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最初

最初の試練

1976年10月8日に山形県は鶴岡市で俺は生まれた。何グラムだったかとかは知らないが出生時は無呼吸状態だったらしく人生始まって早々いきなりピンチを迎えたそうだ。
心臓にショックを与えたかなんかしたら泣き出して呼吸を始めたそう。
覚えてないので何とも言えないが幼い頃に母親からその件に関してとても大変だったとよく聞かされた。
知らんけど。

亮(りょう)と言う名前は母がつけたそうだ。
そんなに嫌いでもない自分の名前だが名前の由来は母の幼馴染に亮君という男の子がいたそうで、その彼はとても良い子で将来はそんな子に育って欲しいと言う母の願いからそのままパクって命名されたそうだ。
せめて歴史上の人物や有名人からパクって欲しかったし俺が生まれて飛び跳ねるくらい喜んでいたと言う親父はその案に対して何も言わなかったのか?

幼少期はとても甘えん坊だった。
母親にいつもべったりだったので他所に預けたりはなかなか出来なかったそうだ。
自分が親になってから思ったのだが、それはそう育てたからで後々「小さい頃のあんたは甘えん坊で困ったもんだ」と言われてもお前のせいだろとしか言いようがない。
専業主婦だった母親は自転車でいつも自分を連れ回り鶴岡公園に行って動物を見せたり自分の好きな重機やダンプカーを見せる為に工事現場の近くに連れて行ってくれたりと自分の興味の示したものには率先して見せるようにしてくれていたそう。
母の愛情をたっぷり受けて俺は育っていった。そんな奴なので親戚など周りからからは「亮ちゃん」と呼ばれる事が多かった気がする。

自分の最初の記憶が幼稚園の入園式である。3年保育だったので3歳の時になる。
甘えん坊がいきなり大勢の同級生と一緒にされ更に親と離れさせられる。
俺は狂ったように泣いた事を覚えている。
グラウンドには園児たちが作ったと思われる汚い鯉のぼりが掲げられてなびいていた。

幼稚園の送迎バスのミュージックは”かわいい魚屋さん”これが高音量で流れて迎えがやってくる。俺は行きたくなくて泣きながら座り込んで乗車拒否したこともあった。
そんな奴だから喧嘩はめちゃ弱かった。
家から100mぐらいに住んでいた現在でも親交のあ悪ガキのトモちゃんは俺のボスだった。俺はトモちゃんにスカートめくり軍団の団員にさせられ団長の指示の元女子のスカートめくりをさせられるような奴だった。男女問わず同級生と喧嘩になると勝った覚えはなくだいたい泣かされていた。この頃から強くなりたいと思うようになったのかも知れない。

そんな俺はヒーローものが大好きだった。
サンバルカン、デンジマン、ゴーグルファイブ、スカイライダー、スーパーワンが放送されている時代。幼稚園ではよくヒーローごっこをして遊んだ。
弱い自分とはほど遠いヒーロー達に憧れていたのだろう。
この時期髪はいつも母が切っていたのだがずいぶんおかしな髪型をさせられていた。前髪を真っ直ぐ揃えるのだが揃える場所がおでこの上の方でしっかりおでこを出したモンチッチのような髪型だった。この奇妙な髪形は俺のトレードマーク、当時の自分でもちょっと変だなと思っていたけどうまく母親には意見出来なかった。
※見出しの写真は2歳の頃

朝陽第一小学校

時は流れ小学生となった。俺の通う鶴岡市立朝暘第一小学校は家から割と近かった。モンチッチヘアーは母にクレームして眉毛の上でギザギザにしてもらうようになっていた。
小学校では隣のクラスだったトモちゃんも幼稚園と変わらずガキ大将っぷりを発揮していたのだが自分は自分で新しい友達が出来て小学生ライフを楽しんだ。

弱虫だった俺でも自転車は親父の意味不明なスパルタ教育のおかげで割と早めから補助輪無しで運転することが出来た。
親父はいつもそう。スキーも小1くらいの時にいきなりリフトで上の方まで連れていかれ滑ったことが無いのにのにボーゲンのやり方だけを見せられそのまま滑らされた。当然の如く止まれず転んで下まで転がりまくり俺の安物の木製スキーは折れた。その時はもうやらないとキレた思い出がある。
自転車の運転も両ひざ擦り傷だらけになりながら習得した。

学校から帰ると自転車で近所を走り回るのが好きだった。カゴに銀玉鉄砲やおもちゃを入れて友達と走り回った。他所の家と家の間を近道だと言って友人達と探検していた。家の裏は田んぼだらけで虫や魚をよく捕まえた。

俺のスーパーマン

親父は家族経営のスクラップ屋の幹部だった。
祖父が代表を務める長南商店はかなりデカい規模の会社だった。広い敷地に大型トラックが何台もあってデカいリフトやら機械やらが沢山あった。
そこで親父は重機のオペを主にしていたと思う。
元々は自動車整備士だったので会社の機械の修理も自分でやっていた。
朝は自分が学校に行くのよりも早く兄弟たちと会社に行くのだが帰ってくるのはだいぶ遅かった。
平日に一緒に晩飯を食う事はまず無かった。

親父は小さい頃の俺にはスーパースターだった。小柄だが運動神経が良くサッカーが上手かった。日曜に一緒に公園に行くとその身体能力をいかんなく発揮し周りの家族連れを驚かせていた。
プロレスや格闘技が好きでプロレスはゴールデンタイムで放送していた時代だ。親父が家にいる時間ならチャンネルの選択権は親父にありプロレス中継をテレビで見せられた。
他にもロードショーでジャッキー・チェンが出演するような拳法アクションをよく一緒に見ていた。
あとは西部警察も欠かさず見ていた。中でも舘ひろしさんが好きでカタナに乗って走る姿は本当に格好良かった。

ヘリコプター封じ

小2くらいの頃から自分に変化があった。
もうあまり泣かなくなっていたし身長は真ん中よりちょっと高いくらいだったけど骨格がクラスメイトよりがっちりしてきた。
その時はもう亡くなっていたけど母方の祖父が元々相撲をやっていってかなり強かったそうだがその血が流れているせいなのか幼稚園の時と違って同級生と組合いになっても負けなくなった。

同じクラスにY君という変わった奴がいた。
そいつは何かとすぐ切れて教室の机や椅子を投げまくった。先生にもかなり反抗する問題児だった。
とにかく手が付けられない。椅子や机を投げた後は彼の必殺技であるヘリコプターという技を繰り出した。
ヘリコプターとはY君が大声でヘリコプターと叫びながら片方の腕を高回転でぐるぐる回し誰も近づけないと言う技だった。
Y君は人と一緒の事が出来なかったのでよく周りに注意されていたのだが注意されると男女関係なく物を投げつけ大暴れした。
皆困っていたけど危険だから関わらないようにしようと思っていた奴なのだが俺はとうとう我慢が出来ずY君に対して力を行使した。
確かY君が暴れて誰かを泣かせていた時、俺は腹が立って仲裁に入ったのだが案の定Y君はブチ切れてその怒りの矛先は俺へと向かった。喧嘩が始まり俺が一歩も引かないとY君は必殺技のヘリコプターを発動させた。
前からあまり意味のないと思っていたヘリコプターを俺は気にせずにY君を掴むと思い切りぶん投げた。
Y君は吹っ飛びさらに俺が近づくとY君は恐怖を感じたのか教室の外に走って逃げだした。
見ていたクラスメイトからは賛美の声が上がった。Y君と喧嘩したことに関しては先生ですら責めなかった。
なんか気分が良かった。そんな感じで泣き虫ではなくなり少し自分の力に自信が持てるようになってきた。

その後大きな敗北が待っているのだが…


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