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準備ができない

小学生の頃は、次の日の用意をしてから寝る子だった。私が寝た後、親が明日忘れ物なく過ごせるかカバンの中身をチェックするからだ。親に見せるための“明日の準備”をしていた。
中学生までそれは続いたので、中学校を卒業するまで忘れ物をしたことがない。お察しの通り、私は過保護な家庭で育っている。

高校生になって親も干渉しなくなり、翌日の持ち物チェックは無くなったが、自分のロッカーと空きロッカーに全ての教材・道具を入れていたので忘れ物はなかった。翌日の準備も必要なかった。当たり前だ、学校に行けば全てが揃っているのだから。
週末の宿題が死ぬほど多い学校だったけれども、宿題は月曜日学校に行ってから答えを全部写すか、月曜日を休んで有耶無耶にしてテスト期間の前に一気に終わらせるタイプだった。テスト前の自習時間は全部宿題消化の時間。よく赤点を取らなかったなとある意味感心する。

大学生になって、映画を撮るようになって、自分の準備以前に機材の準備が必要になった。でもこれは同じゼミの子達と一緒にやればよかったし、人が見ているので完璧にできた。私がちゃんとやらねば誰かが困ってしまうから。
自分の準備に関しては機材準備の時に大量のタオルを私専用のボックスに入れて機材車にしれっと紛れ込ませておいて、飲み物は集合場所に向かう前にコンビニで買えば何も問題なかった。タオルと筆記用具と台本と飲み物さえあればなんとかなる。台本は当たり前のように機材バッグの中だ。

社会人になって、特に準備するものがなくなった。使うものは会社に行けば揃っているし、弁当は作らないし飲み物も買うし、家を出るときにハンカチを替えればいいくらいで通勤カバンの中身は何も変化しない。入れっぱなしで良い。
リモートワークになってからの方が面倒なことが多い。出社するとなるとパソコンを持っていかないといけなくて、コード類を忘れないようにしないと仕事にならない。帰るための準備もいくための準備も面倒くさいけれど、やらないことには仕事にならないし働いている以上どこにいてもちゃんと責任を持って仕事ができなければならないので、案外嫌がらずにちゃんと準備をする。忘れた場合の方が面倒でもあるから。

大人になって、仕事以外の、つまり自分のための予定についての準備ができなくなった。もしかすると元からできなかったのが浮き彫りになっただけかもしれないけれど、こんなにも自分のための準備ができない人間なのかと愕然とすることが多い。
ただ、愕然とするのは乗るべき電車の時間が迫っているのにまだ用意ができてなくて家を出られないことに気がついた瞬間や、出先で準備の不備に気がついた瞬間だけであり、大したダメージは受けない。「しゃーなし」と思うからだ。

自分が自分のことを大事にできないことについて、ある程度諦めている。「丁寧な生活」「Love yourself」「自分を大事に」「あなたの一番の味方はあなた自身」なんで色々耳にするけれど、これら全てが私と対極にある。
「面倒臭い」「今やりたくない」と言う自分の気持ちに従順なのである意味自分を大事にしているのかもしれないけれど、“準備”というものは「不足の事態から自分を守るためのもの」であったり「外で快適に自分が過ごすためのもの」でもあると思うので、何か起こった時のことを考えるとやはり自分のことを守れてないことと同義なのだろう。
たぶん私は山に登ったら遭難して死ぬし、海外旅行に行ったら持ち物をスられて行き倒れて死ぬと思う。ウケる。いや、ウケない。その二つについては危機感が足りなさすぎる。

流石に山に登るときや海外に行く時はしっかり地に足をつけた方がいいと思うけれども、日々の生活に対して張り詰めているのが嫌になった。こうなったらそうしよう、ああなったらどうしよう、そんなことを考えて生活する余裕がないのだ。心に。
なんでこんなに余裕がないのかもわからないのだけれど、それを深堀って自分に楽な道を示してやるのももう面倒くさい。

書類の記載に不備があったせいで役所の待ち時間が30分から2時間に延びても、今の私は平気な顔をして2時間待つ。最初の1時間は寝ながら、後の1時間は音楽でも聴いていれば割とすぐ2時間なんてすぎることを知っている。
目覚ましが鳴らなくて見たい映画の時間が過ぎてしまっても、次の回に間に合うように動き出せばいいし、その日はもう上映がないのであれば別の日に観ればいい。(これでたくさんの映画を見逃してきた)
ワクチン接種のために着てきた服の裾が肩まで捲れないことが行きがけに発覚しても、脱げばいいから気づかなかったことにして良い。
注文した本が予想外の大きさでも「あっそうなんだ」と受け止めればいい。ネットで本を買うと、文庫のつもりで会計をしてハードカバーが届いたり、ハードカバーかと思って買ったら巨大図録で漬物石並の重さの本が届いたり、そんなのは日常茶飯事だ。この前は一般的なDVDケースくらいの大きさだろうと思って買ったものが、実はクソデカバインダーで想像の3倍の大きさ・重さだったけれど、なんの問題もない。むしろ元々想像していたものよりも大きいものがきて「これで1万円!?」と得した気持ちになる。

一人でいる分には、準備ができなくても、ポストに郵便物を溜め込んでしまっても、下着がなくなるまで洗濯機を回せなくても、床に落ちてる髪の毛が気になるまで掃除機をかけられなくても、冷蔵庫を開けるたびに全然使ってない食材に2ヶ月見つめられても、歯ブラシが開ききって数週間経っても、歯磨き粉や洗顔が怪力で絞り出さないと出て来なくなっても、何も問題ない。一人でいる分には。

だから一人でいたいのだな、とふと思った。
人と一緒にいるための最低限のことが、今の私にはちゃんとできない。秋になって、もちろん寂しくて、誰かいたらなぁと1日に7回考えるけれど、これら全てをちゃんとやることと寂しさに耐えることを天秤にかけると、「寂しさを耐えた方が100倍楽だな」と思ってしまって何も変わらない。
結局のところ、寂しいなぁと思いながらも人を求めてないのだと思う。

美味しいものを食べる時、特定の誰かにこれを食べさせたいなと思わなくなった。
美しいものを見た時、特定の誰かにも見せたいなと思わなくなった。
楽しいことがあった時、特定の今度誰かとまたこれをやりたいと思わなくなった。
悲しいことがあった時、特定の誰かに聞いてほしいと思わなくなった。
苦しいことがあった時、特定の誰かに助けを求めたいと思わなくなった。

完全に、一人でいることに慣れた。
そもそも自分のことができない人間が、誰かを求めるなんてあっていいんだろうか。
私の世話を見させられることになるに決まっている、かわいそうだ。

寂しいなと思う自分に7回、「やめとけやめとけ」と声をかける。
もう、寂しいと思うまえに「やめとけ」と声が聞こえるようになった。

感傷に浸る準備もできない。


たのしく生きます