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インパクト

今思えばいろいろあった強烈な年だった。

ベーサトとの出会い

小学3年生になった俺。
1、2年とはクラスが変わり新学期が始まった。
同学年は5クラスあったのだけど小学校生活は既に2年経過していたので、だいたい他のクラスの生徒の顔も解っていたのだが新しいクラスの始業式には見た事のないデブがいて言葉も我々の使う庄内弁とは違う山形弁で話していた。

山形県は内陸地方と庄内地方に大きく分かれ同じ県内でありながらも言葉も違えば風習も違っていた。
その初めて見るデブは坊主頭の山形弁、先生には堂々と山形弁で馴れ馴れしく話していた。

変わった奴だと思ってた彼の名はベーサト。山形市の方から親父さんの転勤で引っ越して来たのだった。
ちなみにベーサトと呼ばれるのは随分と後になるのだがとりあえず彼はイニシャルではなくニックネームで呼んでおきたい。

俺はその始業式がインパクトがあったのだが彼の中では俺が授業中に鉛筆だったかを拾ってくれたのが最初の思い出らしい。今後彼が俺の将来に大きく関わってくる存在になるのだ。
※見出し画像の真ん中下が俺で左2個隣の丸い物体がベーサト

ベーサトには2つ下に弟がいて俺の妹とも同学年だった。
人懐っこいしズゲズゲと人に入り込んでくる彼とはすぐに仲良くなった。
いろいろ強烈な奴だった。人の家に遊びに来て勝手に冷蔵庫を開けて何か食べ物がないか探したり、自分の家でも小3にしてキッチンからいろいろ出してきて料理を作って友達達に食わしてくれた。
お母さんも強烈なキャラで息子の友人の家にはピンポンも鳴らさず入って来た。

変わってるがベーサトは周りに愛されていた。

うちの親父もベーサトとを気に入って日曜に一緒に海に行ったりスキーに泊まりで行ったり家族ぐるみで付き合った。
俺らは趣味も合ってお互いプロレス好きで絵を描く事も大好きだった。
家ではよく戦い、絵を書いて一緒に飯を食ってとにかくよく遊んだ。

夏に学校のプールや市民プールに行くと何故か俺達は水泳ではなく水中で戦っていた。まるでドラゴンボールのような戦いをずっと水の中でやっていた。

プロレス遊びがエスカレートして喧嘩になる事もしばしば。けれども割と早く仲直りしていつものように一緒にいた。
俺達はいつも戦ってるしクラスの中では強い方だと言う自信があった。
この時代、プロレスではロードウォリアーズが暴れていてそれに熱狂しプロレススターウォーズを読み、ジャンプではドラゴンボールや北斗の拳、キン肉マンが流行っていた。
自ずと男ならば強さに強い憧れをもつ時代だった。俺とベーサトの戦闘力はいつも一緒にいて2人で修行する事により確実に上がっていった。そう思っていた。

最凶の男

その男、Iと言う。
実は1、2年からクラスは一緒なのだがIは背が皆より頭一個分高く体はゴツくて勉強はかなり出来ない奴だった。
俺の右手の甲には一年の時にIと揉めた時に付けられた裂傷の跡がありそれは何十年たった今でも残っている。些細な理由で小競り合いになった時にIは鉛筆を持っていてそれでがっちり抉られてしまったのだった。

Iは人に貸したものは返さないしジャイアンみたいな感じでやる事がめちゃ理不尽だった。
そんなIは授業では先生に指名されると何も答えれず国語の音読など字が全くに読めてはいなかった。そんなところからIはデカいけど当時は馬鹿にされていて俺も彼を見下していたと思う。その頃はまだ鉛筆で刻まれた傷跡は大きく深く俺はIを憎んでいた。

Iと喧嘩になった。絶対勝てると思って勝負したのだがヘッドロックで抑えられた状態で顔面をボコボコに殴られた。
小3レベルの攻撃ではなかった。デカい手から中指を尖らせるように握ったパンチで顔や腹を容赦なく殴ってくるのだが圧倒的なパワーの前に俺はやられ泣く事しか出来なかった。
小3くらいだと敗北の決定は泣く事である。ただ幼稚園の時の敗北とは全く違い痛みも比べ物にならず皆の前でやられたことでプライドをズタズタにされたのだった。

悔しいけどIは絶対的な強さがあった。同時期ベーサトも挑んだがやられクラスの中では当時一番強いと言われていたSもやられた。
喧嘩の理由はだいたいIが悪いのだが理由など関係なく容赦なく拳が振り下ろされた。

何度か挑んだがいつもやられた。
ベーサトと2人で挑んだら流石に勝てたのだがサシでは無理だった。
Sは一回の敗北で戦意喪失していた。
俺はIにはやられていたけど闘争心だけは死んでいなかった。

俺は死ぬのか?

そんな時期に一瞬死にかける。

母方の祖母の家には夏休みになると従兄弟の兄弟が横浜からやって来るのが定番だった。
なかなか聞き慣れない標準語に最新式のゲームウォッチやら何やらいろいろ持って来て俺らは彼らに田舎もんと呼ばれていた。
でも沢山の従兄弟が集まるのは大好きで夏休みは祖母の家は賑やかになっていた。

その日は道路沿いの2階の窓から1階に向かってに水風船を落としていた。従兄弟にヒットしたりしてめちゃ楽しかった記憶があるのだが時間は夕方。俺は夕日がとても綺麗だったのを覚えてる。

気がついたのは暗い病院の中、よくわからない機械(多分CTスキャン)から出て横を向くとガラス越しに両親や親戚がいた。
また記憶が途切れ再び気がつくと病室のベッドの上だった。
母親が付き添っていたのだが「俺は死ぬのか?」と聞いていたらしい。

通りすがりでたまたま見ていたおばさんの話によると俺は窓に座って足を外に出していたらしい。夕日を見ていたのだろうか?
そうしたら急にバランスを崩したようで一旦玄関のヒサシに直撃した後、下に停めてあった自転車の籠に直撃してから地面に落ちた。

ドンという音が響き渡り通行人のおばさんが「落ちたーーー」と叫び、家から何事かと飛び出した家族が自分を抱え病院に運んだそうだ。
意識はあったみたいだけど俺には落ちた辺りの記憶が全く無かった。
診断の内容は頭蓋骨骨折と半身打撲だった。
家族が担当医に今夜がヤマだと伝えられたそう。

叔父さんはタバコを持つ手が震えてたそうだ。
母は俺を信じると言ってずっと傍にいてくれた。
翌日になると体が痛くて動けないものの意識ははっきりとしていた。
幸い開頭手術みたいのは必要なかったが検査と安静の為に1週間ほどだったか入院した。
学校はもう始まっていた。

傷もあったので頭に包帯を巻いていた。退院して学校に行くとクラスメイトが心配して囲んで話を聞いてきた。担任の先生は俺が2階の窓から落ちたけど自転車の籠にスポっと入ったおかげで一命をとりとめたと勘違いしたデマを流していたので自分は皆の前で遭った事を説明した。
2階の窓から落ちる奴はなかなかいないのだが実は親父も落ちていて更には祖父も落ちていて怪我は俺が1番重症だった。親父はマンガを読みながら落ちていったそうだ。残念な遺伝である。

当時の自分の大怪我自慢大会になると頭蓋骨骨折はなかなかいなかったので足の骨折や肘の脱臼とかで自慢する奴らを一蹴することが出来た。周囲の心配を他所に小学生とはアホである。

空手

そう言えばこの時期に初めて格闘技を始めた。クラスメイトの数名が空手をやっていたのだが、道着を着て格好良かったので自分も始めることにした。それによって強くなりたいとかは一切無かった気がする。ただ俺は空手をやっているぜと言うのが欲しかっただけのような。

その空手は伝統派空手だった。確か和道流だったはず。常設道場ではなく自分達の小学校の体育館で夜に週2回の頻度で行われていた。小学校中学年の我々がやる事と言えば突きや蹴りの練習、型の練習がほとんどだった。

空手自体面白くも何ともなかった。友達が一緒だから続けていた。やっぱりプロレスラーの方が強いんだろうなと子供心に思っていたしそんな気持ちで上達はしない。一時期はクラスメイトが沢山通った時期もあったが自分が辞めるころにはだいぶ少なくなっていた。それから2,3年続けたのだが冬場に寒稽古と言って雪の上を裸足で走り海へ向かって突きを繰り出したのは良い思い出だ。何の意味があるのかは解らんが。

拳の握り方をこの時初めて修正した。俺のグーは親指が必ず中だった。それで今までIと戦っていたのだ。これがこの空手道場で一番の収穫だったと思う。

俺はちゃんと拳を握り憎きlにリベンジに向かうのだった。

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