MONO

 つくづく私以外何もない部屋だ。あるのはゴミと敷きっぱなしの布団だけ。男は私の一番上の引き出しを開けてサトウのごはんを入れる。引き出しの中は乾いた米粒やワカメが張り付いている。
「美味いか?」
 私は何も言わない。というか言えない。
 男は私の持ち主であった女と同棲していた。そして何らかの理由で別れた。女は私を残して去っていった。その頃から男は私に変な行いをし始めた。ご飯を食べさせ、風呂に入れ、セックスをした。性別のなかった私は、男の手によって女にされてしまった。
 男は性器を一番下の引き出しにこすり付ける。取っ手の部分にはすこし欠けたような窪みがあり、そこに性器をあてると男は短い息を吐いた。行為の最中、男は真ん中の引き出しを激しく出し入れする。そうすることで、私に快楽を覚えさせようとしているようだったが、別に気持ち良くはない。ヒッとしゃっくりのような声を上げて男は引き出しの中に射精した。もう長い間精液を浴び続けた一番下の引き出しは、かさかさに黄ばんでいる。
 性行為が終わると男は私を風呂に入れる。シャワーで身体を濡らして石鹸で洗う。男の長くごわついた髪の毛が濡れると、額が露わになる。私は木でできているので、水にはあまり強くない。その証拠にところどころシミやささくれが出てきている。背板もだいぶ傷んできた。男は気にする様子もなく私の身体を洗い流す。
 一緒の布団で寝るときに、男は何か話をする。それはとりとめもない小話で、男が見聞きしたであろうものが大半だ。話が終わると男は決まってこう言う。
「俺の頭が治ったら、もっと広い場所に行こう」
 私はその言葉を聞くたびに思う。もう男から逃れたい。男のいない場所で暮らしたい。

 ある日から男は部屋に帰って来なくなった。どこかに出かけているのか、朝になっても帰って来なかった。一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一か月が過ぎた。私は男のことを考えた。私にとって男は自分を汚した悪者だ。男は私を一人の人間のように扱う。しかし私は人間ではない。食事や風呂、性行為をすれば自ずと汚れていく運命にある。それさえ気がつかない男の異常さが嫌だ。私は箪笥として扱われたいだけだ。大切にされなくていい。私本来の生き方をしたい。
 男が帰って来たのは二か月が経った冬の日だった。男は部屋に入るなり、「何だ、これは」と佇立した。髪の毛は整えられ、髭もない。明らかに動揺している。男は私に近づいて引き出しを開けた。そして眉をしかめた。
 だんだんと男のものが増えていった。それはスーツだったり、ワイシャツやネクタイだったり、安物ではあるけれど社会生活に必要なものだった。もう男は私に興味を示さないようで、むしろ毛嫌いしている風にも見えた。私は部屋の隅に追いやられ、埃をかぶっていった。これでいい。私は自分に言い聞かせた。寂しさは男を肯定してしまう。

 ある明け方に男は私を持ち上げた。久しぶりに男の身体に触れた気がした。玄関を出てアパートの階段を下りた男は、私を車の中に押しやった。車は郊外を抜け、山へ向かっていた。雪が積もっていて、どこもかしこも真っ白だった。山の麓の駐車場で車は停まり、私は再び男に持ち上げられた。男は私を背負い、山道を登っていった。いつか男が話した姥捨て山の話を思い出していた。
「人間いつかはただのものになるんだよ」
 男はあの晩確かにそう言っていた。人間がある時から今までの関係性を絶たれ、もののように扱われるのが恐ろしいと思った。私はものに違いない。そして男はまともになり、私をものだと判断した。ただそれだけのことなのに、なんでこんなに悲しいのだろう。
 廃材置き場が見えてきた。辺りには様々な不用品が横たわっている。男はそこに私を下ろし、元来た道を歩き始めた。もう戻って来ないのだ。男にさんざん汚された挙句、用済みの烙印を押されてこんなところに捨てられてしまった。このまま誰の目にも留まらず朽ち果てていく自分を想像して身震いした。男の最大の罪、それは私に女を見出だしたことだ。それさえなければただの箪笥でいられたのに。雪が強さを増してきた時、男は何かを思い出したようにまた戻って来た。手には白いペンキと刷毛が握られている。男は私に積もった雪を払い、ペンキを塗りたくった。やめろ。やめろ。抵抗しようにもできない私の全身にペンキを塗ると、どこか満足して私を見つめた。その瞬間男は冷蔵庫に姿を変えた。ああ、あなたはそんなものになりたかったのか。男が何故戻って来たのか、何故私を白く塗ったのかは分からない。ただ私たちは夫婦のように並んでいる。早く雪に覆われてお互い見えなくなればいい。今までの関係もゼロに戻ればいい。そしたら私は箪笥のまま、冷蔵庫になったあなたを女として扱うのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?