岩手県に行って思ったこと

岩手県に行って思ったこと。
宮沢賢治は37歳、石川啄木は26歳、萬鐵五郎は43歳で亡くなっている。生涯は短かった。ところがどうだろう。彼らの教養、成熟、精神は、20歳にして、私たちの60歳くらいの力を持っている。
現代人は、パソコンで知識を支援し、世界中にいくらかのお金を出せばいけるけれども、無駄な時間ばかりを過ごし、人生への覚悟もなく、あまつさえ時間を持て余して自死を選ぶ者さえ多い。

人類がひと握りの愚か者に支配され、進んで死を早める薬を死なない薬と思わされて飲まされ、嘘の情報を真実のように信じ込まされるこの現代社会も、人類のあまりに強烈な幼稚化によってもたらされているようにも思われる。

この今の世の中は、破滅に向かっているのか、再生に向かっているのか、さっぱりわからない。ただ、もし、神を信じるとするならば、このたびの様々な仕掛けで支配を強めようとしているひと握りの馬鹿者さえも神の手のひらにのり、人類が本当の本質を希求する精神を得るための強烈な数年間かもしれず、VRだのなんだのの無駄な膨大な時間など振り捨てて、心の充実を図り、明治のこうした修行者に恥ずかしくないような世界観を培い、鎖につながれた奴隷ではなく、本当に澄み渡った心の世界を築いていくための試練の時かもしれない。

僕は神を信じているのかどうか、自分ではよくわからない。ただ、神を信じていないならば、今の世はひたすらに絶望と破滅を座して待つだけの秒読みの時間のようにしか思われない。

宮沢賢治を熱心に研究した見田宗介や鳥山敏子はとっくにあの世にいってしまい、賢治の探求した「ほんとうの」世界も今の人はごく表面的に受け取って、彼の世界を単なるエンタメの童話として語り継ぐのみになっているようにも思われる。井上有一は賢治を愛したが、たぶん生涯かけて書いた数々の書の仕事も賢治ひとりが生涯で成し遂げた100分の一の仕事かもしれない。

私たちは60歳にしてやっと昔の20歳になれるようなほんとうに成長の遅い、わずかな人生の時間しか与えられていないのに、それを嘲笑うように世界を覆う災厄の薬はさらに私たちの人生を短くして、ひとの役に立つ前に命を捨ててしまうことを強いられている。

それでも、僕は人類が少しでも日々まえに進んでいると信じたい。賢治はとうに亡くなってしまっていたとしても、後世の私たちが目を開くためのヒントを残していったと信じたい。この狂った世の中は、狂った世の中を治すために私たち21世紀の人類に与えられた大きなクエストに過ぎないと信じたい。

すべての仕事が10年後、20年後の人々の芯からの笑顔に通じると信じたい。

13歳で死んだものも、20歳で死んだものも、天界から私たちがこの世をどう理解して変えていくか、楽しみに一心に見つめている、バトンを渡されている、と信じたい。

世の中が絶望に向かっているのか、希望に向かっているのかは、与えられた答えがあるのでなく、私たちに課せられていると信じたい。

そうでなければこの世はあまりに虚しくつらく、ばかばかしく滑稽である。でも、そんな捨て鉢な考えを亡くなった者たちは許さないと思う。

もう生まれてから何十年も経つのに、彼らの少年のときの魂にようやく追いついたかどうか、それが今かもしれないが、今の人類だからこそやれる何事かがあると信じたい。

信じたければ信じるほかないだろう。そういうわけで、今日も生きよう。

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