哲学の問い

中島義道『死の練習』ワニブックス
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p53
(天才以外が)真に哲学することは思いのほか大変であって、それは二つの要素からなっている。その一つは、自分の体内深くまで根を張る「問い」を手放さないこと、そしてそれを執念深く育て上げることです。その問いとは、それを手放すなら、生きていても仕方がないと思うほどの問いであり、その問いを解決すること以外のすべてが与えられても満足しないだろうと思うほどの問いです。
ここで、プラトンの『ソクラテスの弁明』をちょっと覗いてみましょう。ソクラテスは青年を堕落させたこととアテナイの神を敬わなかったという二つの罪状によって告訴される。その弁明の中で、ソクラテスは、哲学を辞めれば放免してもらえるという仮定を立てたうえで(そういう可能性もあったようです)、次のように言い放ちます。
私が息をし、そうし続けることができる限り、私は哲学し、皆さんに訴えかけ、皆さんのうちのだれに会おうと、その都度常々私が口にしていることを言って自分の考えを明らかにすることを決してやめないでしょう。
(『ソクラテスの弁明・クリトン』三島輝男・田中享英訳、講談社学術文庫、p49)
こうした「硬直した」態度のゆえにソクラテスは市民たちの反感を買い、死刑判決を受けるのですが、まさにこれこそ哲学者の鑑、キリスト教の殉教者と同じ心構えと言っていいでしょう。しかし、はっきり言って、こうした心構えを持っているだけでは、哲学を続けることはふつうはできない。

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