『教職研修』での連載「哲学者に読んでほしい教育の話」。今回は哲学を知らずに偉そうなことを言うなら?!

「『教職研修』での連載「先生に読んでほしい哲学の話」。今回は、「現場を知らずに偉そうなことを言うな⁉︎」です。」
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私の知る限り、少なくともプラトン(とルソーも?)は、現実的な「行動」に勤しんでことごとく失敗したことが彼をあのような途方もない理想主義イデアリズムに向かわせたのだった。ルソーも合わせてこの二人は、文献学市場では百貨店に卸されて高値がつけられ過剰包装で売り出されているようだけれども、教育学市場ではかくも廉価に流通しコンビニで手に取れるほどに細切れにされて店頭に並んでいるみたいである。いやはや。

タレスやソクラテスやディオゲネスらの言い伝えの通り、哲学者は世間知らずで現場を知らない愚か者である。星を見上げては井戸に落ち、家庭を見捨ては広場をほっつき、日陰を遮る大王にも、「ちょっとどいてくれ、日向ぼっこの邪魔だから」である。おもうに、「だから大事なことは、さまざまな“現場”の知見をお互いに持ち寄り、交換し、活かし合う」(引用ツイートの写真中段)ことではない。なぜかといえば、全く単純であるがゆえに愚鈍であるのを承知で、哲学は普遍を求めるからである。“現場”の知見がどれほど集積されようと、せいぜい現世における何らかのものがほんの少しばかり良くなるか悪くなるかするくらいことである、と哲学者は決めてかかる。宇宙の真理をまともに相手にしている無恥(無知)な哲学者は、理想をこの上なく偉そうにしかもクソ真面目に語らねばならない。そうでないなら哲学者として存在する価値など何もない。

だ・か・ら、「これが私の“現場”の知見です。あなたの“現場”の知見は何ですか?」ではない(引用ツイートの写真下段)と思うのです。哲学は究極に広範な営みです。全人類の哲学にまで広げたとしてもその全体は神にとって何でしょう。だからこそ、私たちは、お互いに見えているを持ち寄って、哲学の全景を描き合っていくことは全く無駄な努力だと常日頃から自覚する必要がある。そう哲学者は考えています。

教育哲学者のことは知らないが、哲学者であるならば、哲学者であるからこそ、教育は哲学に従事すべき単なる諸学のうちの一つとしてしか認めないという立場でいいではないか。現場がどうだとかこうだとかいうことに対してあくまでも常に強硬に、哲学はこうであるから、と大上段から構えてしょうもないゴタゴタに耳を貸さないということがあっても全く構いはしない。傲慢だろうが不遜だろうがそれが正しい哲学であることには間違いない。

ところで、アカデメイアという教育機関では、幾何学を知らざるものが足を踏み入れられなかったそうだが、それは、アカデメイアの教育が現場に合ったものでなければならなかったからなのか?さらにところで、プラトンはシュラクサイに行ってまで、僭主を、「教育」しようとしたのだろうか?仮にそうだとして、どんな教育をしようとしたのか?現場に合った教育? 

プラトン第七書簡 326A (岩波書店プラトン全集14、p111)
というのは、法習の現状は、どの国にとっても、もはや、何かびっくりするほどの対策と、あわせて好運をもってしなければ、とうてい治癒されようもないほどになっていたからですが、ーーーそして、それとともにわたしは、国政にせよ個人生活にせよ、およそその全ての正しいあり方というものは、哲学からでなくしては見きわめられるものではないと、正しい意味での哲学を称えながら、言明せざるをえませんでした。

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