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「ちないの。」

親戚の子が遊びにくる。
近くに住んでいるので、なんだかんだ月一くらいのペースで会っている。親戚の「おじたん」である自分はよく遊びに付き合わされる。
片方の親と確かに血がつながっているらしく、家族に聞くと、ブロックやパズルなどの遊びに一度興味を持つとのめり込むところや、顔も幼少期の自分にどことなく似ているらしい。
残念だったな坊主、キミはそんなにイケメンにはならないぞ、と予言しつつ、今のところはつやつやしたほっぺたの可愛い男の子である。言われてみれば、写真で見る自分の子どもの頃になんとなーく似ている気がする。

いい歳になった自分はといえば、我ながら人懐っこい風貌や振る舞いをしているとはとても思えないが、なぜかこの子には懐かれてる気がする。
先日は年末年始の年取りに一家で集まっていて、元日の日直を終えて帰宅したところ玄関先で待ち構えていたこの子の「おじたんだー!」の歓声に迎えられた。まんざらでもない。

コロナ禍が始まってはじめての冬に差し掛かる時に生まれたこの子は、母親に連れられてよくうちに遊びに来て、こちらも外出ができなかったり家ですることが増えていたため、遊びに付き合っているうち「おじたん」を遊び友達か子分のように思ってしまっているようだ。

最近は体重が15キロを超え、片腕で抱え込むのが難しくなってきている。それでも抱っこをしてあげたら突然顔にかぶりついてきた。
「おじちゃんはアンパンマンじゃないぞー」と言ってみたら、この頃だんだんと言葉を覚え始めたらしく、「おじたんはあぱまんじゃないよー」とほぼ完コピしていたずらっぽく笑ってみせた。

なぜこんなおっさんの顔にかぶりつくのか、と思い起こしてみたら、この子の母親が可愛さのあまりほっぺたにかぶりついてたのを思い出す。
一応彼なりの友好のしるしなのか。
よだれでべとべとなんだけど…

いわゆる「イヤイヤ期」に入ったのか、言葉がだんだん達者になってきたせいか、最近は少し自己主張がでてきた。
母親などから、たとえばお風呂に入るなど、気分に合わない提案がされたとき、舌の足らない言葉で「ちないの。」(しないの)と答える。
時間で支度をしてほしい母親とすれば、毎回これではたまったものではないだろうが、なかなか正直な子である。
一緒にプラレールの遊びをやっていて感心するのは、例えば車両を連結させるとか、まだ手の力が弱くてできなかったりすることがあるが、二、三度試してみてできないことは早々と見切りをつけて「できなーい」と大人に渡してくる。逆に自分でできること、やってみたいことを大人がやろうとすると、「じぶんでー」といって手を差し出してくる。

大人になるにつれ、いつの間にかこれが素直に言えなくなる。
立場を任されたり、相手との関係で期待されることがあると、自分のできること、できないことと噛み合わないことでもやることを求められる。
また自分のやりたいこと、したくないことに照らしてそれを主張すれば、わがままだと思われる。
「今日は残業してこの仕事やってくれ」と職場で上司に頼まれたのに即答で「ちないの。」なんて返したら、なんとも気まずい雰囲気になること請け合いだろう。

ここ数年、「心理的安全性」というものを紐解く本を何冊か読んでみた。
結局のところ、今いる人たちと、その人たちがそれぞれもつ「できること」「やりたいこと」がオープンになった上で、それと「やらねばならないこと」「やったことないけど前向きに試してみようという気の持ちよう」とがうまく噛み合う状態が必要なのだろう。
理想ではありながら、まだまだ本音と建前になっていると「おじたん」は感じる。

なん十年か前に無邪気な子どもだった「おじたん」も、気がついたらだいぶ人の顔色をうかがって物を喋るかわいくない大人になってしまった。
この子のように、かわいい笑顔で人を不快にさせない断り方なら、聞いてもらえることもあるんだろうか。無邪気な子どもと遊んでいるとこちらの気持ちの「凝り」もほぐれて、教わることも多い気がする。

この子が大人になる頃には、そんな「わがまま」も笑って受け入れてもらえることが、今より少しでも当たり前になっていると良いと思いながら、E7系の車両をつないで渡してあげる。

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