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月の男 第3話(ジャンププラス原作大賞/連載部門応募作品)

翌朝、私はあくびをしながら学校へとゆるやかな坂を下って行った。『月の男』のせいで眠った気がしなかったが、休んでいる余裕はない。今日から期末試験が始まるのだ。
教室に入ると、みんな一見いつもと同じように思えるけれども、どこかそわそわとした空気が漂っていた。友達とキャッキャッと笑いながら、試験に出る用語を当てっこしている者、完全に諦めて余裕をぶっこいている者、焦っているように見せかけて、頭の中に万全の状態で知識が待機している者。それぞれが試験前独特の雰囲気を作るのに一役買っていた。
「えっと、一限目はどっちだっけ? 科学? 外国語」
「科学が先。はー、憂鬱。アタシ一限捨てた。二限に賭けるわ。」
 私の問いに答えた篤子は、椅子を斜めに倒して半分仰向けのような体勢になり、開いたままの教科書をバサッと顔に覆いかぶせた。篤子は諦め組の一人だ。
「篤子、相変わらず潔い諦めっぷりね…。」
私が苦笑しながら言うと、篤子はガバッと起き上がった。
「って二限も外国語じゃん! はいはいだめだめ、二限も捨てた!」
「あっちゃん、もしかして全科目捨てる気じゃない?」
ユキが半分呆れながら言う。試験期間中は部活動も停止だ。早く試験期間が終わってほしい。なぎなたを振って全てを忘れたかった。

ズキン…!

不意打ちのように、頭痛が私の身体に突き刺さる。
「――おや? なんだかお疲れのようだな。」
 教室にぽかりと額縁が浮かびあがり、ズズ、ズズ、とそこから闇が広がってくる。
『月の男』。どうして、よりによってこんなときに。
「こんなときだから来てやったのさ。」
まるで私の心を読んだかのように、『月の男』が答えた。
「期末試験、嫌なんだろ? ここにいる奴らの大半がそう思ってるようだ。」
男はふわりと浮いたまま、ぐるっと教室を一周した。
「壊してやるにはちょうどいいってこった。」
『月の男』はにやりと笑う。
「つばめちゃん…?」
ユキが私に声をかけた。私が青ざめた様子で一点をじっと見つめていたので、様子がおかしいと感じたらしい。けれども私の意識は『月の男』に集中していて、その声はどこか遠くから発せられたもののように聞こえた。
と、そのとき突然、教室のドアがガラッと開く。
「ち――っす!」
続いて、がに股の男子二人がドシドシと入ってきた。
隣のクラスの佐之助と直哉だ。この二人はうちの学園でも問題児で有名で、いつも悪さやいたずらばかりしている。
「おっすおっす! なに? みなさん勉強してんの? お偉い、お偉い!」
ざわざわしていた教室が静まり、みんなの目線が佐之助と直哉に向けられる。
「げ、こんなときに嫌な奴らが来たな…。」
篤子は露骨にしかめ面をする。
「そういえば昨日、隣の組の徹夫くんがあの二人に絡まれてたよ。先生がたまたま通りかかったから良かったけど、ちょっとあれはひどかった。からかうにしてはやりすぎだったもん。」
ユキがふくれた表情を見せた。
「徹夫はおとなしいからなぁ。あいつらも標的にしやすいんだろ。サイッテーな奴ら!」
佐之助と直哉は、声を荒らげた篤子の存在に気づいたようで、同時にこっちを向いた。
「あ、オトコオンナの篤子じゃん。おはよーさん!」
「やーいオトコオンナ!」
二人はハハハと大笑いする。
「てめぇら、いい加減にしねーとぶっとばすぞ!!」
篤子が一喝すると、佐之助と直哉は
「おっかねー!!」
と言いながらヘラヘラと教室の中を走り回って逃げるフリをした。
「ふうん、面白そうな奴が来たじゃないか!」
『月の男』が言った。そうだ、このコンビに気を取られている場合じゃない。ここにはこの男もいるのだった。
「ははは。いいじゃねえか。俺がもっと面白くしてやろう。」
言うが早いか、『月の男』は右腕――銃を撃つ手をバッ、と真っ直ぐ伸ばし、銃口を二人の方に向け、引き金を引く。
「!!」
私が口を開ける間もなく、『月の男』はガチガチッと弾丸を二連射した。
ふたつの弾丸はビュンっと飛んでいき、それぞれ佐之助と直哉の胸を撃った。
「ひいっ!」
 撃った。人を撃った。
『月の男』が、人間を撃った。
 佐之助と直哉は射抜かれた刹那、ピクンと反応し、動きを止めた。男の銃弾は確実に心臓を貫いていたが、血が噴き出てくる気配はなかった。佐之助と直哉はゆらりと動き、ゆっくりと顔を上げてこっちを見た。
 ――目つきがおかしい。血走ってたその眼は赤くなっていた。
「はははははは! ははははは!」
突然、直哉が高笑いを始めた。背中をのけぞらせ、両手を広げ、はははははは、と笑い続ける。ぴんと張りつめた空気の充満する教室の中で、直哉の周囲にだけ異質なものが漂っていた。直哉はたしかに突っ張ったところがあったが、こんな狂気に満ちた姿は見たことがない。
「シケン? 試験か。ははははは。俺たちが中止にしてやるよ! オラッ!」
直哉はすぐそばにあった椅子を手に取り、ぶんっと窓に向かって放り投げた。ガシャアアアン! 窓が大きな音をたてて割れ、椅子が校庭に落下していく。この学級は校舎の二階。ゴスン、と椅子が地面に叩きつけられた音がした。
「きゃーっ!」
女生徒の悲鳴が響き渡る。佐之助もそれに続き、今度は机を抱え、思いっきり窓の外へ向かって投げた。「わたしの机!」という声がどこからか聞こえる。二人は手当たり次第に、机や椅子を放り投げていく。
「あんた、あいつらに何したの?」
私は小声で、しかし強い口調で『月の男』を問いただした。男はおどけた様子で首をかしげ、曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
 逃げ惑う女生徒、二人を止めようとするが怯えて近づけない男子生徒。ざわめき、叫び声、地面との衝突、喧噪、混沌、窓ガラスの割れる音。ある男子が自分の机に必死に覆いかぶさり、投げられないようにしようと死守していたが、あっさり佐之助に突き飛ばされ、机をさらわれているのが見えた。
「はははははははは!」
枷を外された鳥が、鳥籠から勢いよく飛び立つかのように、窓の外に次々と踊り出ていく机と椅子。窓の外に教科書や筆記用具が降りそそいでいた。誰かのお弁当箱から中身がこぼれて、卵焼きやおむすびがバラバラと散っていくのも見える。他の学級でもただならぬ物音に気づいたらしく、教室の外からもざわざわする声が聞こえてきた。
 どうしよう。なんとかして二人を止めなければ。
 ふと気づくと、また『月の男』の姿は消えていた。出てくるときも突然で、消える時も突然だ。狂気だけを残してあいつは消えた。だめだ、とにかくなんとかして事態を治めないとまずい。
 『月の男』が見えていたのは私だけ。あいつのやったことに気づいているのも私だけだ。
私は歯をぐっと噛み締め、佐之助と直哉の方へ向かおうと、混乱する生徒たちの間をかき分けていった。
 どうやって止めればいいかなんてわからない。でも、なんとかするしかない。そうだ、なぎなたの時と同じだ。相手の隙をつけばいい、そうすれば――。
 なぎなたのことを思うとふいに勇気が出てきた。うまくいくかも、という希望がわいてくる。そうだ、まず自分の間合いをしっかり取って、相手の動きと動きの間を狙って…
 いまだ!
 私はバッと佐之助にとびかかり、彼の持ち上げた机を抑え込もうとした。不意打ちで相手の獲物を使えなくする。そしたらこちらに利ができる――
「わっ、きゃああ!」
次の瞬間、ふわ、と私の身体は宙に浮いて、床にごろんと転がり落ちた。佐之助の力は強く、机ごと私を軽々と持ち上げてしまったのだ。無様な姿で床に転がる私を横目に、佐之助はひょいと机を投げ捨てた。その机の横で、見慣れた巾着袋が揺れているのが目に入った。――ユキの机だった。
「佐之助ぇ!!」
バンッ!と誰かが佐之助を突き飛ばし、その勢いのまま彼を壁に押し付けて、ガッ、と下顎を殴りつけた。
――篤子だった。
「てめぇらいい加減にしろよ! 今日こそは許さねぇ!」
次の瞬間、篤子はひょいっと身を翻した。背後から直哉が椅子で篤子を殴りつけようとしたのだ。椅子は運悪くと言うべきか、運よくというべきかわからないが、佐之助に命中し、佐之助は一気に力が抜けたかのように、ズルッとその場にへたり込んだ。
さすがの直哉も一瞬たじろぐ。
「直哉ぁ! てめーもぶっ倒す!」
篤子は直哉の両手をぐいとつかみ、力いっぱいにねじり上げた。直哉はたまらず椅子を手から滑り落とす。篤子はそのまま直哉の右腕をつかんで勢いをつけ、「らあ!」という気合の叫びとともに、直哉を背負い投げした。
ドスッ。直哉が背中から床に落ちる。
「押さえろよ! 早く!」
篤子の叫びにはっとした男子数名が、あわてて直哉にとびかかり、体を押さえつけた。直哉はしばらく抵抗していたが、やがて弱弱しくなっていき、暴れるのをやめた。私は起き上がって首を伸ばし、必死に直哉の様子を確認した。目から狂気の色は消えていた。
 直後、騒ぎを聞きつけたらしい先生たちが教室になだれ込んできて、佐之助と直哉をどこに連れて行った。佐之助はぐったりしていたが、意識はあるようで、なんとか自分で歩いていた。あとにはぐちゃぐちゃにかき乱された机と椅子と勉強道具と、割れた窓ガラスと、青ざめた生徒たちが残された。
「つばめ、大丈夫か? とびかかるなんて無茶だぜ!」
篤子が私の手を取り、立ち上がらせる。
「篤子、ありがと…。」
同時に、髪を結んでいたリボンがはらりと落ちた。
「ちょ、ちょっとお手洗いで直してくるね。」
私はリボンを掴んで教室を出た。この場から一度離れて冷静になりたかった。
「ふう…。」
廊下に出てふと見ると、一人の少年が立っていた。あれは確かーー隣の組の徹夫。
歩き出そうとすると、
「あのっ」
徹夫に声をかけられた。
「何?」
私は立ち止まった。彼と会話するのはこれが初めてだ。
「その……、『月の男』のことなんだけど。僕、見ちゃったんだ……。」
思いがけない言葉に、リボンを掴む手に力が入った。