三月の雪

雪が降った。

時は三月の初旬、暦の上では春だろう、などと思いながら道を歩いていた。

...そういえば、この文句に思い当たりがある。前にも言ってた気がする。そうだ、あの時。

2011年3月11日、あの震災の時だ。あの頃の俺はまだ小さな子供だった。夕方、損壊の少なかった校舎の軒先で親の迎えを待っていた時も、季節外れとも思える雪が降った。家族の安否、部屋の心配、さっき近くで煙が上がっていたが町は大丈夫なのか。そんな不安の中降る雪と寒さは、応えたな。

この感覚を忘れたまま、13年目を過ごそうとしていた。地震の度、雪が降る度に思い出してもいいはずなのに、時が鮮烈な記憶を希釈して、何の感慨も抱かずに過ごしていた。

先月、母に言われるまで祖母の命日を忘れていた事も思い出した。祖母の死は、最も鮮烈な記憶だったはずなのに。

忘却を悪い事とは考えていない。人間、忘れなければやっていけない記憶もある。だが、こういった記憶を思い出した時、忘れていた事実に、たまらなく恐ろしくなる。なんでこんな大事なものを落として、今まで何ともしていなかったのだろうと。それでも、今思い出せただけまだマシだ、と言い聞かせて。

小さい頃、何回忌とか言ってわざわざ親戚が集まるのを疑問視していた。そんな集まりにそこまで大きな意味などない。それを十何回忌などと長い時の果てに行う必要もないだろう。そう考えていた。

今になってこの考えは変わった。むしろ、遠い時の先にこそ、思い出す機会というのは必要になるんだ。あと親戚という薄い繋がりの維持もできるし。

人が本当に死ぬのは忘れ去られた時、ワンピースでもそう言ってた。記憶、記録があれば、人の中に、文字の中に生き続ける。ホラー作家の一団のような性格の悪い連中もそう言ってた気がする。こうやって思い出せる限り、まだ救いはあるのかもしれない。それが例え、自分だけに向いたちっぽけなものでも。

そんな思いの渦が頭を掻き回しながら、スーパーへの買い物から帰っていた。

帰り道で、子供が雪を退けていた。この頃は俺も眼鏡をしていたっけ。いつの間にか遠視は近視気味になっていて、今は裸眼で生活しているけど。時の流れをまたひとつ思い出せた気がした。

こんな言いようのない感傷も、またすぐに忘れて、遠い時の果てにまた思い出して同じ想いを抱くのだろう。全く同じ事を以前にも考えていたという事すら忘れて。

だから今、記録を残したくて、こうして筆を執っている。

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