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Havana crab

ガタガタガタ…ゴトッゴトッ
寝ぼけまなこで窓の外を見ると、そこには海が広がっていた。珍しく時差ボケをしていたのか、すっかり眠りこんでしまっていたらしい。車内にはもうすっかり高くなった陽の光が差し込んでいた。それにしても、先ほどからなんの揺れだろう。スピードを落とした車は、何かを避けるように小さな蛇行を繰り返している。一体どんな道を走っているのか。ワンボックスカーの後部座席から身を起こして前方を見た。その瞬間、私は、目覚めた。

キューバに来て3日目。私は現地スタッフも交えて9名という小グループで視察旅行をしていた。すでに首都ハバナで他の国と違う魅力を感じてはいたけれど、こんな光景を目にするなんて夢にも思っていなかった。
黒いアスファルトの上を、左から右へ。小さい「なにか」が「たくさん」移動しているのである。フロントガラスに向けてじっと目を凝らすと、それはなんと、驚くほどの数のカニであった。だいたい握りこぶしぐらいの大きさだろうか。赤や黒、あるいは黄色の甲羅の彼らが、道路を挟んで左手の森から右手に広がる海岸に向けてゾロゾロと、まさにカニ歩きをしていたのである。

車は彼らを避けようとしながら、しかし避けられずにゴトッと音をたてながら、ゆるゆると進んでいた。先ほどから繰り返されていた振動は、どうやらこのためだったようだ。車内はその光景に、妙な興奮と緊張感に包まれていた。ようやく目覚めた私に気付いて、キューバ人のドライバーは振り返り、困った笑顔を浮かべた。よくよくカニたちを見ているとなんとも不思議なもので「あわや轢かれてしまう…」という最期のときに、彼らは早足で逃げることをやめ、両のハサミを天に向け「かかってこいよ」と言わんばかりのポーズでこちらを(おそらく)見据える。するとドライバーも、タイヤを痛めてなるものかと徐行と蛇行を繰り返す…のだが、やはりゴトッ。なんとも哀れな末路である。
毎年このエリアでは春一番の大雨のあと、海に産卵すべく、おびただしい数のカニたちが周囲の森から押し寄せてくるのだそうだ。とすると、いま見ていたカニたちは雌ガニか…。よくやけたアスファルトに、ぺたんこになった彼女たち。目的地のビーチに着いて車を降りると、そこは心痛くもなんとも香ばしい蟹せんべいの匂いであふれていた。

今日はシュノーケリングをすることになっていた。島国で常夏のキューバには、美しいビーチが多くある。目の前に広がるのはターコイズブルー色をしたカリブ海。森の入口につくられた更衣室と、器材を借りるカウンター。それから、潜った後に海水を流す場合は奥にある泉に浸かるといい。と現地スタッフが教えてくれた。旅のお仲間はトラベルプロデューサーのEさんと写真を愛好するTさん。2人とも、ひとり旅によく慣れた気さくな男性だ。
早速着替えてビーチへ向かうと、Eさんは泳ぎが得意なのか、すでにもう沖の方まで行っていた。岩場に腰をおろしていたTさんは、海へは入らず眺めているとのこと。燦々と降りしきる太陽の下、私は久しぶりに美しい魚たちを追いかけることに夢中になった。正直、泳ぐのは得意ではない。水着になるのも抵抗がある。ただ、海の世界に惹かれ、好奇心の向くまま学生のときにスキューバダイビングの資格だけは取得していた。興味のあることならば多少危ないとされていても平気で飛び込んでしまう性分である。昔からそうだった。そして今まで、それで後悔することもなかった。近くにダイビングスポットがあるらしく、他のグループ客たちも皆それぞれに気持ちのいい時間を過ごしていた。

しばらくたって、次は3人で泉に向かうことにした。
森の中の遊歩道をすすむとそこまでは数分の距離だ。私の足は軽かった。心が弾んでいるのもわかった。なぜなら、この先に泉があるからだ。池や湖ではなく泉。現地スタッフの説明を聞いたときから、異国の地で「森の泉」だなんてまるで物語の世界みたいじゃないか!と思っていた。頭の中には、困った木こりに声をかけてくる女神か、あるいは水面を覗き込んで自身に恋をしてしまう美少年の姿しか浮かんではいなかったのだ。

ドボンッ

誰かが飛び込む音がした。もう泉は近い。一緒に歩く2人よりも、少しでも先にそれを見たいと、いつの間にか足早に先頭を歩いていた。

いよいよ目の前に、美しい泉が、ひろがる!
道が突き当たったところで私が目にしたのは…
あ、い、た口と目が閉まらないぐらい
真っっ黒な泉…! だった…。
強いて言葉を探すなら、それはかなり使い古された重油のような色と質感をしていた。底知れぬ深さと粘り気すら思わせるその泉に言葉を失った私が、焦点を失いながら水面の先に目を向けると、さらにそこには目を疑う光景が。泉の淵に、赤と黒。あの、おびただしい数のカニたちがひしめきあっていた…!のである。

私は、おののいた。ここがもし物語の世界であるとするなら、私は間違いなく泉の前で立ち尽くす白目の女である。
バンジージャンプもスカイダイビングも、なんだって余裕だと今まで話していた自分の頭と体が、心の底から怖気づいているのを感じた。なかば反射的にEさんに意識をずらす。移動してくる車中で「インディージョーンズの生き方が憧れだ。」と言っていた彼に、小狡くも会話をふることで自分の心を落ち着けようとしたのだ。
「どうですか、やっぱり心おどりますか?」と振り返るや否や…

「おどるねーー!!」ザブーンッッ!!!
その一瞬はまさに、スローモーションのようだった。後ろから助走をつけてきたEさんが、振り返ろうとする私の視界の右から左へ通り過ぎ、躊躇なく重油だまり(にしか見えない泉)に飛び込んだのである。

かっ、かっこいいぃぃ
一瞬で、気を紛らわそうとした自分が恥ずかしくなるような、勇敢さ溢れる見事な飛び込みだった。Eさんは一度深く沈むもすぐ水面に浮かびスイスイと泳ぎまわる。なんとも気持ち良さそうにしながらこちらに手を振ってくる。

…がしかし、私の足は動かない。
深さのわからない真っ黒な泉。足がつかずに慌てて淵に手をつこうものなら、そこにはおびただしい数のカニたちが、いる、のだ。いくらなんでも怖くないはずないではないか。驚くほど足がすくむ。しかし、こんなにも自分には勇気がなかったのか…と軽く絶望すら感じていたそのとき「…よかったら、僕の『さらさらシート』使ってね。」写真を撮って過ごしていたTさんが、察して声をかけてくれたのだ。するとどうだろう。突然ある気持ちが沸き起こってきた。ここで行かないでどうする!もし飛び込まなかったら、一生さらさらシートを見る度にこの泉を思い出すことになるぞ、と。

心は決まった。
「あ、ありがとうございます。わたし…いってみます。」
私は(ようやっと)掛け声みじかく飛び込んだ。

ザブンッ!ボコボコッ…プハッ

真っ黒な泉の水は、当然ながら粘り気なんてなく、入るとひたすらに澄んでいることがわかった。浮かびあがってすぐさま手繰り寄せた蔦と淵には…カニ。今朝まで足元にいたはずの彼らが、今は私の目の高さ、5cm先で静かにたむろし悠然と暮らしているのである。突然彼らの世界にお邪魔したような錯覚を覚えたら、あとはもう笑うしかなかった。こんな体験ってあるだろうか。
これは堪らない旅になる。

そう私が確信していたとき、昼食会場では大皿にカニ料理が盛られ始めていた。

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