【ドラゴンクエスト Your Story ネタバレ有〼】もし、最後のあそこがああだったら

はじめに

 先日、↑のような感想を書き散らかしました。

 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー、まだまだ賛否が渦巻いています。
 いや、否の方が強いですね。
 どうやら、業者がいらんことをしたようでもありますし。
 まさに、泥沼。グダグダ。
 それを見て、じゃあ観ない、という人もいるでしょう。
 それは、個人的には、少し悲しい。
 じゃあ、どの辺りのメッセージが届かなかったんだろう、と少し蛇足ながら考えてみました。

 ドラゴンクエスト ユア・ストーリーを観て少なからずショックを受けた方にも読んで頂ければ幸いです。
 傷口に塩を塗るような形になるやもしれませんが・・・もっと軟着陸できたこと、もっと届ける形があったのでは、という自分の気持ちも多少整理する為に書かせて頂きます。

ユア・ストーリーのクライマックス

 ドラゴンクエスト ユア・ストーリーのクライマックス、ミルドラースの復活を目前にして、天空の剣を投げ込んだ息子、これまでの様々な感情が一気に収束していく瞬間、みんなが待ち望んだカタルシスが目の前に来ていました。

 それまでのストーリー、大変素晴らしい物でした。
 自分たちが知っているドラゴンクエストⅤとは多少違うながらも、3代に跨って描かれた、愛と友情の物語。
 名作ゲームを映像化する事の難しさを思いながら観た人たちは、ある種の答えを提示された気分でいた事でしょう。
 ああ、これはドラゴンクエストⅤの新しいエンターテイメントとして、コンテンツの新しい輝きを見せてくれた、と。
 しかし、事件は起こります。

 突然のフリーズ、天空の剣が投げ込まれ、晴れ渡る空の中心となるはずだったその先からキューブ上の物体が伸びています。
 それは、3Dゲームをプレイした事のある人なら直感的に感じる「何か良くないモノ」です。
 いわゆるバグ。
 いわゆるエラー。
 いわゆる、破損。

 その先から現れたのはおおよそドラゴンクエストという世界観からかけ離れた異物でした。
 彼の手によって失われていく世界の色、世界の輪郭、世界の骨格。
 真っ白となった世界の中で「それ」は言います。
 「この世界が気に食わない」「無駄だ」「大人になれ」と。
 「それ」はこの世界を壊すためにミルドラースに擬態して潜んでいたウイルスでした。

 「それ」にこの世界から弾き出されようとしたその瞬間、主人公は思い出します。
 自分がドラゴンクエストのVR筐体に入り、スタッフに説明を受けながら嬉々として語っている事を。

 ドラゴンクエストⅤの小説にも使われた(作中では小説については言及されておりませんし、それでひと悶着起きていますが)「リュカ」という名を好きだから、と設定し。
 それまでは花嫁にビアンカを選んでいたから今度はフローラを選ぶように設定し。
 スタッフに「このゲームはプログラムを自由に追加する事が出来るんですよ」と説明を受けながら筐体のドアが閉じられていきます。
 締まるドアの前に描かれたウィンドウには「ついかプログラム:1」「ついかキャラクター:1」という表示。
 恐らく、スタート地点を指定して始める事が出来る仕様なのか、幼少期からスタートの設定とも書かれていました。
 (蛇足ですが、この設定があった事により、ショートカットされた場面が劇中ではドット絵として描写されたのではないかと思います)

 さて、ここまで思い出して僕は「ん?」と思いました。
 何か、スタッフが大事な事を言ってませんでしたか?

 「このゲームはプログラムを自由に追加することが出来るんですよ」

 「このゲームはプログラムを自由に追加することが出来るんですよ」

「このゲームはプログラムを自由に追加することが出来るんですよ」

 そう、プログラムを自由に追加することが出来るんです。
 不思議な事に、スタッフが設定をいじっている様にも見えますが、主人公のリアクションが意図しない、ビックリしたようにも見えたんですよね。
 最初、フローラを選ぶ事が「ついかプログラム」だと思っていました。
 じゃあ「じぶんのほんしん」って何?
 不具合?
 本当に?
 もし、違ったとしたら?
 フローラを選ぶ事って、プログラムを追加する必要が本来は無いんですよね。
 だって、原作では選べるんですもの。
 本当に、初期設定でフローラを選んでいたらウィンドウには「はなよめ:フローラ」とか出てくるんじゃない?
 仮説ですけど、主人公が意志に応じて、プログラムが反映され、追加されていくとしたら?
 本当は、初期設定時の「ついかプログラム」って「じぶんのほんしん」だったんじゃないの?
 そう考えると、色々と疑問や疑惑が解消されていく気がしませんか?

 例えば、「この世界がただの作り物だったとしたら、ビアンカの涙も、フローラの決意も何もかもが魂の無い容れ物だったって事じゃないか」って意見。
 これだって、一見そうだな、って思いますよ。
 そう思う気持ちも凄い分かります。
 でも、追加プログラムが「じぶんのほんしん」だとした場合、主人公が生きた世界の中では間違いなく、主人公が望んだ通りの世界が進み、主人公が魂を吹き込んだ存在だった、という事にはなりませんか?

 詭弁かもしれませんが、そう考えると、あの映画内の世界は間違いなく主人公の物語、ユア・ストーリーだった、と考える事が出来ると思うのですよね。

でもさ・・・

 そうは言っても、あれは無いわ。
 そう、拒絶感を持つ人ももちろんいるでしょう。
 まぁ、そう考えると劇中の主人公の世界であって「自分の物語」じゃあないですもんね。

 そうなったら、仕方がないとは思います。
 宗派が違う。

 でも、少なくとも製作者がドラクエを未プレイと語った事を引き合いに出す人もいますが、八木・花房の両監督がエピソードの選定に関わっている事、エピソードの選定次第で非常に筋が悪くなることをちゃんと想定していた事を考えれば、生半可な気持ちで制作したわけではない事は分かると思います。

 そこまで考えて頂けるなら、もう少し、もう少しだけ優しくなってもらえないかな、とちょっとだけ、思うのです。

 あの世界観、あの選択肢が正解だと提示したわけではないのです。

 あの世界観を選んだ主人公を、制作陣は肯定した、という意思表明。

 それは同時に、タイトルワークとして「ユア・ストーリー」と銘打つことにより、観客それぞれの物語を肯定した、という意思表明だと僕は受け取っています。

 まぁ・・・あの映画が「自分の物語」としてしっかり認識してもらうためにはいくつか問題があったのかもしれません。

 個人的には「プログラムを自由に追加出来る」という事、自分の意思がもっと反映されている、という形をしっかり伝えないと伝わらなかったのかもしれないのかな、と思います。

 もしかしたら、観客のドラクエへの愛、ドラクエへの意思を信じたのかもしれません。

 もしかしたら、最後に拒絶の対象を配置する事により、ショック・ドクトリンの様な効果を狙ったのかもしれません。

 真相は分かりませんが、少しだけ・・・ホンの少しだけ好意的に解釈できたら、ほんの少しだけでも、救われる気もするのですよね。

 願わくば、ラノベ的なやつで再構築したらもっとグッと入り込める人もいたのかもしれない、とも思いますが、それこそ手垢のついた・・・げふんげふん。

 と、とりとめのない感じですが、思った事を思ったまま、書きなぐって見ました。
 解釈違いだったら、アレですが、自分なりに、少し考えてみました。
 この文章が、誰かの悲しさを少しでも和らげてくれるのであれば幸いです。



え?ついかキャラクターの話?

そんなん、スラりんに決まってるだろーさ!

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