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自分がタルパについてどう考えているか

(1/4 必要を感じたため公開するが、そもそもタルコンの劣化版な上に少々粗雑な単語遣いがあるため内容は修正する可能性があると思う。)

ここで書くことはあくまでも「わたしの気分の話」であって、
他人の事情を否定するものでは決してないし、何かこれこそが正統派なのだとか、そういう話がしたいわけではないことは事前に念押ししておく。
(……というより、私やあなたにあるそれぞれの「事情」、因果がこんなものに手を出す根本原因であって、そこを統一するなどそれこそ某SFのように「オーヴァーマインド」にでもならなければ無理だろう)

タルパを作って瞑想する

結論から書くと、
私個人としては、タルパの製造は「瞑想」の一種だと考えている。
「どういうことか?」とお思いかもしれないので理由をお話する。

大雑把なタルパのイメージ、「オカルト的アプローチで対話可能な存在を作る」という前提はこれを読むような人間には共有されているものだと勝手に考えているが、この「オカルト的アプローチ」を定義してから話をしている人間は意外といない。私が自己流であえて言ってしまえば、常人にとっては「強烈な思い込みの作成」とほぼ同じである。
この表現で気分を害した方がいるかもしれないのでもう少し補足すると、
「否応なしに思い込むように、自分を追い込む」(※ラップではない)
作業をする、ということである。
そして不気味な理屈になるが、
ここでいう自らを追い込んでいく力を出していくのは、
自分自身かもしれないし、ひょっとすると、そうではないかもしれない。
この「そうではないかもしれない」というところに
オカルト的というか、神秘行的な要素が含まれてくる。

(余談:タルパを心理現象的に(面倒なワード!)捉えている人間に話しかけられたとき、オカルト派の人間の一部が怒り出すことがあるのは心理現象派が後者の要素を完全に切り落とした状態で語ってしまいがちなせいだろう。
別にそれが悪いとか愚かだとかそういうことではなく、心理現象派からしたら当然だ。これは後の話にも繋がってくるが、自己意志というものをどこまでのレンジに納めるか?という話だと言い換えてもいい。「自分自身ではなく、自分自身でもある力」と言ってしまうと、言葉遊びだろうか?)

タルパ(ガイド)の製造方法を思い出してみてほしい。
タルパを作るとき、何か既存の存在(クールな映画のヒーローや、かわいらしいアニメのキャラや……)のなかに思わず目を見張るほど「縁を感じるもの」があって、それをそのまま拝借できるなら、実は一番楽だ。
しかし、そうではない人間は自力で「ガワ」を作っていくしかない。
普通は何かの物語のキャラクターデザインとほぼ同じように、
容姿なり、雰囲気なり、性格なり種々の特徴を
選んでいって、まとまった形になるまで並べ立てる作業が必要になる。
うまくいけばそれなりの付き合いになるのだし、デザイン可能なのだから、わざわざ心底不快な気持ちになるような形にはしないだろう。
そして、「自分にとって、何らかの形で魅力的」な要素を可能な限り選んで、持たせようとするだろう。
うまく出来上がれば、自然と縁を感じる。やがてそこに一種のエネルギーが内包され、「タルパ」として意識される存在へと成立していく。
そうやってタルパを作っていくわけだが、
さて、ここで疑問が生まれる。
理想の姿を思い描き、
それをひとつの存在にしようとする。
なぜ、わたしは「そう」したの
だろうか?
なぜ、わたしは「そのように」彼らを造ったのか?
なぜ、わたしはそれをひとつの「理想」だと感じたのか?

理由はひとつ タルパーは異常性癖者の集まりだからだ

……というと話が終わってしまうので、もう少し続けたい。「元々のタルパ」という存在は、「本質」がこの世界(物理的世界とは完全なイコールではないことに注意したい)に反映された結果生み出された「顕現」のひとつと言われている。(人間も、「とがり具合」の差こそあれど、この意味において実はタルパの一種だ)
つまり、タルパの製造者(術者)は程度こそあれ、その能動的(と自分が認識している)行為によって「本質がこの世に反映、顕現していく現象」の手助けをしたことになる。 
設定から考えたタルパなら足役をしたようなもので、既存のキャラクターをそのまま使っているなら投げ銭をしていると思えばいい。
そして、なぜタルパの製造者たちがそのような「手助けをさせられる」のかと言えば、「血縁があったから」としか言いようがないように私としては感じる。
かなり下世話な喩えをすれば「親御さんから生活保護の申請があったのだが、なんとかならないか」と役所から電話がかかってくるとか、クリスマス・イヴに昔の恋人からいまさらのメッセージが入ってくる話のようなもので、笑えるような笑えないような話だ。(※私自身にそんな経験はない)
実態はこれよりはるかにマシで、要は「向こう」のほうからまさに我が意をこの世に出ださん、としているときに使うなら、縁もゆかりもない存在よりは親戚や気があいそうな人間なりなんなりを使うでしょう、というごくシンプルな話になる。
シュタイナーやらのスピリチュアル界隈で出る霊統(※仰々しいが、家系図のようなものだ)やらはかなり似た概念ではと思う。(仏教で言う血脈は言葉こそ似ているがまた別概念か。あれは教わり伝えるものであって各自が勝手に感得して想像するものではない)
血縁関係または姻族であること、肉体の遺伝子配列がきわめて近いこと、血を分けた家族であることは通常その個体間である程度以上の愛着を生む傾向にあるが、不運にもそうはならなかった……ということが世間にしばしばあるのは、何もかもが物質的存在であることに縛られるこの地球のさだめだ。
いっぽうで、霊的な、魂レベルでの血の繋がりは、そのような不和の戒めから解き放たれている。つまり、本質の顕現という意味において一種の「同胞」であることを察知してからかれらは生まれて来る。なのでかれらは理想の存在でありながらどことなく親しみがわいてくるし、向こうも屈託なく接してれる。
このようなタルパたちの受け皿を作り、自分の霊的血縁者が現れる手助けをすることで、「本質」から分かれ出でる仲間たちとのつながりが良くも悪くも、増える。
この血縁、ルーツに思いを致すことによって、自分自身の本質が見えやすくなる。
また家族の喩えをすると、共に生きていれば肉親なり兄弟姉妹なり配偶者なりに自分の姿を見、翻って自分の中に「それ」を見ることはあるだろう。
同じことで、霊的に繋がりのある「理想的な何か」をこの世にあらわすかわりに、その「理想的な何か」には自分がこの世に発生した因果を観想するための覗き窓なり、乗り物なりになってもらう。のがいわゆる術としてのタルパなのだろう……というのが私の解釈である。
根源に思いを致すのは、つまり瞑想である。

覗き窓なのだから、顔を出して覗かなければならないし、乗り物は乗らなければ意味がない。終点は一体何処なのかわからないミステリー・ツアーだ。これはなかなか危険なことにも思えてくるだろう。
まあ、気の合う連中だからつらいことよりは楽しいことの方が多いだろうし、そう悪い話ではない。それに、乗りかかった船には乗っていくしかないのがものの道理だ。
ただひとつ言えることは、そうやっているうちに、自分がもはや窓の向こう側にいたこと、自分自身こそが船であることにときおり気がつくようになる。ずいぶんと変わったありようだとは思うが。そのほかには、何もわからない。
ゆえに、これを読んでいる私ではない人間がいたとして、その人間が窓を覗いた先に何が見えるのかを、私は知らない。私ではなく、あなただからこそ見ることができる。それこそが「本質」であり、「個性」だからだ。

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