医者の息子の父と、ミュージカル俳優の母

これは自伝である。

私は東京の小平市に生まれた。
その時、父は製薬会社の新入社員で、母親は劇団の俳優を辞めたばかりであった。

まず、父と母について話そうと思う。

父は、どうやらエリートな育ちをしていたようだ。
小学校受験をして国立の筑波大学附属小学校に入り、そのまま高校生まで内部進学の競争を勝ち抜いている。
父の父(私からみた祖父)は医者であり、父の祖父(私から見た曾祖父)も医者という、代々医者の家系であったため、父は生まれながらにして医者になることを期待されていた。

父はその人生をどう感じていたのだろうか。
父は自分の感情について多くを語らないが、大きなひずみがあったのだろうと思われる。

結果的に、父は大学を三浪した。
しかしながら、医者になることはかなわなかった。

祖父は三浪した父に言ったのだという。
「国立大学の医学部でないなら、日本の大学に通ってもしょうがない。アメリカでも行けばいいだろう」
アメリカの大学なら、箔がつく。

そうして、父はアメリカに留学をした。
その留学中に、父と母と出会ったそうだ。



一方の母は、自分の人生を自分の足で歩んできた人だった。
父と出会った当時、母はアメリカですでに演劇の仕事をしていた。

初めに父と会った時の母の印象は、
「金持ちのボンボン」
であったという。
せっかくアメリカという環境に来ているにも関わらず、日本人コミュニティの中にかたまって、もったいない、と思ったのだそうだ。

母は東京の小平で育った。
子供のころからのびのび育ち、サルのように身軽な子供で、全身真っ黒に焼けて外で日がな一日遊んでいたそうだ。

そんな彼女は、小学生の時に劇団四季のミュージカルを見たことがきっかけで、ミュージカル俳優を目指すようになる。

中学3年生の時、劇団四季のオーディションを受け、合格。
しかしながら、迷った結果、高校生という今しかできない経験をした方が良いだろうということで、辞退し高校進学をする。
高校3年のとき、劇団四季の夜間学部(当時のみあった仕組みだそうだ)に通い、昼間は高校、夜は劇団四季の生活を送り、首席でその夜間学校を卒業。

高校卒業と同時に劇団四季の正式な団員となり、舞台に立つようになる。

しかしながら、どうやら、人間関係でもめたようだ。
「私のファンクラブまであったのよ」
と母は語る。
劇団四季の団員の先輩方から、とても気に入られていたらしい。
それがあだとなったか、劇団四季のトップに嫌われ、精神的に追い詰められていく。

ある日、ついに劇団四季の退団の意思を伝えたあと、ビルの外に出て、ふと空を見あげた。
その時の空をおぼえている、と母は語る。
その瞬間、母は自由になったのだ。

「思えば、全然空を見上げていなかったんだよね。うつむいてばっかりだったんだと思う」

それから母は、フリーの俳優として、オーディションを受けつつ役を獲得していく。
ブロードウェイミュージカル俳優を目指し、イギリス留学やアメリカ留学を行う。

「でも、私は結局、一番やりたかった役、ミスサイゴンの役をやれなかった。そこまでの実力だったということよ。劇団四季だって、若くして辞めているし、自分の誇るべき経歴だとはそんなに思ってない。
でも、よく考えてみると、俳優の力だけで食べていけていたという意味では、私は自分のことを『俳優だった』と言ってもいいのかなと、今は思っている」

母は、本当は私を産んだ後も、俳優を続けるつもりだったらしい。
しかし、生まれた私を見たとき、その考えを180度変えたのだそうだ。

「こんなかわいい存在を置いて、働けるわけない。
この子の成長のひとつひとつを見逃したくない」

そう思ったんだよ、と母は私に言う。

それが本心100%だったのか、そうでないのかはわからないが、娘の私としては、うれしいことこの上ない言葉である。


次回(アメリカの記憶)に続く



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