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月下の夜想曲。

 俺がその夜を迎えたのは、春の季節。
希望と期待の香りが夜の中に充満する、新しい季節。

いつも通りロードワークに出た俺は
その夜の星空がやけに綺麗で大きな月が出ていることに気がついた。

連戦連勝、アマチュアボクシングの雄と言われた俺はちょうど人生の絶頂だった。プロに転向しても敵なしは間違いないと思われていたし思っていた。
正直誰が相手でも負ける気がしなかった。

全身が充実していて、もう気が漲っている。
寝ても起きても、対戦相手がリングに沈んでいる光景しか頭に浮かばない。

無敵、という状態だったのかもしれない。

しばらくロードワークを続けると、大きな公園がある。
夜にもなると人もいないし、シャドーをやるにはちょうど良い。
思い切り走り込んで、体がヒートアップすると仮想敵をぶちのめす。
汗が迸り、全身にエネルギーが回る。

気持ちの良い夜だと思った。

公園の池の周りを少しペースを上げて走る。
どこまでも足が重たくならないのはコンディションがいい証拠だ。
俺はようやく足を止めて、空を見上げる。
丸い月が覗き込むように俺を見ていた。
遥か彼方の夜の空にぶら下がっている月さえ、
今の俺になら粉々にできる。と、思っていた。

ジャージを脱いで、汗に濡れたTシャツを脱いだ。
自分でも惚れ惚れとする肉体だ。戦うために鍛え上げられた、強くて硬い、それでいてしなやかで柔軟な肉体。

シュッ・・・シュシュっ・・・!!!

小回りを利かせて、誰のパンチももらわない軌道を描き
しかし俺のパンチは最短距離で相手の急所に届く手応え。
足を半歩踏み出す力強さ。そして大きな一撃が芯をとらえる、その速度。

完璧だった。

そして汗に濡れたTシャツとジャージをもう一度着る気にもなれずそれを手に持ってジムまで戻ろうと振り返った瞬間。
誰かがこちらを向いて、じっと立っていることに気がついた。

距離にして、20メートルくらいだろうか。

一瞬、どきっとした。
まるで気配がなかったからだ。
そしてその人影は、女であるらしかった。
柔らかな曲線と、自分と同じくらいの背丈と、風になびく肩くらいまでの長い髪の毛。

違和感は、シルエットからも明らかだった。

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