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プロレス雑記#01 NOAH、武道館に帰還す。

プロレスが好きだ。
自分の青春は何であったか、と思い返せば、プロレスにあった、と結論できる。
それも全日本プロレス、四天王プロレス全盛期。日曜日深夜の全日本プロレス中継、1週間の最大の楽しみがそれだった。インターネットで映像を手軽に見られない時代。週刊ゴング、週刊プロレス、東スポ。活字が平日の行間を埋める。宝島社のプロレス名勝負シリーズは何度も何度も読んだ。一冊目か二冊目か、あれは本当に名著であった。今でも捨てていないハズだ。
三沢が鶴田に挑み、川田、小橋、田上と四天王を形成した時代。ハンセン、ゴディ、ウィリアムスも強かった。テレビの前で幾度も叫んだ。笑いもした。泣きもした。なんの試合か、調べればわかるのだが、「馬場さんが涙を流しています!」という実況がときおり耳によみがえる。馬場さんはなぜ涙を流したのだろう。プロレスはプロレスだ、だから馬場さんは勝敗をめぐる闘いに涙を流したのではないだろう。2021年2月に行われた、NOAHのGHCヘビー級選手権、潮崎豪VS武藤敬司のことを記そうと思い立ち、馬場さんの涙はなんであったか、と少し紐付けてみることにする。

2月12日のGoogleカレンダーに「武道館」と記されている。プロレスの予定をスケジュール帳に書いたのははじめてのことかもしれない。NOAHが武道館に帰ってくる。それだけではない、純粋にマッチメイクも素晴らしい。正直申し訳ないが、清宮や拳王は知っている程度だ。やはり丸藤、秋山。このタッグの現在地はあの全日本プロレスの現在地でもある。さらに武藤、潮崎。こちらはついに実現し得なかった三沢と武藤のシングル対決の、夢の残骸ではあるが、幻想の可視化でもある。つまり潮崎は三沢の技を繰り出し武藤に立ち向かうだろう。武藤は?武藤は武藤、だが一つ焦点はムーンサルトプレスを撃つか撃たないか……。
プロレスのことを、その試合前にあれこれ考えたのは久しぶりだったように思う。天龍VSオカダ以来だったか。最近ではメディアやコンテンツが時間の奪い合いを、という話もあるが、ならば自分の時間はあのときプロレスに費やされていた。このテキストを書いている今もだ。

要するに、久しぶりにプロレスを楽しみにしていた武道館大会。実は武道館そのものや、ゲスト解説、その他ノスタルジーな要素にはあまり気持ちは動かなかった。それよりも純粋に試合が見たい。秋山、丸藤、来た!しかしこの二人のタッグは冒頭で満足。プロレスは勝ち負けが全てではない。でも、あまりにも勝ち負けに興味がなさすぎた。やはりメインだ。どちらが勝つのか?武藤は年齢が年齢だ。勝ったとしてチャンピオンを務められるのか。潮崎がチャンピオン、それは問題ない。武藤に勝って欲しいわけでもない。でもこの試合は勝ち負けを見届ける価値のある試合だ。セミが決着し、さあ。

メインイベント、最初に感じた違和感は武藤、よく受けてよく返すな、だった。この違和感は、想像内の、予測範囲内の、とは違うという意味での違和感。つまりこの試合は、どちらが勝つにしても結末は淡白なものと思っていた。武藤の年齢的に、カウント2.9の応酬は難しいだろう。だが武藤は受けて、返す。このペースでどこまでやるの!?……もう予測はできない。豪腕炸裂!まだ返す!そして反撃のムーンサルトだ。武藤がトップロープへ。だが飛べない。潮崎がカットするべきシーンであったかもしれないが、結果そうならなかったことであのシーンは永久不滅の名場面となったように思う。潮崎のムーンサルト、武藤まだ返す!
「武藤!武藤がんばれ!武藤!!」
気がつけば声が出ていた。勝ち負けはどっちでも良かったはずだ、だが今は武藤、武藤だ。NOAH、武道館への帰還、あるいは三沢、四天王、それらは全く頭になく、あるいはプロレスがプロレスであることもなく、純粋に武藤に勝って欲しい。そうだ。これがプロレスだ。好きも嫌いも未来も過去も、ファンタジーもリアルもないところに、なぜか人の心を目の前の闘いにのめり込ませ感情を爆発させるところにこそ、プロレスの醍醐味があり、ファンであることをやめられない魔力がある。
結末はフランケンシュタイナー。衰えた足の力で、不恰好に回転し崩れながら抑え込む、武藤の現在地のフランケンシュタイナー。情けなくてかっこ良かった。

ーーあの試合、馬場さんがなぜ泣いたのか?
なぜ、その理由がこうであったら良いな、という願望を込めて。
馬場さんは、馬場さんこそ、試合の勝ち負けや結末とは遠い存在だ。どっちが勝つか予想できない闘いにドキドキワクワク、そういった感情からは限りなく遠い。それでも、実況の言葉を信じるならば、馬場さんは泣いた。弟子たちの成長が琴線に触れたのか。全日本プロレス総帥としての安堵か。自分のプロレスを超えたものがそこにあったからか。
果たしてどうだろう、その理由は、ごくごくシンプルなものだったのではないか。つまり「あの瞬間、馬場さんもまたひとりのプロレスファンであった」。プロレスに人生を勇気づけられ、プロレスになにかを学び、プロレスを心の拠り所にするひとりのファン。馬場さんはずっと、プロレスが大好きだったのではないか。武藤と潮崎の闘いを見届けて40代の自分と、あの日の馬場さんが、同じプロレス少年だった。ファンなればこそ、プロレスの真の魅力は勝ち負けやイデオロギーを超えたところにあることも知っていた。では猪木は?長州は?鶴田、天龍、藤波は?あるいは三沢は?武藤は?プロレスラーはプロレスファンなのだろうか。プロレスファンとそうでないプロレスラーで、プロレス論や勝負論やショーマンシップが異なるのか。そうでないのか。プロレスを職業にしたレスラーと、プロレスをコンテンツとして楽しむファン。その間のプロレス観に隔たりがあるか、ないのか。新日系と全日系でそこには一つの分かれ道がありそうだが、どうだろうか。

そのようなことを考えると、おお、プロレスってやっぱり面白いな!と楽しくてたまらなくなるにのだ。

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