古文になれる

古文に限らないのだが、様々な言語に触れて慣れるための極意は結局、数多く触れることなのだと思う。
言葉に触れるといっても、言葉に触ることはできないから、言葉を声にして発することで、言葉と体の距離を近づけることを「触れる」と表現するのだろう。

言葉の習得の障りになっているのは、言葉に手触りがわからないことだ!

「さわり」を使うために、無理をしたわけですが、日本語以外は大抵分かち書きをしているので、関係ないですが、分かち書きをしない日本語は、単語の切れ目がわからない。だから、古文を理解しにくいと思いこんでしまう。

でもね。ものを触ると凹凸とかなめらかさとかわかりますよね。それと同様に、古文を音読すると肌触りで単語の切れ目、文節の切れ目がわかってくるのです。初めのうちは感覚が育っていないから、もしかしたら細かな凹凸なら見落とすかもしれないけど、感覚(語彙)が育てば、細かな凹凸も見逃さなくなりますよね。

だから、音読が大事。音読すると古文(を使う人)になれるのです。
あ、なれる違いだった。


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