外人差別
永住権を取ったり日本に帰化したりして日本に住むことにした外人さんたちの意見を色々と見聞きしてきた。
中韓を除けば、共通するのは「日本が好き」といったところくらいでそれ以外の意見は様々なようだ。
私の友人に日本在住のイギリス人がいる。彼は日本のマンガが好きで20年ほど前に初来日してから日本で職を探し始め、職を得て日本に移住し、結婚し子供を授かり家を建て永住権を取得したそうだ。
彼は日本が好きなようだが日本国籍を取得することに対するこだわりはなく、永住権を取得することで煩雑で面倒な手続きが緩和されたことを喜んでいた。
日本に帰化しても日本人にはなれない。
だが中には「日本人になりたい!!」と強く思う外人さんもいるようだ。
だが残念ながら彼らは「日本人」にはなれない。
金の髪を持つ彼も、漆黒の肌を持つ彼女も日本に帰化したとしても「日本人」になることは出来ない。
彼らはその生活地や仕事先などそれぞれのコミュニティで優しく受け入れられるだろうが彼らが「日本人」として受け入れられることはない。
それは外国人が考える「日本人」と、日本人が考える「日本人」は違うからだ。
外国人は当然「日本人」を「日本国籍を持つ者」と定義する。
だが日本人は血と言葉で、つまりは見た目で「日本人」と判断する。
多民族、多人種が入り乱れている欧米では、見た目で「何人か」を判断することはあまり意味がなく、合理的ではない。
だから国籍で合理的に「何人か」を判断する。
しかし日本は99%が日本国籍を持つ、単一民族国家だ。わざわざ国籍を確認する必要はない。見た目で判断しピックアップするのが合理的だ。
だから帰化しているからと言って日本人に「何人?」と聞かれて「私は帰化した日本人です!」と答えてもあまり意味はない
こちらが知りたいのは国籍ではなくその血のルーツだからだ。
「いや、どこの人?」と聞き直されるのがオチだ。
こちらが聞きたいのは
「曾祖父さんがアイルランドからカバン1つを手にしてニューヨークに降り立ったのがオコーネル一家の始まりよ」とか
「母方の祖母は帝政ロシアの没落貴族で祖父はポーランド王家の末裔、父方はメキシコ、アンデス、ラティーノにアステカ、一番濃いのはインディアンらしい、まさに俺こそがTHEアメリカンってやつだぜ」とか言う話だ。
国籍なんかどうでもいい。99%の日本人は国籍なんか一度も気にすることなく生活してきたのだ。
日本で他人の国籍を気にするのは入管庁の職員くらいのものだろう。
多民族多人種の中で生活してきた欧米人は「何人か」を国籍で判断するけれど
単一民族社会の日本で暮らしてきた日本人は「何人か」を血で判断する。
日本語お上手ですね。
日本に何十年住もうとも、どれだけ熱心に日本語を学んだとしても、言われ続ける言葉。
帰化しようとも、それどころか日本で生まれ日本人として育ってきても言われ続けるであろう言葉。
「日本語お上手ですね」
残念ながらその言葉は死ぬまで言われ続けるだろう。
「日本人」は肌が黄色くない人が日本語を話せば必ず聞くだろう。
「日本語お上手ですね」
あるアメリカ人男性が言っていた。
アメリカで相手がアジア系だからって「英語がお上手ですね」なんて言ったらブン殴られるぜ。
それはそうだろう。
あるカナダ人女性が言っていた。
日本人だって「日本語お上手ですね」なんて言われた馬鹿にされていると思うでしょう?
それもそうだろう。
アメリカで英語を話すアジア人がアメリカ国籍でない確率は低いが、日本で肌が黄色ではない人が日本国籍で日本語を話せる日本人である確率はとても低く、それは1%以下だ。
だから「日本人」は相手の肌が黄色でないなら、日本語が話せないものだという前提で対応する。1%には賭けない。
目の青い女性が困っているようならまず「Are you ok?」と話しかけるし
鼻の高い男性が困っているようならまず「May i help you」と話しかけるだろう。
日本の街角で困っている外人さんに、いきなり日本語で「どうしたの?大丈夫?」と声をかけても相手には分からないだろうし、いきなり分からない言語で話しかけたらより不安にさせるのではないかと思ってしまう。
肌の黄色い者だけが日本語を使っていいと思っているわけではない。
単に確率の問題だ。日本で肌が黄色くない者が日本語を話せる確率は低い。当然その前提で話しかけるし、もし日本語を話せたのなら「日本語お上手ですね」と言うのだ。
これがストレスに感じる人もいるのだろう。
しかしこれは日本人には中々理解しにくい。
もし私のつたない英語を褒めてくれる人がいたら私は嬉しく思うだろう。
おそらく「日本語お上手ですね」と言われてストレスに感じる人も、日本語を学び始めた当初に「日本語お上手ですね」と言われたら嬉しかったのではないだろうか?
日本語を勉強している間はそれを褒められることが嬉しかったが、もう話せるようになったので褒められる必要はない。
ちょっと無理があると思う。
見た目では日本語を流暢に話すことが出来る人なのかどうかは判断できないし、日本で生まれ育った日本人なのかもわからない。だから日本語が話せないものとして対応する。それがうまくいく確率は99%だからだ。
因みに私の友人のイギリス人に「日本語お上手ですね」と言われるかと聞いたところ、別に言われないとのことだった。
それはそうだ。彼が属するコミュニティの人は彼が日本語を話せることを知っているだろうからだ。
ただそれでも初対面の人に「日本語お上手ですね」と言われることはあるらしい。
彼曰くそれは「何とかしてオレに話かけたいんだよ」とのことだった。
多様性を認める風潮に遅れる日本。
見た目だけで全てを判断しているわけではない。まず見た目で判断しているだけの事だ。
今、世界は多様性を認めようという社会になりつつある。
その社会ではここで私が言っているのはただの屁理屈で多様性を認めるという事に反していると思う人もいるだろう。
見た目で判断するというのは遅れているという考えだ。
だが私の考えは違う。
多様性と言うのは、日本人が海外へ行ったら見た目で判断するのは通用しないという事を理解し受け入れる言う事であり
外人さんが日本に来たら、日本はまず見た目で判断するという社会であるという事を理解し受け入れることだと思う。
少なくとも言語に関してはだ。
99%の人が1%の人に配慮するのは難しい。
それは相手が1%に属する人なのか、そこから外れる人なのかは判断できないからだ。
端的に言えば相手が日本国籍を持ち日本語を使いこなせる日本人なのか、観光旅行で来た外人さんなのかは判断できないからだ。
日本で、日本語を話せるかどうかを見た目で判断しない社会にするというのは日本人が数千年間の間に形作ってきた価値観の一部を砕いて捨てろと言うに等しい。
外人という言葉は差別用語である。
外人と言う言葉は見たままだ。
「外」の「人」と書く。
それが指すのは「日本人以「外」の「人」」である。
「外人」と呼ばれることに対し「お前は日本人ではない」と言われていると差別的な印象を持つ人も多いだろう。
だが「外人」という言葉の意味は違う。
日本では、日本以外への旅行を「国外旅行」とは言わずに「海外旅行」と言う。
そう「海」の「外」だ。
日本と言う国は先進国の中で唯一の単一民族の島国だ。
日本と言う国に国境はなく、どこに立っても見えるのは海だけだ。イギリスの様に泳いで渡れるような他国もない。
千年以上前にヨーロッパで「国家」という概念が生まれた瞬間にそこの人々は歩くだけで他国に行くことが出来るようになっただろう。
しかし日本で庶民が他の国に行くことが出来るようになったのはわずか60年前の話だ。
それでも私が子供の頃は周りに海外旅行に行ったなどという友達は一人もいなかった。本当の意味で庶民が海外へと行けるようになったのはたった30年前のバブル期が訪れてからだ。
日本と言う国に住む日本人にとって日本以外の国は数千年の間「海外」であり、遠い海の向こうにある憧れだったのだ。
日本人にとって「外人」とは「日本人以外の人」を指す言葉ではあるが、その意味は「海外の人」という意味だ。
「遥か海の彼方からやってきた人」という意味だ。
だから多くの日本人は「外人さん」と敬称である「さん」を付ける。
だから日本人は遥か彼方からやってきてくれた「外人さん」をもてなすし、こんな小さな島国でしか通用しない言葉を覚えてくれた「外人さん」に感動して
「日本語お上手ですね」と言うのだ。
つまり「外人」という言葉に差別的要素を感じる人は、その言葉の指すところは理解をしているが、その言葉の意味は理解していないと思う。
言葉の意味を理解せずにその言葉を差別的だと批判していいものだろうか?
仮に、英語などろくに話せない私が「オリエンタル」という言葉はなんか差別されている気がするから使うのを止めろと言ったら、どう思うだろうか?
使うのを止めてくれるだろうか。
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