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歩き続ける君だから

えーと、ここ最近芸能人の自死の話が次々出てきて、報道機関がそれを大々的に伝えて、みたいな連鎖が起こっているので、なんだかなぁと思っているところです。他人の命を使わんと主張が出来ないんですかって、命が失われること以上に、こういうただ乗りする所が本当に落ち込みます。

んで、まあ自分も過去にはそういう事を考えたり暗い感情に流されそうになる事が実は何度かあるのですが、毎回とある記憶によって引き戻されている、という事を繰り返して今に至っています。恐らくこの流れは自分の命が尽きるまでは変わらないでしょう。
どういう記憶なのか?というのを記憶する限りで紹介しようと思います。なので野球の話ではないです。ごめんなさいね。

・突然の電話
自分は学生時代に群馬県の学校に通学していた、ということはある程度知っている人は知っていると思うのですが、自分も中学から入って三年間はいわゆる中二みたいな反抗期を過ごしたこともあったりして、結構な情緒不安定でした。怒りっぽかったり、暗かったり、喧嘩もしたり、色々ありましたかね。騒動になった事もありましたし、迷惑かけながらも我慢して見続けてくれた先生方や、道中でお世話になっていた横川地域の方々、話を聞いてくれた友人の方々には今でも頭が上がりません。
んでまあそれなりに勉強もして、生活もして、中学生活も残りわずかという所まで来ました。三月になって登校もこの日までで、あとは一週間後の卒業式を待つのみ。放課後に下駄箱に駆けた際に玄関でとある友人(Yとします)とばったり会って、何気ない会話をしてさよならーと声かけてその友人も背中を向けながら手を上げてくれて、さて自分も早く帰らなければということで中学三年生だった自分も靴を履いて駆けていったのでありました。

その二日後、土曜日だったか、午前中自分は自宅の自室で何気なく本を読んでいたのですが、固定電話に電話が来たようで母親が出まして(当時は携帯電話が主流ではなく、友人関係の電話は固定電話からかけていました)、大慌てで二階に来ます。友人のKから電話だと。なんか切羽詰まっていると。
どうしたんだろうか?と思って電話に出ました。

I(自分の名前にしときます)「もしもし、どうしたの?」
K「おいI、今日の新聞見たか!」
I「いや、休みやし、まだ見てないよ」
K「なんだって、早く見ろ!」
I「はぁ?新聞がどうしたってんだい」
K「いいから見ろ!」
I「まぁ分かった、見たら連絡返すよ」

こうして電話が一旦切られ、自分は一階に降りて朝刊を眺めますが、何も目立った記載はありません。どう言えばいいんだろうか?悩みながらもひとまず報告はするかと電話を返します。

K「もしもし、新聞見たのか?」
I「見たけど、なんも目立ったことは書かれてなかったぞ」
K「そんな馬鹿な!よく見たのか?」
I「あれだろ、こっちは信濃毎日新聞を取っていて、長野県の話しか入ってこないんよ。そっちの群馬県はおそらく上毛新聞だろ?こっちでは上毛は取れないからさ」
K「わかった。いいかよく聞け、Yが、死んだ…」
I「・・・・・は?」
K「今日の上毛新聞で記事が載っていた」
I「ははは、よく聞かされる悪い冗談にしちゃあキツくねえかい」
K「冗談じゃねえ!!(キレていた)これは本当の話なんだ!学校の方はこの関係で先生方がえらいことになっているらしいんだ!」
I「・・・・・そら疑って悪かった」
K「スキー事故で亡くなったと書かれていた。部活関係だからスキー場はそっちの付近じゃねえのか」
I「…アサマ2000とかか?まあスキー場はあるけども…」
I「うーん…とりあえず話は分かったけど、こっちは長野県だから情報がまるで入ってこねえんだよ。なんか新しく分かったことがあったら連絡くれるとありがたい」
K「わかった。いいか、卒業式までお前も死ぬんじゃねえぞ!」
I「まぁなー。わかったわ。そちらもな」

電話を切ってまず親にこの一連の話をしたらそりゃあ衝撃の反応です。祖母(まだ生きていた頃です)はこんな若くして、卒業式の前なのに亡くなってしまうなんてねぇ…と涙を流していました。

一体どうなっていやがるんだ…あの時会ったあいつが…?死んだ?そんな馬鹿な?現実の話なのか?
玄関から外に出て、寒く晴れた青空を眺めて呆然と立ち尽くしたのでありました。

・休校日が登校日に
んで、卒業式までの一週間は登校日がない筈だったのが、急遽週明けに登校することに。安中教会で葬儀があるため、集まってほしいとのことでした。

「まさかこんな事でまた登校することになるとはなぁ…」

この時の自分はまだ事実を受け止めきれずにいました。無理もないです。遠方なので情報が入ってこない、近くの友人たちや関係者の雰囲気もつかめていない…
まぁ、行けばなんか分かるのか、そもそも死んだなんて本当のことなのか?それもよく分からん…といった感じで、まぁ電車を乗り継ぐのも大変なので車に乗っけてもらって学校まで向かったのでありました。

教室に行ったらもうある程度集まっています。友人もいました。

K「おおー、また会えて嬉しいぜ(抱擁)」
I「アホォ、卒業式になりゃ会えるだろうが…まあでも、どうも明るい雰囲気でもなさそうだわな」

女子生徒の中にはすでに涙を流してしまっている人もちらほら。こういうのを見てだんだんと本当の話なんだな…というのを実感していきます。
亡くなった友人の机には花が置かれていました。

先生が入ってきて、状況の説明がされました。やはりスキー事故でした。
練習中に一般人のスキーヤーが突っ込んできて、何とか避けたんだけどその先に柱があって衝突、頭を打って、ほぼ即死だったという感じでした。

即死?もうその時点で記憶もなんもなくなったということか?そいつの感情も人生も?そんなことがあるのか?

訳が分からんまま、もう少しで葬儀があって、同期全員で花を置いていく事になっているからついてきてくれということで、歩いていきました。
特にY君と仲が良かったM君という方が友人にいたのですが、気丈に振舞ってはいたものの、悲しみは隠しきれていないのが見て取れました。

・教会へ
そもそも教会での葬儀というのが想像ができませんでした。確かに彼の家系はそんな感じだったと記憶はしているのですが、自分の家族の葬儀は祖祖母の時に浄土真宗だったか?の法要をやったくらいか…当時それ位しか経験がなく、人の死についてまじめに考える機会もありませんでした。どんな風にやるのか…?とりあえず教会に向かいます。

着いたらもうある程度別のクラスの人が並んでいまして、後ろに並びました。順番に入っていって花を手向けて所定の通路から出るという方式だそうです。
まだ時間がありそうなので友人たちとは気を紛らわすために軽いゲームの話とかをして過ごしました。出口の方をちらっと見るとハンカチで顔を覆っていたり、泣き崩れていたりしていました。そんなになのか…
そうこうしているうちに自分たちの順番も迫ってきます。ここにきて差し迫った現実というのが頭の中に入ってきます。
「一度見たら受け入れなければならない」この意識が重くのしかかってきました。見ずにやり過ごせばどれだけ楽なことか…と一瞬思いました。
でも友人の一人をそんなことで見捨てる訳にもいきませんでした。

建屋の中に入ってからですが、音楽が流れている中ですすり泣きの声も結構聞こえてきます。
いよいよ自分たちの番になり、とりあえず自分はKと並んで手向けることにしました。一礼をして、棺の近くに花を手向けて、ちらっと中を見たのですが、いつも通りの顔があって…
んで、この時に恐らく過去の思い出も含めて色々な感情が一気に頭の中に入ったからだと思いますが、この先の出口までの行動は自分は頭が真っ白で覚えていないのです。

隣にいたKから後々話を聞きますが、中の顔を見た瞬間にお前がボロボロ泣き崩れて、立ち上がれなくなったので俺が肩を担いで出口まで運んでいったと。で、気が付いたら出口にいたというわけです。
本当にショックなことがあると記憶が真っ白になると聞いたことがありますが、本当だったんですね。
で、お礼ということでY君の家族の方からバンダナを貰い、あとは学校に戻ったという流れです。

戻ってもこれ以上することもないし、なんか遊ぶ気にもならないので、とりあえず友人全員で卒業式まではみんな健康でいろよという約束をして、帰路につきました。M君は生前の親交が深かったこともあって、火葬から納骨までY君の家族に付き添うようです。辛いなあ…って思いました…

・卒業式
その数日後には卒業式です。数日前の訃報だったので、本当に彼の卒業に関してはどうすべきなのか、先生方でも議論があったようです。が、自分たちの世代の生徒の強い意向もあって卒業証書を発行する、ということになりました。自分の学年の生徒はお世辞にもまじめとは言えず、我が強い人が多くて先生方も手を焼いてこれほどの不良世代は久しぶりだといわれるくらいだったのですが、普段意見がバラバラな生徒たちがこの時は全会一致しました。卒業証書は出してくれ、名前が呼ばれたら全員で立って返事をして背負ってやる、額はM君が持つ、こういう内容でした。自分含め、こう見えて情は厚いやつらなのです。

んで無事に卒業式が行われるのですが、Y君の名前が呼ばれたときに全員で起立して返事をした光景を目の当たりにして自分の母親もK君の母親も涙を流したと聞かされています。

・フラッシュバック
ただこの事故の前日に会っていたという経験が高校生のころに頭を悩ませるようになります。三月中旬ごろになると、当時の記憶がフラッシュバックすることが出てきたのです。背中を向けて手を挙げているあの光景です。

「あの時、なんか声をかけていればああいう運命は避けられたのかな…」

というのを考え、しかしもう結果は結果なので覆りようもなく、毎年この時期になると同じ記憶がよみがえってきて悩まされる、という事を繰り返しました。ただこの記憶は悪いことばかりでもありませんでした。これまでなんとなく生きていたような自分にとって友人の死はハンマーで殴られたような衝撃があり、自分は多感な頃に死にたいとか考えたことがあったけどなんて大馬鹿野郎だったんだ、とか、自分たちが生きているのってどういうことなんだろうか?というのを足りない頭の中でも真剣に考えるようになりました。高校時代に家でPCを買ったのですが、主流になってきたインターネットで、お世話になっていたとある方のホームページの掲示板にて経緯を話して相談してみたこともあります。俺たちってなんで生きているんだろうか?わからない、教えてほしいって。
年上の方が多かったのですが、結構みんな真面目に考えて意見を出してくれて、この時は本当にありがたかったです。当時自分なりの答えは出なかったのですが、この掲示板での色々なやり取りがのちの自分の思考の基礎になっていきます。

・霊園への訪問
高校も卒業して大学生になり、友人たちとは離れ離れになった中でもフラッシュバックはあったのですが、考えてもきりがないという所で、この記憶に蹴りをつけるために墓参りに行くことを決意します。大学二年になる三月下旬だったと思います。一年目のレポート地獄をようやく片付けて、冬期休暇でしばらく暇だったので、携帯電話でKに連絡を入れました。

K「よう、久しぶりだな」
I「なあ、いきなりなんだが墓参りに付き合ってくれないか?」
K「どうしたんだ?」
I「あぁ、中学の頃に亡くなったあいつのことだよ…」

話を聞くと高崎の霊園に墓がある、場所は分かるから任せとけということだったので、ほかの友人も全員誘って学校の駐車場で落ち合えばいいだろうと…車を飛ばして群馬県に向かいます。道中のヤオコーで花を買ったのを覚えています。

経緯を説明して、友人たちも納得してくれたので全員で相乗りして霊園に向かいました。
結構大きな霊園です。こういうのは見たことが無かったので驚きました。

・墓地前にて
Y君の家系の墓に彼も眠っているということで、Kの案内で墓の前まで来ました。一緒に行ったのは、さっき話したK君と、あとはT君と、O君と、YM君だったかな…(せっかくの機会なので、墓参りの後は飯食ったり遊んだりした)全員で花を手向けて、祈りをささげました。

I「なあK、あの前日俺はYに何か言えば、こうならんかったんかな…?」
K「変わらなかったよ」
I「・・・・・そうか・・・」

この墓参りで一通り胸につかえていた何かが解けたような気がして、以降三月にフラシュバックみたいなことが起こることもなくなりました。それと同時に芽生えた感情もありました。

「あいつの分まで生きなければならない」

大層な事言ってんなお前と思われると思いますが、大真面目に考えていました。Y君は突然何気なく続くはずだった日常が突然事故で閉じてしまった、でも自分が覚えていれば、記憶の中で彼は生き続けることができるはずだと。そのためには自分が生きなければいけない。

・そうは言うけども…
これは簡単そうに見えて難しいことでもありました。社会人になってから今に至るまで、おぞましい失敗やら理想と現実やら、漠然とした不安やら、そういった苦しい状況は多々経験しました。でも命を落とそうとは一度も思わないのです。這いつくばってでも泥水すすってでもあいつのために生きてやるんだと、この積み重ねでようやく当時の年齢の倍以上の所まで来ました。
年齢を重ねて同窓会にも参加したりして、風貌もみんな変わっていったりするのですが、Y君の顔だけは当時のままでギャップが大きくなるのはさみしさが増していくのですが、それでも覚えていれば奴の為にもなるのだろうと信じて、今を生きています。

・私の想いは…
さて、今の自死が大々的に取り上げられる風潮ですが、これに関してはメディア筆頭にただ乗りする人々の品がないとは思いますが、自分は人の人生にとやかく言えるほどの経験をしてきたわけでもありません。
ただ、誰でもそういう暗い感情は抱えていて、いつどういう時に明るみになるか分からない、そしてそういう未来になるのかもわからないのだと思います。自分もそうです。ただ、自分に関してはY君が止めてくれているような気がするのです。まだあの世に行くには早いんだよ、もっと世界を満喫して、遠い未来に来たら話をしてくれと言われているようで…
そういう歯止めになるものがあるかどうかは、割と大切なことのように思います。大層なものでなくても、例えばBCリーグのコミュニティとか、優勝や日本一を見届けるまでは、とか、みんなに会えなくなるから、という理由でも十分だと思います(結局野球の話も入れているじゃないか)。

皆さんにおかれましては、まずは今まで生きられたことは多くの支えと偶然と、色々なものが積み重なった結果なので、それに感謝してというところかなと…同期の中でも亡くなった方がいないというのならそれは幸せなことのように思います。残念ながら、自分の同期の中ではここ数年でもちらほらと訃報は聞いております…


あと、少し前に懐古園の桜祭りに行ってきたのですが、開発が進む近代化の中で、自然というのは一年通していつでも同じような光景を見せてくれます。彼らもまた生きているのです。
この事実を目の当たりにして、大人になって忘れかけていたような生きることへの渇望が蘇ってきたような気がいたしました。

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