怒りのサービス

 最近、労働のことばかり愚痴っている。ただの鬱憤晴らしで八つ当たり、それでもせずにいられないのが悲しい。できるだけ楽しくて美しいことだけ見ていたいけれど、ポジティブでいても空腹には抗えない。

 アルバイトの店員さんに怒っている人がいた。接客が遅いとか態度が悪いとか、何をそこまで怒る必要があるのかと思うほどに真剣に怒っていた。そんな姿を見るたびに僕はびっくりしてしまう。どうしてアルバイトの人にそこまで怒ることができるのだろうかと。
 飲食店ならご飯を食べるために来店して、お金を払ってご飯をいただく。基本的に僕はご飯を食べるために飲食店に向かうからどれだけ店員さんが適当でもご飯が美味しければあまり関係ない。もちろん笑顔で対応されたり親切にされたりすると気持ちがいいけれど、一番は美味しいご飯が食べられることに間違いはないから長い時間料理が来なかったとしてもあまり気にしない。気にするのはご飯が冷えていたり注文とは違うものが来た時だけだ。食べたい物があってそれにお金を払っているのだから、注文と違うものがきたら嫌な気持ちになるし当然店員さんにも「注文したものと違う」と伝える。そして注文したものがちゃんと手元に届いたのならそれで僕は満足してしまう。いちいちなんで注文を間違ったんだとか、ちゃんと話を聞いてないのかとか言う気持ちは一切なくなってしまう。人と話しているのだから意思疎通に間違いがあるのは当然のことだし、ましてや自分が正しいことだけしていたとは思えないので自分の伝え方や態度を工夫する。それでも直らなければ自分から確認を取るようにするし、確認をとっても間違うことが重なれば自然とそのお店には行かなくなる。それがお金を払う側として当然のことだと思っているし、それこそ選択の自由というものだと思う。
 だからいちいち目的とは違うことで怒りを抱いて、それを別の人に向けてしまう人を見ると不思議な気持ちになってしまう。そもそも怒るということは不快なことで出来る限り避けて生きていきたいと思っているから、怒ることを避けないでいる人は自分から不快になることを選んでいるようにも見える。どうしてそんなことでいちいち怒るなんて面倒なことをしているんだろう、そんなことをしていては疲れてしまわないのだろうか。怒った後に、言いすぎたかもと思うことはないのだろうか。そう思わずにはいられない。

 日本では「優しさ」や「おもてなし」というものが美化されすぎていて、されて当然あって当たり前、になりすぎていると感じる時がある。コンビニに行けば来店すれば「いらっしゃいませ」と挨拶され、少しでも列に並んでいれば「お待たせいたしました」と頭を下げられ、ペットボトル一本の飲み物でも買えば「ありがとうございました」と感謝を伝えられる。この間も店員さんは嫌な顔せずに接客をしてくれるし金銭の授受はとても丁寧でお釣りが間違っていることなど滅多にない。
 おかしなことだと思う。大体のコンビニは最低賃金とさほど変わらない賃金で人を雇っている。そしてコンビニはサービス業というより小売業になるのだから、サービスの質が高くなくてもいいはずだ。なぜなら人が求めているのはサービスではなくてものを売ってくれることなのだから、賃金として支払われるのはものを売ったということのみである。それにサービスが付与されるなら利用者はもっと多くのお金を支払う必要があり、サービスの分を上乗せして初めてサービスに対して注文がつけられるということになる。
 僕はこの関係が一番失われていると感じることが多い。お金を支払わずに対価だけを得ようとしている。皆、そんな労働を嫌っているというのに人にはそれを求めている。できる限り自分の幸福のために他人の利益を奪い取ろうとしているのかもしれない。

 みんなが支え合える世の中になってほしい。地球という惑星に生まれた、同じ生命として、命も持続可能な社会になればいいな。

小説家が僕の夢です。あなたの夢は何ですか?