聞きたくない言葉なんて聞かなくていい

 世の中にはたくさんの言葉があふれている。友達と遊ぶ子どもの楽しそうな言葉も、店員さんに文句をつける悲しい言葉も、コンビニエンスストアの入り口で孤独を呟く寂しそうな言葉も、たくさん。
 聞きたい言葉だけ聞いて生きればいい。だから私は言葉にすることをやめない。言葉の価値は私が決めることだから。

 人間の生活はどんどんと豊かになっている。インターネットやスマートフォンの普及によって私たちはどこまでも幸せな生活を手に入れられているはずだ。それなのに、現実として人は幸せになっているのだろうか。私の周りの人々はそれほど幸せそうには見えない。いつも苦しそうにため息をついていて、何かに追われるように生活をしているひとばかりだ。そういう人の目はみんな一緒で、こちらを全く見ていない。私を人間としてではなくて、モノとか手段として見ているみたいだ。だからモノが想定と違うことをすれば苛立つし文句だって簡単に言える。相手を人だと思っているのなら言葉を使うことにもっと慎重になる。相手を対等な人間だと認識していれば、なおさら。

 世の中には死んだ言葉があふれている。誰かの言った言葉、自分でかみ砕かずに字面だけを似せて作った血の通っていない言葉。だから人を傷つけても人を守ることができない。一時の慰めにはなっても、心には届かないで流れていってしまう。それも仕方のないことだと思う。世の中では血の通った言葉は案外嫌われる。人の血なんて見たいと思うモノじゃない。だから言葉もなるべく透明に、清涼飲料水みたいに喉の通りのいい言葉ばかりが好かれてしまう。でも、それでは人は幸せにはなれない。どれだけ美味しい水を飲んだとしても空腹は満たされない。満たされていないのに、ダイエット中の人みたいに我慢をするから、自分が痩せ細って力が出なくなっていることに気がつけないでいる。

 世の中に正解はない。誰もがわかっているけれど、正解を求めてしまう。違いを認められないのは、多数決が起こった時に採択されるほうに身を置いていたいから。自分のしたいことが否定されないように、必死に正解を求めてしまう。それが誰にとっての正解なのかなんて考えずに、たとえ考えたとしても自分の中の正解に自信が持てないから、怖いから自分を守っている。それでも自分の中の正解はずっとあるから、世の中の正解らしいものの中にいながら不安を覚え続けている。本当は間違いこそ自分の正解なんじゃないかと。

 言葉は便利だけれど、上手く使うことはとても難しい。言葉の意味や文法は習うけれど、言葉の上手な使い方を先生は教えてくれない。大好きの伝え方も、大嫌いの伝え方も教えてくれないから自分なりに正しいと思う方法で伝えるしかない。生まれて初めて大好きを伝えることができたときの方法が、自分にとっての正しい言葉の使い方だ。けれどその方法は社会にとってはあまり受け入れられるものではなかったり、人とは随分と方法が違っていたりする。当たり前なことだ、人には個性がある。誕生日も両親も、細胞の進化の仕方にだって多少の差異はある。だから誰にも、人の言葉の使い方は否定できるものではないはずなのに、社会という実態のない怪物によって劇薬のような個性は希釈されて、毒性は死に至らないほどに薄くなっていく。そうして加工された個性を持って、人は大人になっていく。致死性を持つ個性は嫌われて大量の水を浴びせられることになる。仕方ないことだ。誰もがその個性を飲み込んでしまうことを恐れているから。もし飲み込んでしまって死んでしまったらと恐怖を感じて、それを避けようとしている。生物の本能としてこれほど正しいこともないだろう。

 言葉とはコミュニケーションのためにあるツールだ。もし人間に意思疎通を図る必要がなければ言葉など必要がない。漁師が魚の言葉がわからなくてもいいように、ただ自分の目的のために奪えばいいだけだ。もし漁師に魚の命乞いの声が聞こえたのなら、漁師は漁をやめるだろうか。おそらくやめないだろう。漁師には人間の生活があって、生きるためには何かを食べなければいけない。海の近くで生まれ稲作や牧畜のできる環境でなければ、魚を捕って食べなければ自分が死んでしまうのだから。生きるとは巡ることで、巡るとは等価交換の式の中に自らを置くということだ。
 人間は社会というものを発展させて自然から大きく離れてしまった。多くの人が人間の中で生きることに終始していて、自然の中で生きていることを忘れている。だから天災が起こったときに恐怖して自分の身の安全を強く心配する。自然の中で生きていることを理解していれば自分がいつ死のうが受け入れられるはずだ。何故なら自分もたくさんの命を奪ってきたのだから、今度は自分が命を奪われる側に回っただけだからだ。それが食物連鎖というもので、地球という世界に生きる一員として命を認めるということだ。
 人は死ぬことに大きな恐怖を抱いている。隣人が死ねば泣き、応援していた芸能人が亡くなれば何日も力を失ってしまう。自分の明日生きるだけの保証がなければ何日も不安に苛まれ、遂には自ら命を捨ててしまう。この絶望をもたらすのは何だろうか。言葉だ。
 意思疎通の道具であった言葉が人を殺してしまう。他者と違うという箇所を言葉にされ、比較されることによって人は死んでしまう。ならば言葉などありはしないほうがよかったのだろうか。違う。言葉に罪はない、人もまた同じ。罪は社会という怪物で存在しない幻影の戯言にこそある。聞く必要のない言葉によって人は不幸になるのである。戯言は自在だ。個性を否定して一般化する、「平均」「常識」「伝統」「習慣」などの枠組を作り出す言葉。同情という思考停止、幸福という立場を確立するために不幸の札を貼り付けて見下げる言葉。世の中には亡霊の言葉があふれている。そんな言葉を聞く必要などない。
 社会は人間が恐怖から逃れるために想像したシステムである。恐怖から逃れるためのシステムが恐怖を生むのなら、社会など必要ないのではないだろうか。しかし、一度手に入れたものを手放すことは至難の業で社会や地位、価値観や思考など無意識的に守っている。そんな世界の内側にある幸福は他者に認められなければ価値が付与されない幸福である。真の幸福はどこにあるのか。探す必要などなく、己が心の中にしか存在しない。

 言葉は自らの内側に潜んでいる。しかし、一人では言葉は形を持たずただ無形の霧である。学び、社会を生き、言葉は生きてくる。生かすも殺すも自分次第だと私は思っている。言葉が死ぬならば私は命を投げ捨てるしかない。

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