見出し画像

開幕戦が終わりました

 えーと、とりあえず高崎市城南野球場での開幕戦が無事終わりまして、大勢のお客さんと少年野球団の皆さんに来ていただきました。本当にありがとうございます。
実のところ、群馬ダイヤモンドペガサスをプロ野球球団と認識して活動はしていますが…昨年オフでのファームリーグ拡大もあって、ペガサス球団はそもそもそこを目指さないと糸井会長が公言しているのですよね。
言っている事に理解を示してはいますが、じゃあ世間はどう捉えるのだろう?と思うと自分の考えは世間からズレているのかもしれない…と思う事もあって、球場で試合をしてみない事には分からないので内心では怖さもありました。
 でも来ていただいたと言うことは今までの球団の活動を覚えていてくれたということでもあるので、これは一朝一夕に出来る事ではなくその時代に生きた選手や監督・コーチ・スタッフたちの積み重ねの産物なので、本当に嬉しかったです。

 さて、城南への遠征は今年も多くはありません。次回で言うと、六月下旬の対ソフトバンクホークス戦までは都合が全然合いません。それまでは近隣の球場を回りながら色々観ていくことになると思います。それまで城南で試合を観られる方は是非チームに熱い声援をよろしくお願いします(もちろん伊勢崎とか他のビジター球場でもお願いします)。

・ここまでが開幕戦の感謝で…
 さて、自分もこの球団に関われるのが今年で最後ということもありますので、今年はちょっと今までとは違う立場で球団を応援したいと思っています。つきましては今まで自分に投げかけられてきてはぐらかしてきた質問に真正面から答えようと思います。とはいえ結構長い答えになりますから、一つずつ記事にしていければいいですかねぇ…ではお題。

・「なんで長野県民なのに群馬県の球団を応援するんですか?」
 これはほんとよく聞かれます。地元には信濃グランセローズがあるのにそっちじゃなくて群馬の方だと、長野からの回し者だと、いやまぁ確かに…
 自分が言っている理由としては派遣投手の今井金太がきっかけで踏み込んできたので、当時の派遣先だった群馬球団に恩義がある、というのは実際そうで嘘偽りないのですが、だとしたら派遣が終われば縁は切れて、信濃を応援するなり横浜DeNAベイスターズの方にまた戻っていっても不思議ではないでしょう。自分自身ですらそう思います。
じゃあなんで今まで10年目に至るほどに縁が続いたのか?というとこれは複数要因があるのですが、最たる要素に関して説明をします。

自分は遠征時のバッグにこんなキーホルダーを付けています。ただ小さいものですから、目に入った方はそんなにいないんじゃないかな…

緑色のキーホルダーです

 このマークご存じでしょうか。群馬県に長らく在住の方なら、「根笹」という言葉でピンとくる方もいらっしゃるのかな?と思います。
新島学園中学校・高等学校といって、群馬県安中市にある中高一貫の私立校です。そしてここは自分が六年間を過ごした出身校でもあります。
群馬県との関わりは二十年以上前の学生時代に遡るのです。

・長野県東信地域の進学ルート
 なんでこんな遠い中高に入っていたのか?思うでしょうね…
実は長野県の東信地域と新島学園は昔から繋がりがありまして、まだ信越本線が存在して横川-軽井沢間が繋がっていた時代まで遡りますかね、そこから電車通学していた生徒たちがいたのです。遠くは小諸からで、御代田や軽井沢からも生徒が通っていました。

 東信地域の小学校からの進学ルートはいくつかあって、公立校に行くか、私立校に行くかというのは大まかなところですが、私立校を目指していた中で第一志望に落ち、どうしたもんかと悩んでいた所に当時の塾講師が一つの提案をしてきました。ここなら入れるかもしれないと言われて出されたのが新島学園のパンフレットでした。
 そもそも小学生の自分は自発的に県外に出たなんて事がほとんど無かったのですが、もう落ちたことを悔やんでもしょうがないですし、半ばやけくその様なテンションで入学試験を受けに行きました。そしたら受かりまして…
(まぁそれなりに勉強していた自負はありました…)
 でも受かったはいいけど通学どうすんの?って事になりまして。当時はもう横川と軽井沢の線路が廃止されており、電車一本では行けません。長野新幹線で高崎に行けたにしても、安中までのルートで遠回りを強いられますし何より定期代が高すぎます。鈍行で行くとなると、小諸→軽井沢までしなの鉄道、軽井沢→横川までJRバス、で、横川から安中まで信越本線で行き、そこから徒歩です。
 まぁ受かったんだし…ということで、親や祖父母も理解を示していて先輩方もそういうルートで頑張っているみたいなので自分もそこについていって頑張ってみることにしました。

 ただ実際やってみると…まず朝の五時起きで、平原駅からしなの鉄道の電車に乗ったのが始発の六時半くらいだったなぁ、で、あとはまぁ乗り継いで乗り継いで…ですね。こんなハードな生活が二年くらい続きましたが慣れというのは恐ろしいもので、一年も経てばこんなもん平気といえるくらいにはなりました。ただ帰宅時のルートはこの逆なので、特にJRバスの横川→軽井沢を一本逃してしまうと一時間くらい待たなければならないのでそこは乗り継ぎに必死でした。当然帰りは夜七時頃です。そっから宿題やって寝て、また五時起床です。どうしても帰りは乗り継ぎで遅くなるので、部活動はちょっとまともに出来る状況にはありませんでした。

・JRバス関東による直通通学ルートが出来る
 中学二年目の半ば頃だったと思います。通学は乗り継ぎのルートでやっていたのですが、当時長野県地域の顧問だった神部先生からある話を聞きます。「バス通学が出来る様になるかもしれない」
…これは画期的でした。乗り継ぎでやってきた中で時間のロスも大きく体力も結構消耗するような通学だったのですが、これを先生が問題視し、バス一本で通そうという計画を立てました。そもそもJRバス関東は小諸市に拠点があるのでして(当時は紺屋町でした。今は与良に移転しています)、小諸から順次学生を拾っていって、学園まで行く。んでバスは横川に戻って、そっからは軽井沢との往復バスで機能する。帰りはこの逆で、横川で待機してもらって終業時間になったら学園の駐車場に来てもらって、そこから直通で長野県まで行って、順次学生を降ろしていって、小諸で終点という感じです。
 小諸で生活している自分としては始発と終点で完結できるので、親含めて起床時間がだいぶ遅く出来ますし、乗り換え負担が減るので願ってもない話でした。是非実現してくれと後押しして、三年目にはこの通学ルートが実現します。今ではバスでの通学は当たり前になっておりまして、ルートを見ると佐久からも通学している方がいるようです。学生人数が多くなったようで二階建てのバスで運行している事もあるのだとか。凄いですねぇ。

 ただこれは表裏一体でして、安中駅からの通学ルートでは他の地域から来た群馬県内の同級生と話す機会も多く、信越本線の電車内では他校の生徒たちと話す事もありました。これが直通ルートでは乗り継ぎのルートが失われるのでそういった会話の場が失われることになります。内心複雑でしたが自分も結構そういう所は不良というか、しらを切る一面があって、友人関係を優先して敢えて安中駅までみんなで歩いて電車で帰ったこともあります。この直通バスの定期券は横川-軽井沢間のバスの定期としても使えるので、電車賃だけで済むのです(まぁ母親に怒られることもよくありましたね…)。
土曜は午後一時で授業が終わるので、友人の家まで遊びに行って、戻ってきて夕方に電車で帰るなんて事もよくやりました。八幡にある友人宅まで歩いた事もありましたねぇ。他にもどーむで遊んでいたりとか、タイムクリップ(文真堂書店)とか、バッティングセンターとか、ベルシティーのゲームセンターとか、駅近くにあった中古のゲーム屋で遊んだりとか、寄り道で挙げるときりがないです。
(住吉商店もありましたがまあ色々とありまして…また気が向いたら話したいものです)

 一年目は乗り継ぎで時間のあるときに横川駅の周辺の店で買い食いをしていた事もあって、結構横川駅近辺の方に顔を覚えられていたのでその縁を失いたくない想いもありました。わさび屋の佐藤商店とは今でも関わりがありまして、当時は自販機で買うよりも店で冷蔵ケースから買った方が10円安くなるので、待ち時間に立ち寄って飲み物を一本買って帰るもんですから毎日顔を合わせていればそりゃあ顔を覚えられます。二十数年ぶりに遠征がてら立ち寄って話をしたら思い出してくれました。顔に面影があると。まぁあまり顔は変わらないと言われますね…
 大貫商店も当時は営業していまして、お婆さんが運営していましたかね、ビックリマンチョコのシールを集めていた時はよく買ったりしました(今はもう閉店しています)。
横川駅隣にあるおぎのや弁売店ではかけそばをよく食べました。当時は300円だったので、学生の小遣いでも食える価格でした(今は360円だっけ?)。夕飯が食えなくなって怒られることもありましたが後悔はしていません。横川近辺の蕎麦屋で一番旨いのはここで、今も昔と同じ女性の方が麺を茹でています(前島さんといったかなぁ…うろ覚え)。

佐藤商店
大貫商店


・たった一人の六年間
 通学ルートがあるとはいえ、乗り継ぎが主体だった当時は学生が減ってきている最中でして、自分が入学したとは言え長野県から通学する同期は一人もいませんでした。この期での長野県の生徒は自分一人きりって事ですね。自分の代だけの事でして、ある意味レアです。自分の代から先は直通バスの構想・実現もあって学生数が増えていくことになります。
 神部先生からは「長野県生の減少の流れを食い止めた功労者」として感謝されたのですが、まぁ誰もいないというのもなんというか、寂しいような…ただ一人でいる時間が多かったので色々と考え事に時間を割ける様にはなりましたし、煩わしさが無いという利点もあります。読書をしたりラジオを聴いて寝ていたりもしましたね。その同期と話すだけのキャパを群馬県内の同期との関わりに費やしてもいました。長野県であまり交友関係がなく、友人が群馬県内に多いのはこういう理由からなのです。

・長野県東信地域と安中市の関わり
 と言うわけでして、六年間を説明するとこんなnoteごときではとても収まらないので、ざっとではありますがそういう長野から群馬に通学する学生さんもいて、自分はその一人だった、という事を説明しました。長野県と群馬県は別々の県ですが、こういった学校通学の関係で東信地域(特に小諸・佐久・御代田・軽井沢といった佐久広域)と安中市には昔から大きな接点があったりします。群馬県だと嬬恋村とかその辺も軽井沢経由でバス通学していた学生さんがいたので、結構広い範囲になります。

 2014年に群馬ダイヤモンドペガサスに関わった際、高校を卒業してからだいぶ年数が経っていました。疎遠になった同期の友人も多かった中、自分は長野県の小諸の方に戻っていまして、前述の通り交友が少ない県内では信濃という球団を通してもろくに接点を持つことが出来ません。群馬県の球団であれば安中市を通した動機を持てますし、これを機に群馬の方に行き直して当時の同期の友人方と接点を持ち直すのも悪くないな…と思い、この球団と関わりを持ち続けることにした、というのが大まかな理由です。
長野県にいながら群馬に肩入れするのは何故か?というのは誰もに聞かれることではありますが、相応の年月を重ねてきた理由があり、これは簡単に切って離せないものなのですよね。

 当時お世話になった先生方は殆ど退職してしまい、学校における人の縁自体は薄れてはいるのですが、今年はそういった地縁というか、そこにいた過去の側面も持ちながら最後の一年を駆けられればいいと思っています。

※このnote記事も関わりがあります。なぜ安中教会が出てくるのか?というと、学園のすぐ近くだからです。

※八木海翔さんはじめとした三兄弟の次男が安中総合学園高等学校に在学していたと聞いていますが、ベルシティー近くで学園からも近いところにある高校なので、親近感を持って成長を眺めていました。

・ちなみに小学校は…
 これは前話したかもれませんが、小諸市の東小の出身でして、信濃グランセローズに清水絢斗という投手がいるのですがこの投手の出身校と同じです。フォロワーで言うと「やべっちBC」が同期で、当時の友人です。
というかやべっちBCとは小諸幼稚園の時代から同じクラスで、ラーチハイツというアパートでも一緒に遊んだ仲です。小学校一年の終わりの時にやべっちBCが転校という形で別れる事になりまして(長野市に行ってそこから栃木に行ったんだっけか)、それ以降はさっぱり接点が無かったのですが、まさかルートインBCリーグで再び会うことになるとは世の中奇妙なものです。まぁ応援球団は異なりましたが…(こっちは群馬で、向こうは栃木)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?