 二人はとりあえず風呂場で子供の泥を落とすことにした。子供は泥を落とすと急に喋りだした。喃語のような言葉だった。何を言っているのか分からないが、とにかく表情は明るく、おそらくここに出て来られて嬉しいのだと二人は解釈した。子供は女の子で、すこしゾッとするほどの白い肌と、狐のような切れ長の細い目を持っていた。谷口は子供に服を着させて、寄合を知らせる鐘を鳴らした。集会場に集まった人々は「長部の家ならいいんじゃないか」と結論づけた。
 長部は集落の中でも問題のある人間として知られていた。寄合や集落の行事に一切参加せず、また食料がなくなるとしばしば畑のものを盗んだりしていた。一応悪いことをしたという自覚はあるらしく、木の枝の束を畑に置いていく。
「この子、本当に大丈夫かねぇ。長部の家に行って」
 心配する声も中にはあったが、面倒事に首を突っ込みたくない人間が多数でそう決まった。
「とりあえず私から交渉してみるから。駄目だったら私の家に来させる」
 谷口は無邪気に笑っている子供の頭を撫でた。
長部の家は集落からすこし離れた場所にある。崖の下の洞窟が裏手にある変わった家だ。身寄りもなく、最近ではすっかり身体が衰えて、寝たきりの状態が続いている。谷口は長部の家の戸を叩いた。「入れ」と細い声がした。戸を開けると糞尿のにおいがたちこめた。
「長部さん、ちょっと話があって来ましたよ」
「くだらん話だったら帰ってくれ」
「この子なんだが、ちょっと面倒を見てやってくれないか」
長部は鋭い目つきで子供を見た。
「この子は身寄りがなくて困ってるんだ」
「俺は見た通り寝たきりだ。そんな奴お前のところでいくらでも面倒見れるだろう」
「あーあーあーあー」
子供が長部の元に駆け寄ってきた。「なんだなんだ」と長部が狼狽しているところに子供は右手をかざした。光が暗い家を照らして、直後長部は立ち上がった。
「なんだ、この身体の軽さは……」
子供は何事もなかったように笑っている。
「おい、ずっと寝たきりだった俺をこの子は治してしまったぞ」
長部はそう言ってガハハハと笑った。谷口は「この子は人の苦しみを楽にできるのかもしれないな」と子供を驚いた顔で見つめた。
「気に入った! こいつは俺が預かる!」
長部は子供の顔を見て、「こいつはちかこだ。よろしくな、ちかこ」と子供の肩を叩いた。谷口は「じゃあ頼んだよ」と長部の家を後にした。
「あの子にこんな力があったなんてな。ムラに伝えないと」
 谷口の言葉に集落の人々は半信半疑だった。「長部の演技ではないか」という声もあったが、ちかこの手の光を浴びた谷口の曲がっていた腰がぴんと伸びているのを確認して、信じざるを得なくなった。一方の長部はすっかり軽くなった身体を動かしてムラ中に宣伝しに歩いた。いつ死んでもおかしくない様子だった長部のこの行動に、集落の人間はますますちかこの力がどれほどすごいのかを理解した。まず長部の家に向かったのが目の悪い誉田という男だった。長部は「ちかこが治してやるからな」とちかこを呼び、手をかざすように言った。ちかこは笑いながら右手を誉田の目にあてがった。するとたちまち誉田の目は良くなった。「ありがとうありがとう」誉田はすっかり嬉しくなって帰っていった。古川の家の純子はずっと肺を患っていたが、ちかこの力によって全快に近い状態にまで治った。黒岩の家の幸子は原因不明の頭痛に悩まされていたが、ちかこに頭を撫でられると、たちどころに回復した。集落の人々はちかこの力を認め、畑でとれた作物や日用品を長部の家に届けに来るようになった。長部はこれに気を良くし、ちかこの診療所を洞窟内に作った。蝋燭の薄明りの中、ちかこはそこで主に読書をした。ちかこは徐々に言葉を覚えていき、やがて誰も敵わないくらいの博識になっていった。「肌は真っ白い方がいいだろう」という長部の意向により、昼間の外出は禁じられ、したがって外に出るのはきまって夜で、ちかこはしばしば自分が発見された切明池のほとりに立ち、何か物思いにふけった。ちかこは食べ物を口にしなかった。他の人の悪い成分を吸い取ることでそれを栄養源としているらしく、そのことがさらに人々の信仰心を刺激した。遠方からもちかこの噂を聞きつけてやってくる人も出てきて、長部はその恩恵を受けて裕福な暮らしをしていた。
ちかこが発見されて一年が経った。その間集落での死者は一人もいなかった。ちかこはあまり見た目に変化はなかった。しかし、目に見えないこころの方はもう限界だった。太陽の光を見ない生活。重病人の痛々しさ。それにすがって生きている自分のやるせなさ。自分は人を食い物にしているという罪悪感。もう死者を出せないというプレッシャー。それらがぐるぐると頭の中で回って身体がついていけない状態にまでなっていた。

 あれは風の強い日のことでした。私は子供を連れてちかこ様のところに向かっておりました。子供が熱を出してしまったためです。長部の家を訪れたところ、ちかこ様は「紅しょうがの我慢で、砂糖水の方針があり、よって解決する」というよく分からないことを言って私どもに美しい折り紙を下さいました。子供の風邪は治ったのですが、その頃からちかこ様は何か様子がおかしい気が致しました。

 ちかこ様は夜にムラを全裸で歩き回っておられるようでした。手には縄を持って、その先には包丁が結び付けられておりました。それを引きずるガラガラという音で目を覚ましましたところ、ちかこ様はこちらをじっと見つめてよく分からない言語を話されました。まあ、何か神様めいた部分がおありになる人でしたので、特に気には留めませんでしたが。

 私はムラのご神体に味噌を塗っているちかこ様を見たことがあります。ちかこ様はこちらを見ますと、「心配しなくてもいい」と笑っておられました。我々の病気を見ておられるので、すこし変わった性格をしているものだと思って見過ごしました。

 切明池のほとりでちかこ様を見たことがありました。ちかこ様は水面をじっと見つめて服を脱ぎだし、尻を池の方に突き出して「おしりさん、おしりさん、月よりも光れ」と叫んでそのまま池に飛び込み、数分後フナを咥えて陸に上がりました。とても驚きました。

 これらのちかこの奇行は自分の意思によるものではなかった。住人たちの悪い成分を吸収し続けた結果、何か自分の中に抑えきれない衝動のようなものがたちこめ、そのどうしようもなさを表現しないとおかしくなるという強迫観念によるものだった。
「長部、ちょっと来てくれますか?」
 ちかこはある晩長部を呼んだ。酒を飲んでいた長部は「なんだ?」と機嫌悪そうに洞窟の方へと足を運んだ。
「あの、私はもう頭がおかしいです。病院に行きたいです」
 長部は頭をかいて、んーと低く唸った。
「自分ではもうどうしようもないんです。今の自分を保つので精一杯です」
「駄目だ。それだったらちかこが治せばいいだろう?」
「自分の力では無理だからこう言っているんです」
「駄目だ。明日も明後日も患者が来る。お前は食い物を食わんでもいいかもしれんが、俺はどうなる? 入院ということになったら金は誰が出す? 病は気からだ。そんな弱気では治せるものも治せないぞ」
「もう無理なんです。自分で頭がおかしいと分かっているんです。お願いです。せめて一日だけでも私を町の病院に行かせてください」
 長部は「駄目だ」の一点張りで、ついに「錠をかける。今日は眠れ」とちかこを閉じ込めてしまった。ちかこは蝋燭の薄明りの中でぽろぽろと泣いた。今も頭の中で何か狂った感情が芽生えてくる。身体を洞窟の岩に預けると、ふと岩がもろくなっていることにちかこは気がついた。このままでは私も長部も死んでしまう。ちかこは戸を叩いた。しかし長部はもう眠ってしまって気がつかない。何度もそうしたが、反応はなかった。ちかこはふわりと手を岩にかざした。岩がごろごろと動き、人が通れるだけの隙間ができた。ちかこはそこから脱出した。そして走って山を下っていった。長部は岩の下敷きになって死んだ。
 山を下っている内に朝がやってきた。ちかこは裸足で来たことを足の裏の痛みで知った。病院がどこにあるのかは分からないが、まだ歩かなくてはならないだろう。町らしい風景はまだない。ちかこはゆっくりと歩いていった。一台の車が同じ方向に走っていくのをちかこは見つけた。手を挙げて車をとめる。
「すみません、町の病院に行きたいんです」
 運転手は不審な目だったが、必死なちかこの様子を見て「分かった」と言った。ちかこは運転手の首筋にある大きな疣を見つめていた。朝日は眩しく、目が痛くなる感じがした。
「ここだよ」
 うとうとしていたちかこを運転手は起こした。ちかこは深々と頭を下げて病院へと向かった。受付に急患であることを告げて、ちかこは診察室に案内された。現れたのは大きな眼鏡をかけた若い医者だった。ちかこは自分の病状を堰を切ったように話した。
「すこし落ち着きましょう」
 医者はちかこに深呼吸するように言った。「目を見ますよ」医者はペンライトでちかこの目をじっと見た。「両手を前に出してください」ちかこの手は震えていた。
「今の段階ではまだはっきりと分からないのですが、しばらくここで静養した方が良さそうですね」
「そうですか」
「ここには一人で来たようですね。何か家庭で問題があったとか?」
「いえ、そういうことではないのですが。家族がいなくて」
「誰か保護者のような方はいらっしゃいますか?」
「……いません」
医者は「んー」と唸った後、「ではちょっと点滴を打って休みましょう。こちらにどうぞ」とちかこをベッドの上に寝かせた。チクッと針が刺さる感触がして、ちかこは眠りについた。
ちかこが起きると、谷口がそばにいた。緑色の壁が見える。
「起きたか」
 谷口はにゅっとちかこの顔を覗き込んだ。
「ムラの方で入院代は出すから心配しないでいい」
「長部は死にましたか?」
「うん」
「そうですか……」
「今先生が来るから。安心してほしい」
 さっきの若い医者がやってきた。谷口を呼び、何かを伝えた。ちかこは久しぶりにぐっすりと眠ることができて、その夢の余韻に浸っていた。
「長部さん、今日はここに入院しましょう。明日精密検査をします」
 若い医者はそう言って笑顔を作った。谷口は「また来るから心配しないで」と言って立ち去った。ちかこはふと窓ガラスに柵がついていることに気がついた。
「きっと精神病なんだ」
 ちかこは楽になったと思った反面、治らなかったらどうしようとも思った。すでに自分のせいで長部は死んでしまった。あまり良い人ではなかったけれど、育ての親は長部だ。何か罪悪感がこみ上げてきて、ちかこはすこし泣いた。
 廊下に出ると人の声が聞こえてきた。意味不明な言葉だった。赤いランプが頭上に光っている。ちかこはトイレを済ませると足早に自分の病室へと戻った。
 日が暮れてきた頃、夕飯が運ばれてきた。煮魚と味噌汁とご飯だった。ちかこはおそるおそる口にご飯を運んだ。吐き出すことはなく、なんだかとても美味しく感じた。自分の栄養源が人の悪い成分であることは知っていたが、案外普通の食べ物でもその代わりになるのだと知ると、今まで何をしていたのだろうという気になってしまう。ちかこはよく噛んで夕飯を食べた。若い医者がやってきて、「ご飯は美味しかったですか?」と訊ねた。「はい」と答えると、「この薬を飲んで今日は眠ってくださいね」と黄色い錠剤を一錠渡された。ちかこは水をもらってそれを飲むと、すぐに眠気がやってきた。柔らかいベッドの上でちかこは眠った。
 次の日は朝から心理テストや問診が続いた。朝の太陽の光はまだ慣れなかったが、気持ちの良いものだとは理解した。ちかこはテストや質問に正直に答えていった。それらが終わると、昼過ぎになっていた。昼ご飯を食べていると、谷口がやってきた。
「具合はどうかな?」
「特に問題ないです」
「そうか。ならよかった」
 谷口は「長部の家から本を持って来たよ」とちかこに十冊ほど本を渡した。ちかこは喜んでそれを見つめた。「ムラの人たちも心配してるから、早くよくなってね」谷口はそう言ってちかこの頭を撫でた。「分かりました」ちかこははっきりとそう答えた。夕飯を食べ終わると、若い医者がやって来て「ちょっと何か月か入院が必要かと思われます」とちかこに告げた。
「病名はなんですか?」
「んー、ちょっとはっきりとは申し上げられないんですが、こころが複雑骨折を起こしているような状態です。ストレスやショックがいろいろな要因で増幅したのに加えて、抱えているものに耐え切れなくなった、というところでしょうか。なのでここで何も考えずにゆっくり休んでください。今日も眠剤を渡しておきます」
 若い医者は黄色い錠剤をちかこに渡した。ちかこは水でそれを流し込んだ。そして眠った。
 しばらくの間、ちかこはひとり病室で過ごした。陽の光は気持ちがよく、当たっているだけで健康になれる気がした。谷口や集落の人たちは毎週月曜日に訪れた。何も心配することはないからゆっくり休んでください。みんな口々にそう言ってくれた。ちかこは集落の人たちの健康について知りたがったが、「今は大丈夫ですから」とそれ以上の言及はしなかった。ちかこはどこかそれを不安に思った。きっと死者も重病人も出ているはずなのに、何故自分は何もできないのだろう。そう考えるとどんどんと不安は拡大していって、ちかこは叫びだしたくなるような衝動に駆られた。頓服を飲んで気持ちを落ち着かせても、次から次へと不安は連鎖していく。長部はどんな顔をして死んだのだろう。毎月来てくれた誉田さんはどうしているだろう。私は本当に退院できるのだろうか。力はもうなくなってしまったのではないか。悶々とたちこめる被害妄想が天井に現れたりする。それは天井のシミが変化したりして見える幻覚だった。人の顔に見えたり、渦巻きに見えたり、変な生き物に見えたりと、症状の度合いによって異なっていた。一番ひどいのは赤ん坊の顔が見える時で、ちかこを無垢な瞳で見つめてくる。よだれが天井からぽとぽとと落ちてくる。あー、あー、あー、あー、と規則的なリズムで声が聞こえる。そうなると頓服を飲んでも効かなくなるので、看護婦さんを呼び、保護室に入れてもらった。外側から鍵をかけられ、強い安定剤を打たれて眠った。保護室は自分を守ってくれるような気がして、とても居心地がよかった。繭の中で微睡むように夢を見て、無事朝を迎える時に、ちかこはフッと先ほどの赤ん坊の幻覚を思って涙するのだった。
 ある時に若い医者が手に包帯を巻いている時があった。ちかこは「ちょっといいですか」と自分の右手をかざしてみた。自分の今の力を試してみようと思ったのだ。光らなかった。傷も癒えなかった。若い医者は「ちかこさんは優しいねぇ」と言って何事もなかったかのように診察をした。「違うんです。私、傷を治せるんです」と言うと、若い医者は「ちかこさんは普通になってもいいんですよ」とちかこの手をとった。「いろいろなことを背負ってきたのでしょうけど、一旦ぜんぶ置いてみましょうね」と優しく微笑んだ。ちかこは「それでいいんですかね?」と訊ねた。若い医者は「いいんです」と言った。しかし普通になるということは自分の存在価値が無くなることだと思ったちかこは、その日から鉛筆で自分の二の腕を傷つける行為をするようになった。自分は普通の人間ではない。自分の傷をなんとか治してみたい。しかしちかこの右手が光ることはなかった。何度も試したが駄目だった。
 ちかこが入院して半年が経った。外出許可が何度か出ていたが、病院の庭に出るくらいで後は病室にこもっていた。若い医者にはそろそろ退院してもいいと言われていた。でもちかこはそれがすこし怖かった。力を失った自分を集落の人たちは受け入れてくれるのだろうか。みんな優しく接してくれていたが、本心はどうか分からない。ちかこは面会に来た谷口に「そろそろ退院できるみたいです」と告げると、「家は用意してあるよ」と微笑んだ。
 退院の日、谷口が車で迎えに来てくれた。若い医者と看護婦さんたちが見送ってくれた。自分はここで普通の人間になってしまった。にこやかな彼らに比べてちかこは大きなしこりのようなものを内側に宿していた。「今日はみんな集まっているからすこし顔を出しなさい」谷口はそう言った。集会所には集落の人たちが集まっていた。口々に「退院おめでとう」と言ってくれた。ちかこは前に立ち、頭を下げた。パチパチと拍手が起こった。それから宴が行われたが、谷口はちかこの体調面を考慮して途中で抜けさせ、新しい家を紹介した。集落の北の方の道を行った先にその家はあった。小さなトタン屋根の家だった。「一人で暮らすならこれぐらいでもいいかと思って、ムラのみんなでお金を出したんだよ」ちかこは「ありがとうございます」と家の中に入ってみた。中は十畳ほどの居間と、台所や洗い場があった。居間には布団が敷いてあった。ちかこは荷物を置いて横になった。ふと窓の外に看板が見えた。「斎藤診療所」と書かれてある。ちかこは外に出てその建物を覗いた。中には誰もいないようだった。
「私を見限ったんだ」
 ちかこはふう、ふう、と荒い息を吐き、集会所へと向かった。大人たちが酒を飲んで笑っている中、ちかこは「斎藤診療所って何だ?」と言った。大人たちの目がちかこに向けられ、すぐにそれらの視線は谷口に向けられた。
「仕方ないだろう? ここには医療がない。町の病院に行くにも手間がかかる。ちょうどここに医者が来る予定だったからそれでいいと思ったんだ」
「私の力を信用しないのか?」
「もう力はないだろう? 自分で一番分かっているはずだ。担当の医者から自傷癖のことは聞いている。不安になるのは分かる。でもこれはいいことなんだよ。もう私たちはずいぶんちかこ様に助けられてきた。何も心配せずに生活をしておくれ」
 大人たちはぶつぶつとそれに賛同した。「力がないならな……」「自分の傷も治せないなら……」「十分よくやってくれたし……」「俺たちでなんとか……」「斎藤先生もよくやってくれてるしな……」その言葉がぐるぐるとちかこの中で回転した。動作が遅くなる。視界は糸が引いたように残像が残る。ちかこはよだれを垂らしながら、意味不明な言葉を吐き捨ててその場を後にした。向かったのは長部の家の洞窟だった。もう岩が崩れて中には入られなかった。ちかこは長部に祈った。自分にもう一度力を授けてください。自分を普通の人間にしないでください。

 ちかこは長かった髪を包丁でばらばらと適当に切り、鼻水やよだれを垂らして集落を歩いた。集落の人たちに話しかけられても「あーあーあーあー」と喃語のような言葉を発し、時々服を脱いで走り回った。しかしそれは純粋な狂気から来るものではなかった。まず頭でどれだけ気が狂ったように見えるかを考えて、それを実行するという計算が働いていた。こうすればいずれ本当に頭がおかしくなって、元の力が備わるのではないかというちかこの賭けであった。だが集落の人たちはもうちかこの奇行に慣れてしまっていた。裸で走り回るちかこに「こんにちは」と挨拶をしたり、日用品や農作物を定期的に届けたりしていた。見捨てはしないが、もう気の狂ったちかこに診てもらうことはできないと思っていた。力がないことは周知の事実であったし、そんな意思疎通もできないような人間に病気を治してもらおうとは考えなかった。ちかこは荒れ狂ったように集落を歩き、病気の人間を探していた。集落の病人たちは怯えるように診療所に通うようになっていた。
ある日ちかこは診療所の近くに立ち、じろじろとそこに通う人たちを睨んでいた。包帯を巻いた人に「ちょっといいですか」と声をかけ、手をかざしてみた。何も起こらなかったためか、ちかこは「あああー!」と叫んで走り去り、行方が分からなくなった。集落の人たちが捜索したところ、ちかこはムラ外れの墓地に座っていた。
「どうしました、ちかこ様?」
 一人が話しかけると、ちかこは泣きながら立ち上がった。
「どうしてみんなそんなに優しいんだ? 私なんて生きている意味が無いだろう?」
「ちかこ様はたくさん私たちを助けてくださったじゃないですか」
「でももう力がないんだよ? 何故そんなにも私にかまってくる? 私はただの狂人だ。隔離されているべき存在だ。なんで一人にさせてくれない? なんで放っておいてくれない? 私に求めていることはなんだ? 私は何も分からない」
 人々は口をつぐんでしまった。確かにちかこを放っておいた方が楽だ。しかし助けてもらった恩を無下にするわけにもいかない。ちかこは無言の空気を察して「お願いだ。もう私にかまわないでくれ。私はただ飯を食って糞をするだけの人間だ。つまらない人間だ。放っておいてくれ」と叫んだ。人々は足音を響かせてちかこの前からいなくなった。ちかこは饅頭が供えられている墓石を見つめた。
「死のうかな」
 ちかこはゆっくりと起き上がり、切明池の淵まで歩いた。水が足を濡らしていく。服が水を吸って重くなる。泥の中を這いずり回る。息ができなくなる。苦しいとは思ったが、足は止まらずに歩く。次第に泥の感触が無くなり、板の上を歩いている。フローリングの上をぺたぺたと裸足で歩いている。やや効きすぎた冷房が半袖のちかこの二の腕を冷やす。二の腕の傷は茶色く線になって、日中外に出ない白い肌には目立ち過ぎる。ちかこは冷蔵庫からコーラの一・五リットルのペットボトルを取り出して、自室に戻った。自室は洗濯されていないティーシャツや、汗のにおいがする茶色いタオルケット、使用済みの綿棒、宅配ピザのタバスコなどが各々のにおいを放ち、乱雑な空間を形成している。ちかこは大きな革張りのソファーに全身を預け、コーラの蓋を開けて口をつけた。テレビを眺めつつ、何度もげっぷを吐き散らかし、しおれたポテトチップスのうすしお味が垢で汚れた指でつままれる。今は昼の十二時で、そろそろ昼食の時間である。母親が階段を上って部屋にやって来る。

 ちかこ、今日は何食べる?

「そうめん」とちかこは答えた。母親は「はいはい」と言って階段を下りていく。あまり腹は空いていないが、昼食は食べないと一日が回らない。

 そういえばお母さんこの間障害者枠の仕事を探しにハローワークに行ってみたんだけどね、いっぱい職種があったよ。ちかこも一回行ってみたらどう? もちろん無理にとは言わないけど……。

 母親はちかこの楽園を壊そうとしている。精神障害を盾に一向に職に就こうとしないちかこをなんとか社会に戻そうとしている。そもそも母親と話しているという認識よりも先に、ちかこはこの人物を見ると、なにかプロジェクションマッピングで「母親」という演目を見せつけられているような気分になる。顔はいつからこんな感じになったのか。声はデジタル化された音声データのようだし、太りじしの体型もずっと前から変わっていないような気もする。昔はもっと痩せていた気がするが確証がない。ちかこに背中を向け、鍋に入れた水を煮たたせている母親は、話をそこで止めてテレビを眺めているようだった。

 虫は怖いわねぇ。

 ちかこは「ぜんぜん怖くない」と呟いた。ちかこは今部屋で蚕を飼っている。近所の人から母親がもらったものだ。「蚕を飼うといいことがあるみたいよ」と半ば強引に譲り渡された。桑の葉を食べるのだが、うちには桑はなく、近くの公園に自生しているものをわざわざとりに行く。最初は気持ちの悪い芋虫に見えた蚕も、今ではすっかり愛おしくなり、俵型の糞もなにか幸運に結びつくような気がしてきた。

 ん? 無視よ。無視するの方の無視。

 テレビには中学校で起こったいじめの報道をしていた。ちかこは「ああ」と言った。「……学校側ではいじめがあったかの事実確認を急ぐと共に……」ニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げる中、母親がそうめんの入った器を持って来た。チューブ入りの生姜を麺つゆに絞り、箸でかき混ぜる。ずっずっ、ずっずっ、とリビングに啜る音が響く。ちかこは早々に平らげて、食器を流しに置いて自室に戻った。窓の外にはカーテンの閉じられた隣の家の窓が見える。きっと自分を監視しているに違いない。これといって何をするわけでもなく、ただ怠惰な生活を満喫しているちかこの一番の敵は、近隣住民の目だった。だから桑の葉をとりに行くのは決まって深夜だ。以前昼に公園に行ったところ、怪訝な目で見られたのが気に食わなくて、以来出歩くのは深夜と決めている。昼間の番組は再放送のドラマが多い。ちかこはタイトルも知らないような、画面が4:3になっている昔のドラマを眺め、次の展開を予測しようと頭を巡らせた。きっとこの後男女が別れて、女は自殺する。男は罪の意識で精神を病み、悲惨な最期を遂げる。だが、ドラマは男女のキスシーンで終わった。明日も放映されるようだが、あまり観たいとは思わなくなった。ちかこは冷房のリモコンをとり、設定温度をすこし上げた。タオルケットを被り、ソファーに寝転んで眠った。目が覚めるとまだ陽は高く、母親が階段を上がってくる音が聞こえてくる。

 ちかこ、何食べる?

 ちかこは「冷やし中華」と反射的に言った。これで何度目の冷やし中華なのだろう。夕飯はずっと冷やし中華のような気がする。錦糸卵にきゅうりとハムの細切りがのった冷やし中華もまたプロジェクションマッピングの演目のようだ。実体がなく、ただそこに見えるだけで、質量を感じない。胃に運ばれていっても、何も感じない。ちかこはふと母親を見た。ぱさついた髪を後ろで縛り、ずるずると麺を啜っている。何故この人間が母親として認識されてしまうのだろう。私には母親も、もちろん父親もいないと思った方がしっくりくる。そういえば昔の記憶、特に小さい頃の記憶というのがまるで思い返せない。ずっとおなじような夏の日の記憶しかない。チャイムが鳴った。母親が玄関まで向かう。おそらく長部さんだろう。長部さんはこのところ毎日のように小玉西瓜を持って来る。母親は西瓜が好きなのでさほど困っていないようだが、さすがに毎日食べるのは無理があるようで、よくトイレで水っぽい便を出している。便の残り香で分かる。

 木の枝ですって。木の枝。

 母親は束になった木の枝を嬉しそうに持って来た。何故そんなごみを抱えているのだろう。ちかこは不思議でならなかった。何に使うの? ちかこは母親に訊ねた。

 木の枝は家の周りに置くのよ。当たり前じゃない。

 母親は束ねてあるビニール紐を鋏で切り、庭に出た。そして一本一本家の壁の前に置いていく。なにか儀式めいたその様子が怖くなり、ちかこは自室に戻った。蚕はプラスチック容器の中で黙々と桑の葉を食べている。今日はまだ公園に行かなくても大丈夫そうだ。窓から電信柱が見える。街灯が静かに灯り始め、夜が来たのだと感じた。ちかこは部屋のカーテンを閉めて、ベッドに横になり、もう何度も読んでいる漫画を開いてページをめくった。やがて飽きて放り出し、蚕の様子を見た。蚕は口から白い糸を吐いていて、もうすぐ蛹になろうとしているようだった。ジグザグとバツ印を描くように吐き出される糸は、やがてだんだんと厚みを帯び、蚕の姿を見えなくしていく。もう桑の葉は必要ないだろう。ちかこはその様子を見て、母親の階段を上ってくる音に昼を感じた。

 ちかこ、今日は何食べる?

「そうめん」と答えた。母親は昨日も今日も、ひょっとしたら未来永劫そのままで、自分が死ぬ時でさえそうめんを茹でているような気になり、インターホンが鳴らされて、長部さんから木の枝をもらい、それを家の周りに並べ、西瓜を食べ過ぎて軟便を排出し、夜には冷やし中華を作って食べる。ちかこも母親もおなじ日を繰り返すような時間を過ごしている気がして、違うのは蚕だけで、真っ白な繭の中で蛹へと進化を遂げている。ちかこは蚕の様子を見ることで日々を繰り返してないのだ、明日は違う日が来て、さらに言えば秋も来て冬も来て、季節が巡っていくのだと言い聞かせる。自分にはおなじ一日はひとつとしてないのだ、いかに代わり映えのない、無為徒食の日々であっても、この日常はいつか実を結ぶのだ。今蚕も自分も蛹の状態で見た目に変化はない。しかしいつかは大空に羽ばたける日が来るはずなのだ。だからこの生活が妙な安定感を孕んでいて、季節も過ぎた実感がなく、母親もいつまでもそうめんと冷やし中華を作り続け、自分もおなじような日々を送り続けているのだろう。いつも行くコンビニの帰り道で家の近くの電柱に設置された街灯がバチ、バチ、と音を立てている。何かぶつかっているのではなく、電球が切れそうになっているようだった。点滅するいろいろな影が、自分は不確かな存在であるというイメージを頭の中に作り上げた。いつまでも点滅する電気の光はちかこの中で増幅して、自らの死を思い起こさせた。自分の人生は実はもう終わっていて、何か死後の漠然とした世界のようなものにいるのではないか。繰り返しのこの日々を楽園と思うのは、もう天国にいるからではないのか。何か今夜はおかしい。胸がざわついて仕方がない。何かの答えが喉につっかえたようだ。街灯から電流がバチバチと光り、音を立てている。それは今にもちかこの家に燃え移らんばかりだ。ちかこは急に不安に襲われ、自転車を小屋の中に停めて家へと急いだ。バチ、バチ、と火花が見える。これは幻覚なのか、自分では判断がつかない。家の周りには木の枝がある。燃え移ったら家は全焼するかもしれない。玄関でビーチサンダルを脱ぎ、リビングの灯りが点いていることを確認して母親に電柱が漏電していることを告げた。母親はテレビを観ながら、発泡酒片手にどんよりとしていた。危ないから警察に電話してと言ってもぼんやりとしたまま動こうとしない。外は雷が鳴り、大粒の雨が窓ガラスを叩いている。

 ちかこは頭がおかしいからねぇ。言ってることがお母さんには分からないのよぉ。

 嫌な予感は的中し、家の辺りが焦げ臭くなってきた。これも何かの幻覚なのだろうか。危ないから早く逃げようと何度も何度も言うのだが、母親はとりあってくれない。

 家は燃えないのよぉ。燃えるはずがないでしょお。木の枝もあるし。

 火の手はどんどんとリビングに押し寄せてくる。雨は止まない。炎はもう窓を覆っている。何故強い雨が降っているのに炎が燃え広がるのか分からない。本当に燃えているのか、それとも自分の幻覚なのか、ちかこには判断ができなかった。母親の手をとろうとした。しかし母親の手はぽろぽろと黒く焦げ付いてにじんだ。悲鳴を上げようとしてもうまく声が出ない。

 家はね、燃えないのよ。

 そんなことを言っている場合ではない。しかし母親は根を張ったように動かない。火は勢いを増し、小火では済まないことが予見された。早くしないとぜんぶ燃えてしまう。だから行こう。懸命に声を振り絞る。だが声帯を失くしたかのようにちかこの声は通らない。火の手はついに中にまで侵入してきた。もう母親は助からない。

 ちかこ、今「池」って言った?

 言っていない。言っていない。否定しても母親の声は大きくなる。

 池はね、危ないから、行っちゃだめよぉ。

 ちかこは玄関から外に出た。雨が瞬く間に全身を濡らす。燃える家を誰も見ていない。消防車もなにも来ない。家の前にタクシーが一台停まっている。運転手はちかこの視線に気づいて後部座席のドアを開けた。とりあえずここから遠くへ向かってください。ちかこの声に運転手は無言で車を走らせた。雨が窓を蛇のように流れ落ちている。外の様子が分からない。運転手の首筋に大きな疣がある。どこかで見たような気もする。気がつけば光はなく、暗い山道を走っていた。

 お客さん、池でいいんですよね? そう言いましたよね?

 言った覚えがない。暗闇でヘッドライトがうすぼんやりと光っている。否定も肯定もできずにタクシーは走る。財布を忘れた。家はもう手遅れかもしれない。

 昔ね、間引きした子供は池に捨てられてたんですよぉ。可哀想にねぇ。

 タクシーが停まった。ドアが開いた。金がないことを伝える。運転手は無言で走り去った。いつの間にか雨が止んでいた。暗くてよく見えないが、池のほとりにいるのは確かなようだ。ここに何があるのか分からない。ここは本当に存在する場所なのか。水面がバチバチと光り始めた。稲光のようなものが池を走っている。その光は徐々に激しさを増し、楕円形の巨大な繭が現れた。光はその中のシルエットを浮かび上がらせる。胎児が頭を下に向けてどくん、どくんと身体を波立たせている。それが胎児の鼓動なのか自分の鼓動なのか判別できない。繭を形成する紫色に光る糸がしゅるしゅると水面に向かって分解していく。糸が下りるごとに胎児の姿がはっきりと透けて見えるようになっていく。繭の糸が落ち切ると、今度は胎児が糸状になって解けていく。光がまばゆくなり、ちかこのすべてが浄化されていく。この世界の何もかもが分かっていく。精神病も怠惰な日々も、光の前ではあまりに無力で、ひょっとしたら自分はこの情景を見るためだけにこの世に存在しているのかもしれないと思った。完全に糸になった胎児は最後に「あーあーあーあー」と泣いた。それは自分だけに対して向けられた胎児の遺言だった。そしてこの世界の答えだった。光は消え、暗闇が辺りを包んだ。ふと掌を見ると、まるで最初からなかったように両手が消失していた。代わりに胸から六本の肢が生えている。背中には翅が生え、頭にはつけまつげのような触角がついている。そうか、やっと羽化したんだ。ちかこは翅を震わせた。ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ。一向に宙に舞う気配はない。雨でぬかるんだ地面を這っている内に、ふとここは池の底なのではないかと既に蚕になったちかこは思った。

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