閃光のハサウェイと竜とそばかすの姫とF91

【はじめに】
閃光のハサウェイと竜とそばかすの姫とガンダムF 91に共通点がおると思ったのでつらつら書いてみる。ハサウェイの村瀬監督、そばかす姫の細田監督ともにF91が出た頃にはバリバリの若手だったから、F91が出て30年経った今、F91に影響を受けた人達がアニメ監督として活躍する時代になったのだろう

【閃光のハサウェイ】
ダバオ市街戦のモビルスーツ戦はまんま、F91のフロンティア4(でしたっけ?記憶が曖昧)の戦闘のオマージュになっている。
ガンダムエースの付録で閃光のハサウェイ特集があったのだけど、その監督インタビューで村瀬監督はダバオ市街戦はF91のリベンジだったと明言している。

僕も小説を読んだときは「F91」の市街戦に通じるものを感じて、当時のリベンジのような気合で一番最初にコンテを書いたシーンでもあります
<「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ 公式ブックレット」より>

閃光のハサウェイについては私も

で感想記事を書きました。
記事でハイジャックシーンとラストのモビルスーツ戦に文句をつけたけど、ダバオ市街戦は圧巻だったなー、絵、演出ともに、これだけで1900円払って映画館に来て良かったと思わせるほどに。特にギギの描写が良かった。ハイジャックシーンでは「なんか違うんじゃない?」と違和感だらけだったのだけど、市街戦でパニックになって逃げ惑うギギは普通の女の子っぽくて良かった。
まぁ、でも閃光のハサウェイについては事前にF91と類似性があるって明言されていたし、監督もF91制作スタッフだったからそんなのは自明なこと、問題は竜とそばかす姫のほうだ。

【竜とそばかすの姫とF91】
そもそも、竜とそばかすの姫を見たのはガンダム系の作品を2ヶ月で六回(Gレコ劇場版3を四回、閃光のハサウェイを二回)見たから非ガンダム系の作品を見て、ガンダム系の作品を相対に評価できるようにしたかったのだが・・・
物語の冒頭のすずとすずの母親のシーンを見た時
「これってシーブックとシーブックの父親に起こった出来事と同じじゃない?」
とか
物語の終盤のすずが<U>の世界でオリジンを曝け出すシーンは
「これってシーブックが【誰かと繋がる、ニュータイプ能力】を全開にして宇宙空間に放り出されたセシリーを助けるシーンに似ているよね」
とか
「結局、DV親父とすずの母の関係はセシリーの父とシーブックの父の関係性と同じだよね(クズな親 VS 良き親 という意味で)」
とかね、ガンダムテイストがない作品を見たいのに結局、F91を随所に感じさせる作品を見る羽目になってしまった、どうしてくれる(笑)

【聖人を愚者として描く】
シーブックの父親がとった行動もすずの母親がとった行動も本質的には同じなんだよね。でも、シーブックの父親の行動はyoutubeのガンダム系サイトを見ればわかると思うけど、「英雄視」される。

シーブックの父親は劇中でヒロインの父親のグズさと対比させるために、「いい人」的な描写が多かったていうのもあるけど。

逆にすずの母親のとった行動は「愚か者」扱いされる。(そして、それが何気なく示唆されている)。改めて作品を最初から最後まで思い返したけど、「すずと母親」の絆を補強するシーンはほとんどなかったような気がする、後、母親がよき人であるという直接的な描写も。F91と真逆の描き方をしているんだよね。すずが物語の後半で「神性」を得るシーンや、母親を失うシーンのすずの描写から類推するに、すずの母親は少なくともすずにとって「よき親」であったはずなんだが。これは一つには「母親の死」をすずのトラウマと直結させる作劇上の演出の要請、というのはあると思う、実際に。でもなぁ、それだけでじゃないと思うんだよなー。Gレコのアイーダさんが叫んだように
「想像しなさい!」
ってことですかね?
なら、想像して見ると・・・・
すずが自分にかけた呪いを解くには
- 他者に対して心を開くこと
- 母親の行った行動は利他的な行動でその「他」の部分にはすずも含まれていることに気がつく。
の二つの条件を満たす必要があるように見える。
利他的、ということを少し補足すると、物語の当初、すずは「自分あの子」という排他的論理和的な思考にとらわれている。そうじゃなくて「自分あの子大切」だという論理和的な思考になる必要がある。そのすずの思考の変化を「死者」としての母親の描写じゃなく、生者としてのすずが生きている世界(バーチャルな世界も含めて)でいろんな体験をして見つけて欲しいという監督なりの哲学があったりするのだろうか?この作品はリアル⇄バーチャルじゃなくて生者(リアル+バーチャル)⇄死者が真のテーマじゃないかと思ったりもする。

【すずはニュータイプに進化する】
シーブックの父親は「聖人」、すずの母親は「愚か者」と書いたけど、本来、この書き方っておかしいよね?シーブックの父親もすずの母親も「心に湧き上がった思い」に従って行動しただけだと思う。
「その君の心に湧き上がった怒りは戦う理由になる」。
確か、ZZの最終盤で戦うことを躊躇うジュドーに対してカミーユが語りかけたシーンがあったのだけど、<U>の世界でオリジンを曝け出すことを決断したすずの気持ちはカミーユが発した言葉と同じなんじゃないかな?すずの場合は「怒り」ではなく、「目の前で困っている人を救いたい」という純粋な気持ちなんだろうけど。純粋な気持ちから戦い、相手の心に共感しあう少年・少女、ガンダムの世界では「ニュータイプ」っていうんだけど、えっ、この映画でそんな描写していいのと、感動する傍、非常に困惑した記憶がある。なんか、すずがオールドタイプな人間からニュータイプな人間になる話に見えたんだけどって。
とんでもに聞こえるかもしれないけど、少なくとも後半の
「50億人の中からたった一人の少年を探し出す」
「一人で虐待された少年を救うため東京に行く」
というのは、すずが「ニュータイプ的な何か」をすずが帯びるようになったと見ないと説明ができん(笑)。ニュータイプというか人々と共感する力。
まず、すず/ベルが一体化したシーンは
「シーブックが母親の力とF 91のバイオセンサーの力を借り、自分自身のニュータイプ能力を発揮して、広大な宇宙空間に放り出されたセシリーを探し出す」
シーンと被ったぞ(細いシチュエーションは違うけど)
この瞬間のすずはF91のシーブックでした、かっこいい!
そして、例の物議を醸した問題のシーン
死者と共感する力をZガンダムから取り込むことででカミーユが無敵の人になったのと同様、すずもUの世界で得た力を無数のフォローアの共感を背景に無敵の人になったんだろう。無敵になったカミーユはよくわからん謎パワーで、モビルスーツで突っ込んできたヤザンを吹き飛ばしたり、神を称したシロッコを撃破するのだから、すずがDV親父を撃退するくらい訳はない(暴論)
ちょっと真面目に書くと、すずは
- バーチャルな世界でセイレーンになる
- 利他的な心を持つ
- 奇跡を起こす
ことで「神格」を得たんだと思う。
神様を傷つけた人は

画像1

の人みたいにバチが当たります
それにしてもなー、竜とそばかすの姫とターンAガンダム44話をほぼ同時期に見るとか、なんか出来過ぎだな。

【それぞれのニュータイプ論】

「機動戦士ガンダム」ではニュータイプが人類の希望とされているけど「Zガンダム」以降は希望では無くなっていて、むしろ現実の厳しさに飲み込まれている形になっています
<「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ 公式ブックレット」より>

今年の夏は
・閃光のハサウェイ
・ガンダムGのレコンギスタ劇場版1〜3
・竜とそばかすの姫
と過去に経験がないほど映画作品を見ている
これらの作品をニュータイプという括りで、自分なりの位置付けを半ば強引にまとめると
・ニュータイプの幻影に狂わされた男を描いた「閃光のハサウェイ」
・現実の厳しさを描きつつも「ニュータイプへの希望」を描いた「竜とそばかすの姫」
・世界を旅して自分自身の足でたて、他者の価値観に自分の価値観を左右されるな、ニュータイプ云々はその後の話だって、ことを描いた「ガンダムGのレコンギスタ」
3作品ともそれぞれ、独自の視座があって面白い。

【最後に】
「竜とそばかすの姫」を「ニュータイプ」という言葉を使って語る、なんてあんまり想定していなかったから書いている本人もびっくりしているなー。というか、私自身「ニュータイプ」って言葉は嫌いだったはずなのにね。
まぁ、それくらい「竜とそばかすの姫」は「物語が豊潤」だってことなんですよね。だから、今、この時だけでじゃなく、1年後、5年後、10年後に見返した時、それぞれ作品の良さが変わってくるんだと思う。
。。。。って言っているそばからサガフロティア2と類似している要素もあるじゃないか、「竜とそばかすの姫」になんとなく惹かれているのも好きだったゲームと類似性があるからか、これも文章にしないとなー

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