「文章を残す」ということ
前提知識として、僕は「今すぐ死ぬ」か「永遠に生きる」ことでしか人生を肯定できないということを念頭に置いてほしい。
永遠に生きる、とは、古代エジプト神話における死生観のように子々孫々の記憶、情緒の中で生き続けるということではなく、僕が僕のまま僕の身体と僕の知識と僕の感性を保ち、僕の一貫性に於いて生きるということだ。だから、仏教における輪廻転生というものは恐怖の対象だ。自己同一性を失ったまま生命の始まりには魂がまた一から始める。しかも前世からの業がつきまとっているのに僕にはその原因が認識できない。これは恐怖だ。
そんなことなら、脳の機能を失ってなお体だけは生き続けるゾンビになったほうがまだしもマシであるとすら言える。そこには魂は介在せず、ただ神経発火のみが存在するから。
書こうと思えばまだ書けるが、以上のような理由で、僕は「今すぐ死ぬ」あるいは「永遠に生きる」の二択でしか人生を肯定できない。これに読者諸兄は理解する必要も共感する義務もない。ただ、以降の文章に於いて念頭に置いてほしい。
「文章を書き残す」ということは、多くの人にとって「他者に自身の考えや感じたことを伝えたい」以上に、「私の生きた痕跡がほしい」ということだろう。例外的に、人工知能に文章を生成せよと命じる人工知能に文章を生成せよと命じる人工知能に文章を生成せよと命じる人工知能に……というフラクタル構造も存在し得るが、文章の生成に関して人が行う動機というものはおそらく自己実現の一環ということになるのではないだろうか。
僕が思うに、これは「永遠に生きる訳では無いが今すぐ死ぬわけでもない」という人生の肯定の仕方の発露に見える。今すぐ死ぬわけではないからなにかする時間はたっぷりと残されている。しかし永遠に生きるわけではないから自分という存在のいた痕跡を後世に残したい。世界中の人々に称賛されなくてもいいが、誰か一人でも私に共感してくれればそれでいい、という人生観に端を発している。ように見える。
僕はこの人生観を嘲るつもりも無ければ、僕の人生の肯定条件を高尚と誇りたいわけでもない。ただ、僕自身がそのような動機で、つまりスケールの大きな話で言えば、ファラオが巨石を積み上げさせたり、天皇が丘の周りに堀を巡らせたり、皇帝が軍隊の陶器を作らせるような意味でもって文章を書き残すとしたら、それはとてもダサい行為で恥じ入って文章の巧拙に関わらず書き続けることもできないだろうと思う、ということだ。
ではなぜ僕は文章を書き残すのだろうか。それは僕自身もわからない。1つ言えることもない。ただ、文章を書くことは僕が僕に残した唯一の表現手段だということだ。
人生の肯定の方法は、F. ニーチェによれば1つしか無い。永遠回帰の自覚と超人への昇華である。
ニーチェの思想によれば、人生は同じ順序、同じ結末で永遠回繰り返されている。この永遠の中で永遠を自覚して生きるためには、人生の隅から隅まで肯定していなければ、退屈が過ぎて死んでしまうだろう。しかし、その退屈ですら永遠回繰り返された経験の1つでしか無い。しかし人生の隅から隅まで愛することなどできるだろうか。そのよう思想は不可能な試みを前にしたニヒリズムに見える。
しかしニーチェは、これをキリスト教に対するアンチテーゼとして提唱したとされる。つまり、現状を否定し死後の救済を以て人生の肯定を行おうとする宗教を奴隷根性の再生産を促す「消極的なニヒリズム」とし、思考の停止を促し新しい価値の創造を妨げるものとして批判した。対してニーチェは、死後における人生の肯定を奴隷根性の消極的肯定のために生み出された幻想として「神は死んだ、人が殺したのだ」と記した。つまり、キリスト教における唯一神は、生まれたときにはすでに死んでいた。死んだ神として人は神聖四文字を生み出したと語る。この死んだ神の支配から脱却し、現在の生をその障害ごと受容する思想を「積極的なニヒリズム」と彼は称する。ニーチェにおける人生の肯定とは、既存の価値観からの脱却と新たな価値観の創造=「超人」への進化によってなされる。
インド独立の父=マハトマ・ガンディーは「明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ」と言った。実際に言ったかどうかは疑問符がつくらしいが、歴史上の人物はそういう尾ひれはひれがつくものである。
ともかく、この言葉には含蓄がある。明日どころか次の瞬間に死ぬかもしれないならば、今起きている障害のために人生を振り返り振り返り生きることなどできないはずだ。一方で、知識は永遠に増えていく。量子力学に於いては、超弦理論で世界を説明すると量子の振る舞いは無限の可能性を示し始め、マルチバース理論の肯定にもつながるという。そのようなことを考えれば、人間一人が100年生きたとしてもその100年分のうちに生まれたすべての情報を知ることすら不可能だろう。いわんや、私達が生きるとされるこの宇宙とは違う物理法則で動く宇宙のことをや。しかしここで「すべてのことを知り得ないならば勉強することは無価値である」と言ってしまえば、それは現状の否定であり、キリスト教的な「消極的ニヒリズム」に堕落することになる。人生の限りから目を背け、天に輝く黄金の都市を夢見る行為である。個人的には唾棄すべきことだ。私には今ここの生活があるのに、それから目を背けるならいっそ今死ぬ方がよほど潔いだろう。そうしないならば、新たな知識を身につけるべく努力を怠らず、しかし勉強に倦んだら眠り、自身の不徳を恥じつつもそれもまた生活と肯定する。こう生きることが、個人的な「カッコよさ」なのである。
ところで今死ぬと言えば、ギ・ド・モーパッサンの「ある自殺者の手記」にはこうある。
実にその通りなのである。僕はよく本が読めなくなる。文章を追っているようで頭の中では別の思考が回っている。僕は映画が一日に何本も見れない。時間的制約だけではなく、映画の内容を咀嚼し解釈するために時間が最低でも24時間ほど必要だ。ときによっては一ヶ月もその作品のことを考えて結論にたどり着いたりもする。
「消化」というものは大変に重要なことだ。胃の腑の中に前に食べたものが残っていたら、次のご飯が入っていけるスペースが無い。直腸に糞が詰まっていたら、腹痛に立って歩くこともままならないだろう。それと同じことが読書や鑑賞にも起こる。この自殺者は、ひいてはモーパッサンは、この消化が現代人には(と言って初出は1937年だし彼の生きた時代から言ってもう少し前だろうが)足りてない、だから自殺者が絶えないのだと言っている。現代の自殺原因とは少し経路が違うだろうが、おそらく根っこのところは変わらないだろう。つまり、人生の障害や物語を前にしたとき、胸のところにもやもやしたものが残る感覚があるだろう。それのことを指して「消化れていない」と表現している。もしもアルキメデスが風呂に入らなければ、科学の進歩は1世紀以上は遅れていたかもしれない。そしてより多くの人々が消極的ニヒリズムに身を浸し、自殺者は少ないが喜びも少ない世界が広がっていたかもしれない。どちらが良いかは人によるだろう。
僕が文章を書くのは、消化のためだ。それはおそらく本質ではないが、文章を書くと思考が促され消化が進む。僕の文章はいうなればうんこだ。ある種類の人々は創作活動をマスターベーションに例えるが、僕の場合は排泄に近い。食べたご飯を分解し吸収する。本当の排泄と違うのは、排泄されるものの中に血肉となった知識・哲学・思想・知恵も含まれるということだ。僕の指先は総排泄孔である。あるいは、ナマコの如く内臓を吐露しているのかもしれない。
僕にとって本を読み、映画を見て、音楽を聞く以上、文章を書くことも生活である。生活である以上生命活動が終わるまでは終わらないよということであり、その文章をこうして公開しネットの海に放流するのは、特段の意味があってのことではない。それは、まさに死んだ神の足元にすがり死を運ぶ神と戦うことなく呪うばかりの街の塵埃となるだろう。
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