対話の対話篇1

1 パレーシア、怖れ、セーフティ
1.1 真理の探求は、一人でやるのも複数でやるのも難しい
1.2 対話とは問いと答えの形式
1.3 パレーシアとセーフティ
1.3.1 真理を知らなくとも語ろうとすると勇気がいる
1.3.2 畏怖や緊張感がセーフティには伴う
1.3.3 セーフティとは真理の探究が阻害されずに徹底化されること
1.3.4 すでに無知を自覚している対話者でなければならない
1.4 子どもたち自身にとってのセーフティは夢のことかもしれない

2 カーニバル、誤りかどうか、子供が教える、の対話
2.1 カーニバル
2.2 間違っているかどうかから考え始めるべし
2.3 対話は子供が大人に教える
2.3.1 対話のパラドクスは擬似問題
2.3.2 快いときにこそ哲学することを忘れているのに気付いていない
2.4 夢は哲学する?哲学は夢みる?

3 二つの手紙
3.1 手紙1 哲学すべきかどうか哲学する?
3.2 手紙2 哲学することを忘れていること
3.2.1 返事はとにかく書くべきである
3.2.2 理解できないのは知力か努力が足りないかのどちらか
3.2.3 仲間が老人になるのは寂しい
3.2.4 子どもは教えたがっている。現代:古代ギリシャ=大人:子ども。


1 パレーシア、怖れ、セーフティ

1.1 真理の探求は、一人でやるのも複数でやるのも難しい

求 知さんよ、真理の探求ってものがどれだけ難しいか知っているかい?

知 ああ、知っているよ、求さん。一人でやるのも難しいけれど、二人やそれ以上となるとまた別の種類の、同じくらいの難しさがあるね。

求 そんな対話のときには、君はどう思っているのかね?

知 邪魔してはいけないとびくびくしてしまうことが多いかもしれない。

求 それこそが、君のような大人が対話に臨む際の、最善の態度なんだよ。

知 そうなのかい?

求 そうさ。対話の参加者がもっとも安心できるのは、真理を語ろうとするならば、とても慎重でなければならず、だからこそ、勇気をふり絞らなければならない、ということを知っているときだよ。これが大人のための対話のセーフティで最も重要なことだ。

求 つまり、パレーシアに対する畏怖が対話の参加者に共有されることを通じて、安全性が生まれるということだね?

知 そう。無知を自覚している人々に限ってそのことが言えるのだけれども。

求 そのことならばね、そういえば、真里と勇生が一度知恵を絞って考えたということだよ。

知 そうかい。どれどれ。

1.2 対話とは問いと答えの形式

M 久士くんと英士くんはこのところずっと対話の形式の対話をしていたよね。結構謎だったけど。

Y そうだね、謎といえば謎だったけど…。でも、「対話とは何か?」と問う人が久士くんであり、「このことだよ」と答えるのが英士くんだったわけで、それこそがまさに対話だってところは、十分僕には理解できた気がするな。久一くんと英一くんの対話よりはまだましだったよ。

M そうかもね。問いと答えが短く区切られていたしね、久士くん達の対話の方はね。そういえば、「問いと答えは単位になり、対話を区切るんだ」という話題が対話の中にもあったよね。

Y そうだった。短く区切られていて、なおかつ、三歩進んでは二歩下がるみたいに、話題の始めと終わりには「ちょっと復習」があって、何度もしつこく言い聞かせてもらった感じがした。多分それで十分理解できた、という感じがしたのだと思うよ。

M その「ちょっと復習」ってのは、ところで、NさんとSさんと勉強会をしていたときに二人が教えてくれたことだよね。とくに「書く」ときには、段落には言いたいことは一つ、1ページで何を話しているのかを揺るがしにしてはいけない、っていうのは。

1.3 パレーシアとセーフティ

1.3.1 真理を知らなくとも語ろうとすると勇気がいる

Y その勉強会のことなんだけど、僕はあの勉強会では少し緊張していたのに気づいたかい?

M まあ、なんとなくね。でもまあ、先輩達を目の前にしてテキトーなことは言えないよね。

Y そうなんだ。だからこそ、僕にとってはあの勉強会での対話は、今の僕が思う理想の哲学対話だったと思う。

M へえー。どうして?対話では緊張していた方がいいの?それって対話のセーフティってこととは一見逆のように思われるけど…。あまり緊張したところでは自由に対話できない気がするんだけど…。

Y まず、どうして僕が理想の哲学対話だったと思っているのかを簡潔に言っておくよ。それは、真理を語ろうと必死になったからだ。

M そうなのだろうけど、それはどういうこと?例えば?

Y 例えば、あの対話においては、二人の先輩は僕よりも一層哲学をしてきたのであり、さらに専門的な知識を持っている。そういう人々が本気で何か真理を語り聞こうとしている姿には、たとえ見たところでは和気あいあいとしたものであっても、何らかの畏怖を感じざるをえないと思うんだ。

M んー、難しいなー。まあ、続けて。

Y その上で、そういう先輩達が、真理の探求に寄与する何かを僕が話そうとすれば聞いてくれる。こういう空間に僕はセーフティを感じるんだよ。

M うーん…。

Y そして、真理の探求に寄与する何かを言うのには勇気がいる。だって、僕自身は真理を知っているわけではないのだから。そして、対話しているみんなも真理を知っているわけではない。その人たちが必死で真理に向かう探求をしているのに、いい加減なことを言ったばかりに、真理の探求を台無しにしたくないって思うんだよ。だから緊張してしまうのは当たり前じゃないかな。

1.3.2 畏怖や緊張感がセーフティには伴う

M 緊張するのは確かにそうだね。「畏怖」というのも、何かを台無しにしたくない、ということから少しわかる気もするな。でもやっぱり、そんな対話ってセーフティがないんじゃないかな。

Y そうなのかな?それはセーフティがないってことなのかな?僕は逆に、こうした「畏怖」や「緊張」こそが、真理を語ること(パレーシア)を全面的に許してくれるのだと思う。だから、知的に安全なのだと思うけれど。

M でも、セーフティや知的安全性っていうと、安心や安らぎのことがまず一番初めに来ると思う。だから、何を話しても非難されたり嘲笑されたりしないことがセーフティの一番の基本だよ。やっぱり君は正反対のことを言っている気がして、どうしてもセーフティなんかじゃない気がするな。

Y 君がいうようなセーフティが、純粋に真理を探究することのできる子どもたちやそれに類する人々にとってのものだというのならば、僕は全面的に賛成だよ。しかしながら、悲しいかな、僕自身を含めて、大人たちは一般に、純粋に真理を探究できるような神々しい存在者ではないんだよ。

M なるほど。しかも、そんな大人のうちのほとんどが、純粋に真理を探究できてはいない、という自覚すらないものね…。

Y そのとおりさ。だからね、大人たちにとってのセーフティは、子どもたちにとってのセーフティとは異なったものでなければならないよ。

1.3.3 セーフティとは真理の探究が阻害されずに徹底化されること

M では、大人たちのセーフティとは結局どういうことになるの?それが君の言っている「緊張」とか「畏怖」とかいうこと?

Y そうだね。でも、もちろん、セーフティというからには、「安心できる」という要素はもちろんあるよ。

M それは例えば?

Y 君が真理に近づこうという態度で発した言葉に限っては、たとえうまく言えていないとしても、他の人がそれを修正してくれるだろう。「君の言わんとしたことはかくかくしかじかですね?」、「そういうことならば、今の議論の限りではこれこれということになります」というふうに、君よりも、君の発言がその対話でどんな位置を占めるのかを言ってくれる人がいるのは、とても安心できることだろう。だからこれをセーフティと言っていいと思うのだ。

M なるほどね。それは心強いね。

Y また、それとは逆のこともあって、多くを話しすぎる場合や愚かな発言に対しても、はっきりと、「間違っています」とか「黙って下さい」とかいうことが言われるならば、これもセーフティだと思う。

M え?どうして?そんなふうに言われたら恥ずかしい思いをしちゃうじゃん?

Y そうだよ恥ずかしい思いをするよね。でもそれでいいはずだよ。そしてもうそんな恥ずかしい思いをしたくないと思うに違いないよ。

M それがセーフティなの?安心できるってことなの?

Y そうじゃないかな?だって、知らず知らずのうちに愚かな発言をしたり、しゃべりすぎたりしてしまったら、真理の探求という基準に即してきちんと矯正してくれる人がいるのは、安心できることではないかな、君が真理の探求を目指すならば。

M 確かに、君のいう通りではあるかな…。

1.3.4 すでに無知を自覚している対話者でなければならない

Y こんなに偉そうなことを言ったのだけど、僕もしゃべりすぎていたり、愚かなことを言っていたりすることはある。それを指摘されたら恥ずかしいだろうし、なかなかそれを受け入れるのは難しい。後になって考えても納得できないだろうね。でも、だからこそ、哲学がどうだとか対話がこうだとか論じるだけでなくて、本当に繰り返し繰り返し実践しなければいけないと思うんだよ。まだまだ哲学するのも対話するのも、哲学対話するのも、簡単にはできない。けれども、それは、いつも、誰にとっても、難しいことは僕はよく知っているつもりだよ。

M そうだね。だからやっぱり、ここまで私たちが対話してきたことっていうのは、とても難しいってことだよね。

Y そういうことになってしまうね。僕たちは、無知を自覚している対話者たちに限っては、真理の探求が台無しになるかもしれないと怖れることでセーフティを生み出すことができる、ということを論じてきたのに…。

M 論じてきたそのことは、今ここで対話しているこの対話にしか言えないことかもしれないんだね…。

Y だから、それを知ろうと欲する(哲学する)するしかないんじゃないかな?

M つまりやっぱりデルポイの神託ってことなのかな?

Y 汝自身を知れ。

M 度を超すなかれ。

1.4 子どもたち自身にとってのセーフティは夢のことかもしれない

知 求さん、どうやらこの二人は、子どもたちにとってのセーフティのことはまだ話していないらしいけど。

求 知さんや、鈍いですなあ、そりゃあ、わしらがやらんといかんことなんですよ。

知 ちょっと今日のところはもう寝なきゃならんので…。

求 夢でも哲学はできると?

知 さあ、どうでしょう?おやすみ!

2 カーニバル、誤りかどうか、子供が教える、の対話

知 求さんよ、夢でも哲学できたかもしれないよ。というのが、対話についての対話の夢をみたんでね。

求 知さん、冗談言っちゃあいけない。でも、冗談なら聞いてあげる。

2.1 カーニバル

香子 やめといたがいいと思うよ。余計にややこしくなるだけだと思うよ。

青児 そうかもしれないけど、真面目くさった坊主や神父の説教みたいなことを勇生くんは言ってるんじゃないんであって、そのことはくらいは短く言わせてくれよ。

香子 誤解を避けようとすると余計に難しくなっちゃうのにね…。それでもいいのかな。

青児 真理の探求だとか勇気だとかいうと、とかくみんなクソ真面目で厳粛なものだと思うのだろうが、全然そんなもんではない。真理の探求の果てには最高の笑いが待っているんだし、緊張や畏怖と隣り合わせの勇気や安全性は、踊り出さずにはいられないウキウキ感のことでもある。だから、そこに流れる音楽のようなものなんだ。この点では、対話については何の参考にもならないバフチンの、カーニバルやポリフォニーと言ったことは、的を外していないと思う。

香子 ふーん。

青児 そんな祝祭で、シラけたことを言われてはたまったもんではないだろ?それに自分だってスベったりはしたくないだろ?勇生くんはこういうこと「も」言っていると、俺は言うぜ。彼が言わなくたって俺はそう言いたいね。真面目な大人たちにはこれが通じないんで、こっちは黙っていられない。真面目な大人たちは、ギリシャ哲学を全然知らないし、子供の哲学を知らないし、自分自身の子供の頃の哲学を全然知らない。だからつまりphilosophi青児ってものを全く知らない。本当に無知も甚だしい。

2.2 間違っているかどうかから考え始めるべし

香子 そうですか、本当に?ちょーっとそれは言い過ぎてはおりませんか?

青児 いやいや、言い過ぎなきゃいけないね、こういうことに関しては。だって勇生くんが言っていることを「よいこと」みたいに勝手に誤解して、しかも「そのことなら知っているよ」みたいな顔をするバカどもばっかりなんだから。まさにそういう人にこそ、「対話する」ことが不可欠なんだよ。対話を広めようとしたり、対話についてあれこれ言ったり、対話を教えようとしたり、、、こういったことは一切やめていただきたいね。ただただ「対話」すればいいだけなんであって、それだけだ。

香子 そういうあなただって、勇生くんの言っている対話を広めようとしたり、対話の安全性についてあれこれ言ったり、カーニバル的な対話を教えようとしているのではないの?それはどうなの?

青児 まったくその通り。だから、俺にだってその資格があるってことさ。対話についてどうこう言ったり、対話を広めていったり、対話について教えることは、大人たちだけに認められた資格ではない、ってことさ。

香子 まあ、確かに。君の考えているような対話はともかく、子供が、対話を広め、対話についてああだこうだ言い、対話を教えるのであっていいよね。

青児 自分の言いたいことを言わしてもらうけど、大人たちは、俺と同じ穴のムジナなんだよ。だからこそ、大人たちが自分自身で、自分の言っていることが間違っているということを、よーく考えるべきだ。自分の言っていることが正しいかどうかを考えるのではなくて、間違っているかどうかをもっともっと考えるべきだね。そもそものはじめから大人たちは、自分が正しいかどうかを考え始めようとするが、もうそれが間違いなんだよ。そもそものはじめから、自分が間違っているかどうかを考え始めるべきなんだよ。正しいかどうかを考えるのは、そのあとでの話だよ。

2.3 対話は子供が大人に教える

香子 え、つまり、究極的には、子供には対話を教えなくていいってこと?

青児 冗談じゃないよ。そもそも発想が逆だよ。子供から大人が対話を学ぶべきなんだよ。だから哲学対話ってものが存在するんだよ。正しい対話というのを子供から大人が学ぶのが真の哲学対話なんだって。

香子 本気で言ってるの?

青児 本気だよ、もちろん。というか、どうして他ならぬ君がそんなことを言い出すんだい?

香子 え、だって私教師だから…。

青児 教師こそ子供から学ばなきゃいけないって言葉聞いたことあるでしょ?あれ本気にしてないの?

香子 え、うん…。

青児 あれは本当にいいことを言ってると思うんだけど、哲学対話にこそ当てはまる言葉だね。

香子 そう…。

青児 哲学対話に限っては、子供が大人に教育すべきことは自明だよ。大人が思いついた哲学対話なんて、丸い四角みたいなもんだね。そんなの教えられっこないどころか、想像することさえできやしない。

香子 ていうか、正しい対話なんてあるの?

青児 あるよ、もちろん。その基準は子供の対話にあるんだよ。

香子 それじゃあ、大人には決して分からないじゃん、対話の基準なんて。

青児 そうだよ。だからこそ大人が常に学び続けなきゃいけないって言ってるんじゃん。大人だって子供の時は知ってたんだから。

香子 ああ、そっか。今は忘れているだけなんだ。

青児 そうだよ。探求のパラドクスもイデアの想起説も、「今は忘れているだけなんだ」ってことを言っているのは君も知っているじゃないか?

香子 そうだね。よく知っているつもりだったけど。

2.3.1 対話のパラドクスは擬似問題

青児 パラドクスというのは典型的に以上のようにして解決されるんだ。よく覚えておいてほしいね。

香子 そうなの?パラドクスといえば、私たち教師の中では、生徒が自律的にとか自由になることを教えようとすると、その教えようとすることに反することを、子どもにも教えなければならない、っていうことが言われたりする。これも君は解決できるっていうの?

青児 もちろんさ。今まで言ってきたことから自明じゃないかな?

香子 え?何が自明なの?

青児 教師が何か教えようとするのはやめにするってことだね。逆に、子どもが何か教えようとすることを、教師が学べばいいってだけのことだよ。

香子 そんなことできっこないよ。だって子どもには、教師の言っていることが全てじゃないよ、ってことまで教えなきゃならないんだから。

青児 そういう考えにとらわれている限りパラドクスは残り続けるね。しかも全くの虚偽の問題としてね。だから僕に言わせれば、いわゆる擬似問題だということになる。子どもが主体的になるように教えるということにまつわる困難は、全て「にせ」の問題だ。子どもは全てを教えてくれる。だから教師は子どもから学ぶ。少なくとも哲学対話に関してはそうでなければならない。この簡単なことを、徹底的に実践すればいいだけさ。大人の事情をしのごの言ってないで、それをひたすらやればいいんだよ。

香子 君はそんな理想を言うけど、現場ではそんなことはなかなかできたものではないよ。「大人の事情をしのごの言ってないで」なんていうけど、私たち現場の教師にとっては、それが全てなんだから。そのことに目を向けてくれないと、話にならないんだよ。

青児 君の言わんとしていることは、確かにそうかもしれないけど、僕がずっと言っているのは、哲学対話に関してだということを忘れないでほしいね。教育とか育成とかいうことがより一層重要なのなら、君の問題は考慮すべきかもしれない。けれども、哲学対話に関する限りは、こうした理想を実現させるのでなければ、何らの哲学的価値もないってことさ。

2.3.2 快いときにこそ哲学することを忘れているのに気付いていない

香子 そうなのかもしれない。でも、現場の教師には、君の知らないいろんな事情があるの…。

青児 そうだろうね。だからこそ、君は忙しくて考える暇がなくなっているんだと思う。しかも、君が考えていることを言っても通じない大人の教師たちに囲まれて不安になっている。

香子 そうかもしれない…。

青児 それだけじゃないよ。君が話が通じると思っている話題は大抵、大人たちに都合のいいものでしかない。だから、褒められたり賛同してくれたりするようなことを君は自然に話すようになる。自分の考えは実はそう変わっているということに気づいていない。

香子 あまり心当たりはないのだけど…。

青児 人が評価してくれたり協力してくれたりすると快い。だからこそ、そこで立ち止まって、他人がどうして評価してくれたり協力してくれるのか、そしてそれによって自分が何をすることになるのだろうか、そのことをぜひ考えるべきだと思うね。それができなければ、結局哲学できないのと僕は同じことだと思うよ。だって「考えてない」んだから。

香子 私はまだそんな自覚はないよ…。君に言われたことをすんなり受け入れる準備はまだできていないよ…。

青児 もう一つ付け加えたいのは、以上に言ったように、自分が快いと思っているとき、楽だと思っているとき、こういうときこそ、立ち止まって考えなくてはならない。苦しいときに考えるのは、それに比べれば無限に簡単だ。

香子 まあそうね。だって苦しいときには考えざるを得ないのだから。

青児 快い、楽にしているときこそ、人はただ考えていると「思っている」にすぎないことを知らないといけない。古代ギリシャから西洋哲学に伝わる「無知の自覚」とは、まさにこれのことさ。このことを知らなかったら、知を愛する哲学の密儀にはちっともあずかることはできないだろうね。

香子 哲学の密儀…。

青児 それにしても、君でさえそんなふうに考えてしまうようになっちゃうのか…。なんか自分自身のことが心配になってくる…。

香子 私は始めは、そんな心配や不安を抱えていたんだよ。始めはね。始めのうちは不安でいっぱいだった…。

2.4 夢は哲学する?哲学は夢みる?

求 知さん、やっぱこりゃ夢だわ。子供と大人があべこべになってるよ。しかも支離滅裂だし。せめて夢と対話してから、私と対話しておくれ。そしたら夢も哲学になるかも。

知 え?夢が哲学するなんて言ったっけ?哲学は夢みる、とは言ったような気がするが。

求 それも夢だよ、知さん。まだ寝ぼけてるんじゃないの?


3 二つの手紙

3.1 手紙1 哲学すべきかどうか哲学する?

忘田 先生

(いつものように最初の挨拶その他は省略させていただきます。)

先生は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、同封する手紙は、私が哲学をしようかどうか迷っていたときに、いつも顔を合わせて話をしていた友人の一人が書いたものです。彼は私と同じ歳で、私が先生に指導を受けていたときに、何度か我々のところに尋ねてきたことがありました…。いや、そういった私と彼との個人的な関係は今は度外視して、先生にお尋ねしたいのは、私はこのような彼の手紙とも言えないような手紙に返事をすべきかどうか、ということです。対話を書き連ねただけの手紙は私はもらったことがないので、どうすればよいのか分からないのです。もしもよろしければ先生のご意見を、簡潔にでよろしいので、お伺いできればと思います。

(いつものように最後の挨拶その他は省略させていただきます。)

お返事お待ちしております。

憶村

3.2 手紙2 哲学することを忘れていること

憶村 君

まず、君と彼との関係は今や度外視してよいとのことだけれども、念のために言っておけば、私は彼に会った記憶はほとんどない。君が哲学しようかどうか悩んでいたときのことも、老人となってしまった今では、ほとんど記憶がない。もうそれが何年前だと言われたとしても、他に何があったか思い出せないだろう。しかし、一つだけ覚えていることといえば、アリストテレスの「哲学の勧め」には有名な文句があって、「哲学すべきかどうか哲学しなければならない」とのことだよ、と冗談で君に言ったことくらいだろうね。

3.2.1 返事はとにかく書くべきである

さてそれで、君は彼に返事を書くべきかどうかということだけれども、まず、返事は書くべきだ。たとえ彼に送ることにならなくとも、返事を「書く」ということが重要だ。それがなぜかは、君が書いてみたらわかるだろう。そして君が書いてみればこそ、彼が書いたということがどういうことであったのか、彼がそれを君に送ったのがどういうことか、わかる手立てが見つかるだろう。

3.2.2 理解できないのは知力か努力が足りないかのどちらか

彼の対話の中身に関していえば、君自身や君の周りの人々が言っていることと何ら変わりはない。そして、私が思うに、哲学の中で中心的に伝えられてきた多くの諸見解に一致することと思う。だからそういう意味では新しいことは何もない。だから、理解するのに難しいことは、おそらく一つもないのではなかろうか。もしも君が何か難しいと感じるならば、それは君の知力が足りないか、理解しようとする努力が足りないかのいずれかだろう。

3.2.3 仲間が老人になるのは寂しい

ところで、対話は子供が教えるのだ、という彼の見解は、私の趣味によくあう。まあ、しかし、趣味であるだけでなくて、私の周りの気の合う哲学者はみな、本来そう考えていたと思う。本来そう考えていたなどというのは、最近ではそれをはっきりと言っているのはほんの少ししかいないからだ。本来そう考えていた人たちは少なからずいたのに…。どうやら当初の意図を忘れつつあるのだろうか。自分が老人になるのも恐ろしいが、気の合う仲間が老人になっていくのは、なんとも寂しいことではある。まあしかし、こんなことを君に言っても仕方あるまい。

3.2.4 子どもは教えたがっている。現代:古代ギリシャ=大人:子ども。

まあ、とにかく、対話は子供が教えるのだということは、子供が学びたがっているだけでなしに、教えたがってもいることに敏感であれば、明らかなことなのだがね。少なくとも哲学対話に限っては、そうでなければならない。哲学の「子供」から「大人」が学ぶ。これはいつの時代になっても哲学の始めのギリシャ哲学から我々が学んでいるのと、全く同じことなのだよ。後代の哲学と古代ギリシャ哲学との関係は、自分自身の大人の頃の哲学と子どもの頃の哲学との関係のことなのだ。

そして、大人になっても学ぶことが必要だというのは、他の大人から学ぶというだけでなしに、子供から学ぶということもふくむわけだ。老人たちは単に尊敬されたいというだけのことから何でもかんでも教えたがるのだが、これほど醜い老人の姿は私はないと思うね。尊敬されたいと自分では思っていないつもりでも、そうなってしまうということに全然意識が向かない。そういう老人を前にして、子供達は何も教えるつもりも学ぶつもりも失せてしまい、ただ黙っていたいと思うだけだろう。そうではないかね、君?私の前で君が黙っているのが多いのは、そういうこと私に知らせてくれているのだろう?違うかね?笑

こういうわけなので、君はとにかく彼に返事を書くべきだ。そして、私にも返事を書くべきだ。それは送らなくてもいいんだから。でも、送ってもいい。私にはそんな手紙がたくさん、本当にたくさん、あるのだよ。この手紙も……………

(終)

対話屋ディアロギヤをやっています。https://dialogiya.com/ お「問い」合わせはそちらから。