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月の男 第2話(ジャンププラス原作大賞/連載部門応募作品)

「あっちゃん、大丈夫? 災難だったね…。」
私たちは武道場を出て、水飲み場で篤子の肩を冷やしてあげていた。
「あーもう、ほんと災難だ。天災天災。」
幸い、篤子の打撲は軽傷だったようで、この前の私のように患部が腫れたりはしていなかった。篤子は丈夫だからなぁ、と他の部員たちが笑っていた。
「天災…? あれが…?」
私は思わず口を開いた。
「え…?」
ユキが微かに首をかしげる。
「あれは天災じゃない。二人ともあの男を見なかったの? あの真っ黒な『月の男』を!」
「男……?」
二人は顔を見合わせた。
「そうよ、あの男…。あいつが銃を撃ったのよ! それでなぎなたを倒したの! 試合も台無し。台無しなだけならまだよかった。あいつが篤子やみんなをこんな目に…!」
私は口からあふれる言葉を止められなくなっていた。恐怖や混乱、押さえていた感情が、言葉になって滝のようになだれ落ちてくる。
「撃った?」
篤子が訪ねる。
「そうよ、銃、撃ったの、西洋式の銃。まるで無限に弾が入ってたみたいに」
私は早口でまくしたてる。
「銃を?」
ちょっと間が開いて、その次の瞬間、
「あーっはははは!」
ばかでかい笑い声が響いた。
「ははは、つばめ、冗談きついって。」
篤子が大笑いながら言う。
「で、でも私、見たのよ! あの男!」
 私は戸惑った。本当に見た。なのにどうして、笑われる筋合いがあるんだろう。
「男? 師範先生じゃなくて? ユキは見たか?」
篤子がくっくっと笑いながらユキに尋ねる。ユキは首を振った。
「つばめぇ、よくわからねーけど、今夜はちゃんと寝ろよな。」
篤子が肩にあてたタオルを外し、もう一度水でぬらす。
「つばめちゃん…、本当に大丈夫? 疲れてるんじゃないの?」
ユキがタオルを絞ってやりながら、不安げな表情でこちらを見つめた。
「……。」
私には返す言葉がなかった。返す気力もなかった。ただただ黙って、ユキから受け取ったタオルをもう一度篤子の肩に乗せる。篤子がそういえば、と口を開いた。
「そういや、それで思い出したんだけど、これ聞いた? 理科室の噂。ほら、向かいの校舎に理科室あるじゃん。なんかさ、最近夜になると、そっから変な物音が聞こえてくるって噂。聞いたことない? 標本の骸骨が歩いてるんじゃないかって言われてるみたい。」
「えー、なにそれ怖い、聞いたことないよ…。」
ユキがおびえた様子で答える。もちろん篤子は、ユキが怖がりなのを知っている。
「案外事実かもしれないぜ? ほら、こうしている間にも骸骨が……」
ガサガサッ!
「きゃーっ!」
突然、草をかき分けるような物音がし、ユキは飛び上がってしりもちをついた。
「ハハハハハ、ユキ、びっくりしすぎ。」
篤子は辺りをきょろきょろと見回す。
「ほら、誰もいねーよ。ちょっと風が草を揺らしただけだって。ハハハハ。」
私も念のため水飲み場の周囲を見回した。あの男の姿は見当たらなかった。
「もう、あっちゃん、ひどいよぅ…。」
ユキはほっぺをふくらませる。篤子はえい、えい、とその空気でいっぱいのほっぺたをつついて遊ぶ。
私は、はあっ、とため息をついた。なんだか全身の力が抜ける。
誰にもあの男が見えていない。それに加えて、信じてもらえない。
 ユキと篤子は引き続き居残って、自主練を行うということだったが、私はそんな気分にはなれなかった。帰り際に京子からも誘われたが、集中力が切れたから、という理由でやんわりと断った。京子、最近けっこう上達しているらしいじゃん、と私が無理やり作った笑顔で言うと、京子はまた顔を赤らめてはにかんだ。

 家に帰って下駄を脱ぐなり、私は階段の踊り場へ向かった。あの絵画は相変わらず、憎たらしいくらいにそこにあった。黒い男は変わらずこちらに背を向けている。取り外してほしい、という私の要望はやはり聞き入れてもらえなかったらしい。絵画の中に描かれた闇は、ますますその濃さを増しているような印象を受けた。
怒りと恐怖が入り混じったような感情が湧き上がる。今すぐナイフでも持ってきて、この絵を引き裂いてやろうか。
いや、引き裂いたらどうなるんだろう、と私は思い当たってぞっとした。こんな呪われた絵画、傷でもつけようものなら、『月の男』はさらにひどいことを起こすんじゃないか。
同時に、心の中に、消えそうなろうそくの炎のように、ある思いが浮かび上がった。
私はこの『月の男』のことを、もっとよく知る必要がある。
私があんな夢をみたことも、『月の男』が絵の世界から出てこられることも、あそこが「月」であることも、何か理由があるに違いない。
私は恐怖心をぐっと飲み込んだ。そして、真っ黒な絵画をキッとにらみ、階段を駆け上がった。

夜。私は深呼吸してベッドに横たわった。
「待ちくたびれたぜ。」
その声に気づいて目を開けると、『月の男』が白い砂の世界に立っていた。私は今夜も、額縁をくぐり抜けてこちらの世界に来たらしい。
「あんた、どうしてあんなことしたの…?」
恐怖心は引き続き私の中にあった。けれども、初めにここに来た時に、目が覚めたらちゃんと自分の部屋に戻っていたという体験が、私の不安を抑え込んでいた。
「あんたは何? 幻覚なの? それとも本当に実在してるの? 私がおかしくなっただけ?」
「どうかな。」
今夜も男は黒い上着に茶色の手袋。ただ、帽子のどこかが気になるらしく、山高帽をかぶらず手に取って、しきりに裏返して覗き込んだり、ふちをなでたりしていた。これまで帽子で隠れがちだった男の赤い目が、今日ははっきり見える。
ここでふと自分の服装を顧みる。私自身はいつもの制服姿をしていた。矢絣模様の着物に、朱色の袴。頭にはちゃんとリボンも結んである。ベッドに入る前には、寝間着に着替えていたにも関わらず。
「お嬢ちゃん、俺が怖いのかい? 得体のしれない存在の俺が。」
『月の男』が帽子から私に目を移した。赤い瞳がこちらを真っすぐ見ている。
「怖がるなよ。少なくともお前は俺を知っているはずだぜ。俺とはすでに旧知の仲のはずだ。」
私はぎょっとした。こいつを知っている? 私が? 同時に、自分の恐怖心がだんだん収まっていることに気づく。どうしてだろう、そういえばなぜか、この男をどこかで知っている気がしてきた。どこかで会ったことがあるような。すでに知っているような、奇妙な感じが。
懐かしさ? いや、違う。もっと新しい。この感情はなんだろう。
「ふうん、俺の正体にはまだ見当もつかないって感じだな。」
正体? 私は思った。正体って、あんた絵の中の、月に住んでる男でしょう。それ以外に別の何かがあるの?
「それじゃあこうしよう。勝負しようぜ、お嬢ちゃん。」
男はにやりと笑う。え、勝負? いきなり何を言い出すの? と私があっけにとられていると、
「お前が俺の正体を見破れば、お前の勝ちだ。」
男は飄々と話した。ここでひるんじゃだめだ。私は言い返すことにした。
「正体ってなによ。ていうか、勝負ってなによ。勝手に勝負なんか挑まないで。」
「好きだろ? 勝負。」
『月の男』はひょいっと帽子をかぶり、背筋を伸ばした。ちょうど私を見下げるような格好になる。
「ほら、好きだろ、勝負が。そうやっていつもなぎなたで戦ってるじゃねえか。」
気づけば私はなぎなたを手にしていた。練習用のなぎなたではなく、先端に刃のついた本物だ。さっきまでなかったはずなのに。
「…うるさいっ!」
私はなぎなたの柄の端を両手でぐっと握りしめ、、ぶんっと勢いよく水平に振り回した。なぎなたが綺麗な半円を描く。
『月の男』はぴょんっと軽やかにジャンプして、いとも簡単にそれをかわす。やはりこの男は、ウサギのように体が軽いようだ。
「このっ!」
水平に回転するなぎなたの勢いに任せ、私もぐりんと体を一回転させる。たしか授業で習った「遠心力」とかいうやつだ。回転しきる前にぐんっと体を伸ばし、なんとか刃先を男に届かせようとする。
ガッ、と男が避けざまに、右足で私のなぎなたを蹴飛ばした。私はバランスが崩れてよろめき、なぎなたのコントロールができなくなる。なぎなたの刃先が地面につっこんで滑り、ざざざざざぁっと白い砂を巻き上げる。
「けほっ」
私は砂に埋もれたなぎなたを抜いて、空中に飛び散った砂塵を吸い込まないよう、着物の袖で口を押えた。白い砂は雪のように輝きながら、ちらちらと地面へと舞い戻っていく。
「あーあ、この調子じゃ俺の相手にはならないな。」
トッ、と背後に何かが降り立った音がして、同時に、後頭部になにかひんやりしたものが押し当てられているのを感じた。
 ――銃口。
「うあああああ!」
私は驚きとも狂気とも、どちらともつかないような叫び声をあげて、振り向きざまに、グワッとなぎなたを振り上げる。なぎなたの残像の後ろの方で、にやにやっと笑いながらそれをかわす男の姿が目に映った。
「撃ちやしないさ――今はね。」
『月の男』はクスッと笑って背中を向ける。
私は無我夢中で駆け出し、いまだ、と男の背中目がけてなぎなたを突き出した。
ブオンッ!
突然の強風が吹き荒れる。なぎなたに何かが刺さった感触はなかった。白い砂がグワッと舞い上がって渦を起こす。『月の男』がまたあの跳躍を見せたらしい。
「それじゃ、また。」
クククク、と楽しげに笑う声が闇に響いた。
「待ちなさい、待ちなさいよ! この!!」
私はまとわりついてくる砂をかき分けようと必死になる。逃がさない。逃がしたくない。
「逃げるな! 戦う! 私勝負してやるわ、あんたと!」
私は頭上の闇に向かって叫んだ。
「あんたの好きにはさせない! 絶対、あんたを――負かしてみせる! 正体をあばく! それに、私には、なぎなたがある!」
声は永遠に続く闇の中にむなしく響き渡り、そして吸い込まれていくように感じた。私はもう一度何かを叫ぼうとした。その瞬間、また目の前が真っ白に染まった――。