読んだもの:冷笑主義のこと

これは、読んだものについての簡単なメモです。
あまり多くを書くことはできないけれど、ついったでは書き留めるのが難しいようなものについてメモを残しておくことと、関心の共有が目的です。

引用は自分の印象に残ったものを抽出したもので、もちろんそれが原文全体の内容や主張を代表するものではありません。

ネットを支配する「シニシズム」「冷笑主義」という魔物の正体

今日は、ついったで、とても勢いのあったハッシュタグがありました。「 #検察庁法改正法案に抗議します 」というのがそれです。
自分も、検事長の定年延長についての動きには、あまりよい印象を持っていなかったので、件の署名にも賛同しました。

その一方で、この勢いに乗って、本来あまり関係のない「三権分立」に結びつけて煽っている、という意見もあって、少しどきりとしました。
なるほどそういう側面もあるかもしれないとも思いましたが、どきりとしたのはその意見の真偽ではなく、三権分立が脅かされているという、よりインパクトの強い意識に意図的に結びつけることによって、このようにより多くの賛同を得ているのかもしれない、と考えさせられたことです。

どのような意見や態度の表明にも、必ず賛同と批判があるけれど、これだけ多くの情報を前にして、そのどちらが正しいだろうかということを、双方の論拠や原典を追いかけることは、自分も含め多くの人にとってどんどん難しくなっている。
だから、それぞれが信頼に足ると考える情報源を選び、信頼に足ると思う人の見解や意見をフォローするのだけれど、それらで埋め尽くされたタイムラインは(おそらく心地がよいので)、いつしかそれらの存在への盲信のようになってしまうような、危うさを持っているということに自覚的でなければならない。

今回の定年延長の話も、確かにそれ自体は手続きの適正さに関する問題であり、その背後に邪な思惑が動機にあるかどうかは、事実を確認できない以上、関係のない話です。
それを踏まえると、「この問題の背後に邪な思惑があるとして危機感を煽っている」と考えることと「直接には関係のない三権分立と結びつけることで危機感を煽っている」と考えることは、同じようなものなのかもしれないと感じました。
自分の意見をもとに、冷笑主義に陥っていたかもしれない、とどきりとしたのです。

今回読んだ記事は、直接今回の話題とは関係がありませんが、

自分が気に食わない内容の文章をカネ(あるいはその他の自己利益)のために書かれた文章だとしてしまえば、その内容をちゃんと読む必要はなくなるということである。考えようによっては、情報過多の時代にあって、シニシズムとはそれなりに効率的な情報処理の方法なのだ。

とあるように、溢れかえっている情報を前に、それなりに合理的な処理の方法として、いつの間にか当たり前のように行使しているのかもしれないなと思ったのです。



シニシズム(冷笑主義)という言葉は、それを使う人によってかなり意味が異なる。そこで本稿ではとりあえず「他者の言動を利己的な利益追求という動機の語彙でつねに解釈しようとする態度」としておこう。
シニカルな動機の語彙がことさらにインパクトをもつターゲットが存在する。左翼やリベラルと呼ばれる普遍的な社会正義を全面に出した主張を行う人びとだ。「社会の木鐸」を自ら標榜するようなマスメディアをそこに加えてもよいだろう。
(中略)
ご立派な主張をしている連中の背後にはどろどろとした欲望が渦巻いているといった話のほうがはるかにインパクトはあるし、ターゲットにされた人物にとってのダメージにもなる。
もっとも、シニシズムは決してネットユーザーの専売特許ではない。むしろ、シニカルな言論はマスメディア、なかでも週刊誌メディアの得意としてきたところだ。
(中略)
政治コミュニケーション研究では、マスメディアのそうした報道スタイルが有権者のあいだに政治へのシニシズムを育んでいると指摘されることがある。より具体的には、選挙報道が個々の候補者の政策や争点にではなく、選挙に勝利するための戦略にフォーカスを当てる結果、政治家とは何らかの政策を実現しようとする人びとではなく、選挙に勝って甘い汁を吸いたいだけの連中だという印象を有権者に植えつけている可能性があるというのだ。
とはいえ、人間は(定義はさておき)自己利益の実現を目指す存在だというのは社会科学ではオーソドックスな想定だし、それにケンカを売るつもりは毛頭ない。社会のありようを分析するためには、ある種のシニシズムは不可欠なのだ。
ところが問題は、この「分析」という部分にある。これがネット上での論争をややこしくしてしまうのだ。
(中略)
自分が気に食わない内容の文章をカネ(あるいはその他の自己利益)のために書かれた文章だとしてしまえば、その内容をちゃんと読む必要はなくなるということである。考えようによっては、情報過多の時代にあって、シニシズムとはそれなりに効率的な情報処理の方法なのだ。
(中略)
相手側がそのように邪悪で利己的な動機に基づいて行動しているとシニカルに分析するなら、論敵の問題意識や主張を内在的に理解しようとすることもバカバカしくなるだろう。説得や話し合いは時間の無駄でしかなく、相手側がどれだけ愚かで横暴なのかというイメージを論争のギャラリーに振りまいたほうが戦略としては有効だという判断にもつながる。
「議論の場」を本当に実現したいのであれば、相手側の動機を分析したりするのは基本的にご法度である。議論はあくまで相手の発言内容そのものを評価して行わねばならない。
(中略)
ところが、ネット上での論争ではコミュニケーションをそのように制御できない。真摯な意見表明も、相手側の動機に対するシニカルな分析も、ギャラリー相手のプロパガンダも、そのすべてが入り混じり、最後には双方の被害者意識と敵対構造だけが残る。

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