被害者はまだ寝ている

サンサーラ、サンサーラ。

サンスクリット語だかなんだかで『輪廻』を意味する言葉だった気がする。

頭の中で復唱する。

私は今、赤ちゃんなのだろう。

視界全体にはっきりと歪曲したガラスが見える。
ここは産婦人科だ。

どうやって此処に来たのか。
記憶を必死に探ったのはついぞ5分前。

私は前世、過労死で死んだ。

───────────────

名前は思い出せない。
でも、身を粉にして働いていたことだけ覚えている。
上司のパワハラ、アルハラ、セクハラ、…
結婚はいつだ、恋人はいないのか。
税金は増え、友人は減り、白髪は増え、食べる量は減り、愚痴は増え、願望は減った。
最期の瞬間も憶えていない。
それだけ未練もなかったのかもしれない、と勘ぐってみた。

そう思うと、また人生を繰り返すことに嫌気が差していた。

右を向く。

猿みたいな小さい人間が寝ている。
私同様、透明な容器の中で横たわっている。
頭が重くて見渡すことは難しい。だが、それだけで私はさっき産まれ、これから外に出るのだということが分かった。

……こういう記憶ってすぐなくなるらしいし、早めに思い出しておこう。

思えば私の前世が悲惨だったのは、環境が全てだったのだろう。言い訳にせざるを得ないほど悲惨だった。
両親は私が産まれて間もなく狂犬病で亡くなった。
新婚旅行でフィリピンに行き、野良犬を撫でたら噛まれたらしい。
人ってもろすぎる…

祖父、祖母は父方、母方ともにその時点で既に亡くなっていた。
死因は全員サウナに閉じ込められたかららしい。
そんなことある?

それで、産まれてほぼ天涯孤独だったし、児童養護施設でも性的虐待を受けていた。

唯一優しかったのがケンタくんだった。
でも、ケンタくんは薬害エイズ保持者だった。
簡単に言うと「偶然エイズになってた」。

彼と一晩の誤ちをしたあと、しばらく後の健康診断でエイズだと判明した。

「一晩」は訂正され、一生に変わった。

エイズは気合いで治したが、それでも私に残っているのはその体しかなかった。

で、死んだってわけ。

あーあ、いやだな人生、、

その時左からなにかが聞こえた。

「あれが私の子で合ってますか?」

音源の方向を向く。
頭が異様に大きい男女がこちらを指さしていた。
医師のような人間がええ、と頷いている。

ガラス越しでよく見えないのでよく目を凝らした。
怪獣のような頭の女と極端に小さい丸メガネをかけた男がこっちを見ながら話している。

あれは、まさか……

「あたしンちのお父さんとあたしンちのお母さんじゃん…」


嫌だ。あの家庭は絶対に嫌だ。


というか、本当にあの家庭『実在』するんだな…

なんて冷静になりながらも泣きながらもがいた。
私はみかんとユズヒコのどっちなんだろう…
まだ手が股に届かないので性別は分からなかった。


しばらく暴れると、左肘に出っ張りのようなものが当たり、痛みを感じた。
「(痛っ…何?)」

そこにはパッキンみたいな蓋の開け口があった。
どうやらこれをいじると私を閉じ込めている容器が開くらしい。


''赤ちゃんの取り違え''


ふとその言葉が頭をよぎったのは、この瞬間だった。





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