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月の男 第1話(ジャンププラス原作大賞/連載部門応募作品)

白い。どこまでも白い世界。
あたり一面白い砂で、私はその中に埋もれていく。
まるで砂時計の中に閉じ込められたかのように、静かに砂は流れ込んできて、私はそれに埋まっていくのに、ただ何もせずにそこにいる。
このままだといつか完全に埋まって、窒息するのはわかっているけど、根拠もないのに頭の中のどこかで、そのうちきっと抜け出せるだろう、という思いを漠然と抱いている。
こんなお話どこかで読んだっけ? 砂に埋もれていく人のお話―――

「――つばめ⁉」
「え?」
はっ、と我に返った。今、呼ばれた? その瞬間、
「ぎゃあっ!」

バシイィン!!

突然左手に強烈な痛みが襲い、体がぐらっと揺れるのがわかった。カランカラン、と何かが床に落ちた音がして、ドサッ。私もほぼ同時に崩れ落ちる。
ゴンッ。あ、痛っ。頭をぶつけた。
「いっ…たぁーいっ!」
「つばめちゃん? 大丈夫⁉ ごめんね!」
ユキがあわてて駆け寄ってきた。私は痛さをこらえながら、うんせ、と体を起こし、着物の乱れを少し直す。左手がちらりと目に入った。手の甲のあたりが赤く腫れ、じんじんと疼いている。
「コラァ! つばめ! なにボーっとしてんだよ!」
武道場の隅の方から威勢のいい声が響く。篤子の声だ。
「つばめさん、いけませんよ。修練の間にうわの空でいては。」
顔を上げると、師範先生も来ていた。私は床からなぎなたを拾い、慌てて立ち上がろうとした。いや、やっぱり立ち上がるのは止めだ。すっと左足を引いて膝を曲げ、いったんつま先を立てた状態で座る。「跪座」といって、なぎなたの礼法のひとつなのだ。そこから静かに腰を落とし、正座の状態で床に手をつき、頭を下げる。
「先生、申し訳ございません。」
「稽古だからと言って集中力を欠いてはなりません。特に今回のような、一対一の稽古では危険です。下手すると重症につながりますよ。ほら、怪我はないですか。僕に左手を見せてみなさい。」
私はおずおずと左手を差し出す。腫れた手が心なしか、さっきよりも赤く見える。師範先生は私の手を取り、静かに触って確かめた。
「骨に異常はないようですね。冷やしておいでなさい。じきに腫れも収まるでしょう。」
「……はぁい。」
私はおとなしく外の水飲み場へと向かった。蛇口をひねると「じょぼじょぼ」とだらしない音がする。
 あー、みんなの前で怒られた。はずかしい。
 恥ずかしさとやるせなさと、うわの空だったとはいえ見事に打ち込まれた自分へのふがいなさと、様々な思いが排水溝の水のように渦巻いては消えていく。
 ――それにしても。
 キュ、と蛇口を締める。手からぽたぽたと落ちる水。
 ――いきなり脳裏に浮かんできたあの光景、なんだったんだろう――

「つばめーっ! おっつかれー!」
手に湿布を貼っていると、篤子がこちらに駆け寄ってきた。
「さっきは本当にごめんねぇ、つばめちゃん。あの打ち込み、てっきりなぎなたで防がれると思ってたんだけど、私もびっくりしちゃって…。もう大丈夫? 京子ちゃんも心配してたよ。」
その後ろから、ユキが心配そうに現れる。
「平気平気、私こそごめんね。」
いったん更衣室に戻り、稽古用の修練着から矢絣模様の着物に着替える。袴の帯を締めて、髪にリボンをきゅっと締める。
私はこのリボンというものがお気に入りなのだ。西洋からこの国に入ってきたのは最近になってからだと聞く。こんなかわいいもの、なんでこれまでこの国になかったんだろう。
「いやー、でもユキも思いがけない形でつばめから一本とれてよかったんじゃないの? つばめって、われらが桂野学園中等部、最強のなぎなた使いじゃん?」
「ちょっと、やめてよ篤子、その言い方は。」
篤子はにやにやこちらを見ている。いつもこうやって私をからかうのだ。
「でも私もつばめちゃん、本当にすごいと思う。次の大会の学園代表も、絶対つばめちゃんだよね。」
ユキも笑った。ユキの笑顔には裏表がない。正直に顔に出すぎる時があるのがたまにキズだけれども。
「しかもつばめ、理事長の娘だしねー。桂野学園最強の乙女!」
――まただ。私は眉をひそめた。篤子はことあるごとに、この言葉を口にする。
「……それは言わないで。」
「ん?」
「……なんでもない。」
私はふうっと息をつき、気にしないで、という風に右手を軽く振った。たぶん篤子は、私がどれだけこの言葉を嫌がっているか、真には理解していない。
 理事長の娘、という言葉。
「あ、京子まだいるの? アタシ今日、武道場の鍵当番だから、締めて帰んなきゃいけないんだけど。」
三人でぞろぞろと更衣室を出ると、そこにはまだ修練着姿の京子がいた。ひとりでなぎなたを素振りしている。
「うん…。私まだ少し残るつもりだから…。鍵は私が締めて帰るよ。」
 京子は素振りの手を止めて、照れくさそうに言った。
「あ、そう? 悪いね、じゃあよろしくっ。」
ぽんっ、と篤子が投げた鍵を、京子がなんとかキャッチする。
京子はなんだか最近居残っていることが多い。本人に聞くと、自分は恥ずかしがり屋だから、稽古の時間は人目が気になって集中できないので、一人で練習したいのだという。
京子は微笑んで、少しほっぺを赤くし、ばいばい、と手を振った。生粋の照れ屋なのだ。

「じゃあね、つばめちゃん。ばいばーい。」
「また明日な!」
「うん、ばいばい。」
帰り道の途中で、私は二人と別れる。ここから長い一人歩きの時間だ。もう三月になるというのに寒い。道端には雪も残っている。一刻も早く帰ろうと思い、私は歩を速めた。冷たい空気の間を縫って、ぐんぐんぐんと歩いていく。
腫れた左手がまたジンッと痛んだ。もやもやっとする気持ちを振り切ろうと、私はさらに速度を上げる。
なんだか最近、いろいろなことがうまくいかない気がする。今日の失敗を頭の中から追い出すために、私は両足をさっさと動かすことだけに集中した。

 私の家はこの辺りでは珍しい洋館で、小さな丘の上にある。家の裏には桜の木が立っていて、春には見事な花を咲かせるが、今はまだその木も枝がむきだしの状態で、茶色一色で寒さに耐えている。
 ぎい、とドアを開け、家の中に入る。「おかえりなさいませ」という女中の声がした。「ただいま」とつぶやき、そのまま二階へ向かう。疲れた。早く自分の部屋で休みたい。
 階段をダンダンダンと上がり、ふと踊り場で目線を上げると、そこには見慣れぬ絵画が飾ってあった。
 美しい細工が施された額縁に、西洋の油絵だろうか、絵がひっそりと収まっている。
 画面の右下に男が立っていて、背中を向けて、どこか遠くを見ている。
男の視線の先には、遠くの方に、なにか青っぽい物体が描かれている。抽象的に、かすかに描かれているだけで、これが何なのかよくわからない。そして、男の辺りは一面、闇。ただただ、その絵全体が黒色で塗りつぶされていて、どこまでが空でどこまでが地面なのか、その境界がわからない。男自身も黒い帽子をかぶり、黒いマントのような、コートのようなものを羽織っていて、今にもその闇に溶け込んでしまいそうな印象だった。
不気味。
私はぞくっとした。なにこの絵。不気味。ほとんど真っ黒じゃない。
油絵具を何層にも重ねているようで、黒に黒が重なり、キャンバスの奥にまで闇が染み込んでいるかのようだ。やだ、嫌いだ、と私は直感的に思った。なにこの絵。全然好きじゃない。

「お母さん、誰なの? あの絵を買ったのは。」
「あの絵?」
「そう、あの絵よ。階段の踊り場に飾ってあった、真っ黒で不気味な男が描かれているやつ。」
夕食の食卓につくなり真っ先に、私は母に問いかけた。
「あの絵はお父様が買われたのよ。きっといつもの骨董商でしょう。お父様ったら、気に入った美術品はすぐ買ってしまわれるんだから。」
 母は白いナプキンを広げながら、絵なんかまるで興味ない、という口調で答えた。
「お父さんとお母さんがどうだろうと、私は嫌いだわ、あの絵。今すぐ外してよ。」
女中がすっと皿を置いた。シチューから、もわあ、と湯気が立ち上がる。
「お父様が気に入られたのよ。いつものことでしょう。それより部屋で今まで何をしていたの? 寝ていたとかじゃないでしょうね。まったく、部活動の稽古から帰ってくるといつもこれなんだから。勉強している時間はあるの? なぎなたは試験には出ないのよ。あなたもわかっているでしょう?」
母は食べ始める気配も見せず、私の方に顔を向けて話し続ける。
「自分の部屋で何してたっていいじゃない。」
 絵の話をしていたのに。私はむっとした。
「だいたい、この前ちらっと聞きましたけどね。将来はなぎなたで食べていきたいなんて甘いのよ。師範先生を見習いなさい。あの若さなのに、そこらの男性とは違う物腰の柔らかさ。いつも騒がしいあなたとは大違い。部活動だけでなく、授業の教え方もうまいと聞きます。なんでも帝国大学のご出身ですって? 頭のよい方はやっぱり違うわね。それに比べてあなたは勉強はからっきしなうえに」
「わかったから。冷めるといけないからもう食べる。とにかくあの絵はどこかへやってよ。」
私は母の言葉を遮ると同時に、横目でちらりと父を見た。父はこの会話を聞いているのかいないのか、黙って食事にありついている。
「…ねえ、お父さん、」
「いいから食べなさい。」
父は顔も上げずに言った。私はしぶしぶ黙ってスプーンを手にする。
いつもこうだ。母は人の話を聞かないし、父は学校なんか経営しているわりに、自分の娘にまるで興味がない。
私は両親のことが嫌いだった。

 寝る前に、女中が左手に新しい湿布を貼ってくれた。寝間着に着替え、ベッドにどさっと倒れこむ。
 あぁ、なんだかすべてが嫌だ。人の話を全く聞かない両親も、私をからかう友人も、そして何より最近の自分自身も。
前はこんなに心の中がもやもやすることはなかった。稽古中にぼーっとするようなこともなかった。最近の私はどうしたんだろう。
すう、と目を閉じる。深呼吸し、ふと目を開けると、
私はあの絵画の前に突っ立っていた。

あれ、今までベッドにいたのに、と思いながら、ぼんやり絵画を眺めている自分。やっぱり気味の悪い絵画だ。しかも目の錯覚だろうか、うつろな目で眺めるその絵画は、だんだん四方に広がっていき、こちらに迫ってくるように見える。
いや、錯覚じゃない。闇が、こちらに迫ってくる。
「――うわあっ!」
瞬く間に闇がぐわっと広がり、まるで化物の口のような額縁に、私は一気に飲み込まれる。
 ズキン、と頭が痛んだ気がした。今日の打ち所が悪かったんだろうか――。

「……ここは?」
次に気が付くと、私は見知らぬ場所で、ぺたん、と座っていた。辺り一面に白い砂が敷き詰められている。というより、どこまで行っても砂。見渡す限り、平らな地面には白い砂、砂、砂だった。そして地平線の向こうには、絵の具を塗り固めたような闇。ふと頭上を見上げるとまた闇。右を見ても左を見ても闇。砂だけが白く明るく光っていて、それ以外は漆黒の世界だった。
「何ここ。やだ…。どこなのよ…。」
「ここは月さ。」
低い男の声に、私は瞬時に振り返った。素早い身体のターンに合わせて、足元で砂がジャリィィッとこすれるのが聞こえる。そこにいたのはあの男だった。
黒い帽子に、黒い上着の、絵画の中にいた男と、まるでそっくりな男。
絵の中に描かれていなかった両手には、革製の茶色いグローブをつけ、右手には銃を持っている。
髪は漆黒で長く、肩ぐらいまで伸びている。
「あんた……誰……?」
「俺はこの世界の男だ。」
よく見るとマントの襟には毛皮がついていて、これまた茶色。全身真っ黒ではないようだ。
「お前の好きなように呼べばいい。『黒兎』とでも、『月の男』とでも。」
ウサギ? と思ってよく見ると、帽子の淵からちらりと見える男の目は赤色だった。マントの毛皮といい、言われてみるとたしかに少しウサギっぽい。可愛らしさとはほど遠いけど。
私はしばらく男を観察していたが、はっ、と我に返った。そうだ。ここはいったいどこなんだろう。男は「月」だと言っていたけれど、たしか私はあの絵に飲み込まれたはずだ。それに、辺り一面何もない。ここに見えるのは足元の白い砂と、目の前の男と、私自身と、あとは闇だけだった。
ぞわわわ、と自分の内側から何か冷たいものが広がって、体がガクガクと震えだした。一気に水でもあふれるかのように、自分の奥底から得体のしれない恐怖が、あとからあとから止めどなく湧いてくる。何が起きたの。誰。こわい。漆黒。銃。永遠の闇。私は思わず叫んだ。
「いったいこれはなんなの!? ここはどこ! 絵の中なの? 月って何? はやく、はやく私を元の場所に帰して! 家に帰してよ!!」
「ここは月さ。もう二回も答えた。信じないならその証拠にほら、あれを見ろ。あそこに地球が見えるだろ。」
男は左手の方を指差した。見ると、どうしてさっきまで気づかなかったんだろう、ぼんやりと青い、丸いものが薄く輝いているのが見える。あぁ、あの絵に描かれていた青い物体は地球だったのか。
「地球…? あれが…?」
「そうだ。美しいだろ。」
 美しい、と言われても、私の目にはぼやけた青色の塊にしか映らない。怖い。なんだろうこの世界。今すぐ逃げ出したい。
「わかった、あれが地球なのはわかったから、今すぐ私をあそこに帰して。こんな不気味な絵の中の世界なんか嫌、元に戻してよ!」
「いいだろう。俺もそろそろあっち・・・に行きたいと思っていたとこだ。」
 男は銃のトリガーガードの部分に人差し指をひっかけ、銃をくるくるっと回転させた。
「あ、あんたも来るの? いったい何しに来るのよ…。」
 目に映る銃の存在におびえながら、私は尋ねた。
「俺? 俺が何しに行くかって? 俺は」
 刹那、男はグワンッと勢いをつけ、高く高く跳び上がった。その勢いでぶわっと強風が起こり、あたりの砂が渦を巻いて、まるで一斉に逃げ出すかのように、ざざざぁーっと飛ばされていく。男の跳躍力はすさまじく、地上から何メートルも――もしかしたら十メートル、いやそれ以上かもしれないけれど――遠く離れた虚空に男の姿が見えて、次の瞬間、
 ダンッ!!
 男は私の目の前に着地した。男は私の顔を下からぐいっとつかみ、自分の顔を私の顔に寄せる。

「俺は、お前の世界を壊しに行くのさ。」

 突然、辺りの砂がざあああっと空中に舞い始めて、私と男はその乱気流に飲み込まれる。真っ暗だった周囲の闇が、白い砂に吸い込まれていって、男の姿もだんだん白にまみれて見えなくなる。
「じゃあな、お嬢ちゃん。あっちの世界・・・・・・で会おう。」
ザザザザザザザザ。視界がすべて白い砂で埋まった。

「―――はっ…!」
 私はがばりと身を起こした。自分の両手が何かやわらかいものを掴んでいるのが見える。これ、毛布だ。私の部屋の。同時に、自分の半身がその毛布に覆われていることにも気づく。
 私は自分の部屋のベッドの上に座っていた。もう朝であるらしく、カーテンの隙間から光がこぼれている。
「……夢……?」
 私はただ眠っていただけらしい。その代わり、寝間着は汗でぐっしょり濡れていた。
「……ふぅ…。」
見慣れた自分の部屋の光景を再確認して、私はほっと息をついた。夢か。それにしても嫌な夢だった。
 カーテンを勢いよく開ける。三月だけれども、冬の寒空が広がっている。家の裏の桜の木も、相変わらず茶色いままそこに立っている。
 少し窓を開けた。矢のように勢いよく寒気がなだれ込み、私はあわてて窓を閉めた。

「嫌な一日の始まりだわ。あんな夢を見るなんて。」
もやもやした気持ちを抱えたまま、私はいつも通り登校した。長い一日の授業が終わり、放課後。部活動の時間になった。
 なぎなた部は強豪ということもあり、ほぼ毎日練習がある。私はなぎなたが好きなので、まったく苦ではないけれど。
 なぎなたを振るっていると、嫌なことも忘れてしまう。稽古着に着替え、なぎなたを手にした瞬間、心がすっと静まるのだ。素振りをしているうちに私は、『月の男』のことも不思議な夢のことも忘れていった。
 今日の稽古は二人一組。片方が攻め役、片方が守り役になり、決まった攻撃の型を何度も打ち込む。こうやって体に「型」を覚えこませ、実戦で役立たせるのだ。
「一番の型、交互に5回ずつ。はじめ! いち!」
「やあ!」
「に!」
「やあ!」
「さん!」
「やあ!」
 ガツンッ。コンッ。
師範先生の掛け声とともに、攻め役の女生徒たちは、相手の「面」を目掛けていっせいになぎなたを振りおろす。
守り役の生徒たちは、それをなぎなたの柄でしっかりと受け止める。
甲高い掛け声と、なぎなた同士がぶつかる音が武道場に響き渡る。
「えい! えい! やあ!」
 練習の型は、基本的なものから始まり、合わせ技や連続技など、だんだん高度なものへと進んでいく。
「やあ!」
 私はなぎなたを大きく振りかぶり、相手の「面」めがけて振り下ろした。
ゴンッ。相手が受け止める。 
 次の瞬間、さっとなぎなたを翻し、
「やあ!」
右の「胴」。
「やあ!」
左の「胴」。
グルン! と手を持ち替えて、
「やあっ!」
もう一度「面」。
ガツンッ! と、なぎなた同士のぶつかる威勢のいい音がした。
「ひゃー、つばめ先輩の打ち込み、相変わらずすごい衝撃。受け止めた手がぷるぷる震えちゃいますよ!」
守り役をしてくれていた後輩が、受け止めた衝撃を逃がそうとするかのように、両手首をぶらぶらさせながら言った。
なぎなたの練習は面白い。これだけはなぜか、毎日同じことの繰り返しでも面白く感じる。ただ繰り返しているだけなのに、ある日突然、前の日よりも体が軽くなったように感じたり、よりなめらかに、なぎなたが動くようになったりする。自分でも理由はわからないけれど、気づくとこれまでの自分とは変わっているのだ。これを世間一般では「上達」と呼ぶのかもしれない。
実際、最近は特に調子がよくて、自分の身体が、なぎなたとの一体感が、どんどん良くなっている気がする。このまま毎日練習すれば、どこまでも上達できるような気がする。ひょっとすると、自分が世界で一番強いんじゃないかという気さえしてくる。自分が天下無双、なんてことはもちろんないんだけれど、妙な自信が心の中にあった。このまま行けば、今年の大会の学園代表の座もきっとつかめる。
「はい、それまで。休憩が終わったら一年生から順に、試合形式の稽古をします。一組ずつ試合を行いますから、いつものように、他の方々は見学になります。わかりましたね? もちろん見学中の私語は厳禁ですよ。」
師範先生が、ぱん、ぱん、と大きく手を叩き、つかの間の休憩に入った。各自、水分を補給したり、友人と語らったり、さきほどの稽古の内容を反復したりする。
 私もユキと話しながら水を飲み、壁際の試合がよく見える位置に陣取った。互いに少し間を開けて座る。師範先生が言っていたように、試合中の私語は厳禁だからだ。隣に誰かがいると、うっかり話してしまいたくなるので、お互い適度に距離をとるのだ。稽古用の切れない刃が付いたなぎなたは、床に置くと試合の邪魔になってしまうので、それぞれ壁に立てかけて、自分のわきに置いておく。

 腰を下ろすと、ズキン、と頭が痛んだ。あっ、と私は頭に手を当てる。いきなりの頭痛だ。やっぱり昨日の打ち所が悪かったんだろうか。
 その瞬間、ぐらあ、と視界がゆがんだ気がした。えっ、と戸惑う気持ちになったのもつかの間、ぼうっと目の前にあの額縁が現れる。
え、なにこれ。踊り場のあの絵の額縁が、どうしてここに?
疑問を抱くのもつかの間、そこからグワァッと闇が勢いよく噴き出してきた。
 闇のかたまり。黒色のかたまり。
ひときわ濃い黒色が、絵の具のチューブを押し出したときのように、にゅるうっ、と額縁の中から現れた。
「ほう……ここが『お前の世界』か…。」
黒色のかたまりは、だんだん一つに集まって、人間の姿になっていく。
山高帽をかぶり、漆黒の上着をはおった人間の姿に。
あの男――『月の男』だ。
「きゃあああああ!」
私は思わず立ち上がった。部員たちの視線が一斉に私に集まる。
「つばめさん、どうしました?」
師範先生がびっくりしたような様子でこちらを見る。
「そ、そこに男が、あのときの男が…」
そう言って私は男を指差した。が、どうしたことだろう。みんなはキョトンとした表情を浮かべている。
クスクスクス、クス。ははは、はは。
「あははははははは!」
突然、武道場が騒がしくなり、どっと笑いの波があふれた。
「なんだよつばめ、夢でも見てたのかよ?」
斜め向かいに座った篤子が笑いながら言った。
「つばめさん、居眠りでもしていたんですか? はやく座りなさい。」
師範先生が呆れた表情で言った。
 見えて、いないの……?
 私はもう一度『月の男』を見た。彼はこの状況を楽しんでいるかのようにニヤニヤ笑っている。
 かあっ、と顔が赤くなるのが自分でもわかる。私は大急ぎで腰を落ち着け、混乱する頭をなんとか冷やそうとした。
 みんなには見えていないなんて。いったいどういうこと?
「そう。俺はお前だけに見えているんだ。」
『月の男』はスッと私の側に来て、得意げに微笑んだ。
男が間近にいるというのに、隣にいるユキは全く気付いていない様子だ。
 私は震えそうになるのを必死にこらえて、男から目をそらして武道場の中央を見た。すでに一試合目が始まっている。
「まぁ、そう怖がるなよお嬢ちゃん。俺も試合とやらを見せてもらおう。」
 私が目を上げて口を開こうとしたその時、
「おっと、ここで喋る必要はないぜ。お前の言いたいことはだいたいわかる。今何を考えているかもな。」
『月の男』はそういうと、自分も壁に背中をもたれかけて、じっと試合の方を見つめた。この男はいったい何を考えているんだろう。いったい何がしたいんだろう。今が試合中でよかった、と思う。友人たちから話しかけられる心配がなく、自分が恐怖を必死にこらえていることを、悟られずに済むからだ。
「そう怯えるなよ。何しに来た?って顔をしてるな。あのとき言ったはずだぜ。」
男はそう言い、こちらに背中を向けて右腕を伸ばした。手には何かが握られている。
――まさか。
「俺はお前の世界を壊しにきたんだ。こんな風にな!」

ガガガガガガガガガ!

言い終わるか終らないかのうちに、『月の男』は銃の引き金を引いて弾丸を連射した。男は自らの身体を回転させながら、ガガガガガと次々に弾丸を打ち出していく。
そして、その弾丸はどれも数発ずつ、生徒それぞれが壁に立てかけているなぎなたの、柄の根元に命中していく。
―――ガガガガガガガッ!
その間、わずか5秒くらいだったろうか。男は一回転をし、目にもとまらぬ速さで信じられないほどの数の弾丸を繰り出し、武道場の壁にもたれかけられているなぎなた全ての根元を撃った。
ぐらり。
各生徒の隣に立てかけられたなぎなたが、一斉にぐらぐらと揺れ始める。
「――あぶなぁぁぁぁい!!!」
私はとっさに叫んでいた。

バラ、バラバラバラガタンガタンガタンガタンゴツンッ!
「きゃああああああっ!」
ガランガラン! カンカラカン、コロンコロン……。

 一瞬の出来事だった。
 壁に立てかけられた全員分のなぎなたが、一斉に地面に倒れ落ちた。
「うわあああっ! びっくりした!」
「やだ、なにこれ地震っ?」
部員たちは半分パニックになり、騒ぎ始める。中央で試合をしていた一年生の二人も、あっけにとられた様子で立ち尽くしていた。
「あっぶねー…。もし真剣のなぎなただったら、どうなってたんだ…。」
向かいにいる篤子は、なぎなたの先端がぶつかったらしく、肩のあたりを押さえながらなぎなたをもう一度立てかけようとしていた。隣のユキは完全に硬直している。
「皆さん! どなたもお怪我はありませんか? 無事ですか!?」
 普段は冷静沈着な師範先生が、あたふたと一人一人に駆け寄り、怪我の有無を確認していった。
「大きな怪我を負われた方はいないようですね。皆さん、今後はなぎなたを壁に立てかけるのはやめましょう。僕の指示が間違っていたようです。大変申し訳ないことをしました。」
そう言って師範先生は深く頭を下げた。皆の集中力が切れてしまったということで、その日の稽古はそこで中止となった。
「ははははは、またな!」
響き渡る声に気づいてハッと顔を上げると、『月の男』は忽然と消えていた。
「なんなの・・・あいつ・・・なんなのよ!!」
私は思わず叫んだが、その声は渦巻く混乱にかき消され、他の部員から気に留められることはなかった。手の震えが止まらない。「またな」ってことは、あの男はまた来るのだろうか。真っ黒に塗りつぶされたような恐怖だけがそこに残っていた。