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こどもたちの生存戦略(劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる』感想)


こんにちは、とっても久しぶりの日記です。

今回は乙女ゲームの話ではなく、劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる』の感想記事です。
というわけで、劇場版ピンドラ後編を観てきました。
前編の感想は書いていないのに、後編の感想を書きます。
オタクの感情が揺さぶられた時が感想日記の書き時なので……。

なので、後編というよりはピンドラのTVシリーズも含め、劇場版の前後編をあわせた全体的な感想となっております。
作品のネタバレにまったく配慮していない仕様です。
この作品をこれから楽しもう!と思っている方がいたら、まっさらな状態で見て欲しいので、この記事は読まなくていいです。
視聴後の方でも、意味が分からないかもしれない。書きたいこと書いたらかなり長くなってしまったので……。
あくまで一人のオタクの感想です。

ピングドラムは、TVシリーズも大好きだったのですが、視聴したのが数年前の記憶なので割とあやふやでした。
今年の春頃、前編の公開前に復習として、TVシリーズを配信で流し見して万全の状態で挑もうと思っていたのですが、やっぱり好きだな……と泣きながら浸ることしかできませんでした。
劇場版については、劇場版での新作カットや再編集が素晴らしかったので、TVシリーズを観ていても新鮮に楽しめました。

さて、前置きと言い訳はこのあたりにして、劇場版本編の感想です。
劇場版前編の終わりがとても……こう……なかなか心臓の痛いシーンだったので(後編は、起承転結の転と結にあたる部分なのでそうなりますよね……)後編をドキドキしながら楽しみにしていました。
TVシリーズで物語の結末は分かっていても、その結末に至るまでの心理描写に緊張感があり、そういった心の動きの描写が上手いなあと改めて感じました。
劇場版では、登場人物ごとにチャプターを分けて編集されているため、作中それぞれのキャラクターの行動原理(心理描写)がより分かりやすかった気がします。

◆冒頭~OP

後編、冒頭の高倉家の日常(確かTVシリーズの冒頭にあたるシーンですね)、ここからの崩壊が見えているからこそ噛み締めたい光景です。
三人それぞれが家族でいようとしている。家族のフリという意味ではなく、本当の家族であろうと努力をしている。無理をしているわけではなく、そうでありたいと願っている。そんな平凡な日常を大切にしている3人が愛おしい。
そしてOPの入り方がめちゃくちゃよかった!!!!!
主題歌「僕の存在証明」、曲が好きすぎて何度も聞いているんですけど、アニメ映像もめちゃくちゃいい。TVシリーズの1期2期を踏襲したところも、新規カットもすごく好きです。
OPで3人が同じ方向に走っていくところ、感無量……になりました。
多蕗とゆりが縛られている枷、眠る真砂子とマリオ、決意の表情の冠葉と晶馬、炎に焼き尽くされることなく飛び出す苹果ちゃん……。
自らの意思で回り踊る桃果ちゃんは、TVシリーズOPの回りながら落ちていく陽毬の対比のようでした。
最高~~~のOPなので何度でも見たい。

◆多蕗とゆり

劇場版で再構成された、人物ごとのチャプターについてですが、
後編では多蕗とゆりさんのパートが特に印象に残りました。
それぞれの家庭事情と桃果への想い、桃果を奪った(と思っている)高倉家への強い復讐心。
でも彼らのやりきれない気持ちはわからなくはないんですよね。
多蕗とゆり、作中では「大人」ですが、親に愛されなかった「こども」でもあるので……。

母親に自分を見て欲しかった多蕗。
彼のコラージュみたいな回想描写いいですよね。現実味がない。
母からは「才能」がないと愛されなかった。
また、ゆりは身体的虐待(と洗脳に近い束縛)を受けていた描写があります。ゆりの世界に立つダビデ像?のようなタワーは、絶対的な父親の象徴で、ということは性的虐…でもあったのかな……? を受けていたゆり。
彼女はどんなに酷い目にあっても、父に愛されたくて、でも「醜い」から愛されなかった。

実親に愛されなかった彼ら二人に、等しく「大好き」をくれる桃果は輝いていたんでしょうね。
母親に見限られて居場所を失った少年に、「私のところへ帰って来て」と言ってくれた少女。
父親に醜いと言われてきた自分をはじめて「美しい」と言ってくれた少女。
己の生きる意味になった少女、桃果が突然世界から消えてしまったら、何を恨めばいいのかわからない。
晶馬や冠葉たち、「加害者のこども」に罪はあるのか?という是非は別として、怒りや悲しみを向ける被害者家族と加害者家族の構図が明確でよかった。
陽毬を人質にとった時の多蕗の言葉が印象的です。
「親の罪を子供が償え」と言いながら、同時に陽毬を命がけで守る冠葉を見て、「家族だからといってそこまでする必要があるのか」と叫びます。
多蕗が桃果の妹である苹果にかけた言葉、あれが本当なのかもしれない。もうどうしようもないと分かっていても、すでに止まれなくなってしまった男。
また、多蕗とゆりがつくった偽物の家族、「いなくなった少女を繋ぎとめるために偽装夫婦をしている」というところがもう性癖なのですが、最終的にはこの二人は残された意味を知り、偽物でなく本物の家族になったような描かれ方をしています。
多蕗とゆりの最後のシーン、めちゃくちゃいいですよね……。
しかし、やはり荻野目桃果、何者?! になりますね。本物のファムファタルなのか? どうなんだ??
桃果について、劇場版を見て更にわからなくなった。彼女についての感想はまた後述します。

◆冠葉

後編では特に、ひたすらに一人で突っ走っている冠葉くん。
彼も、復讐にとらわれた多蕗のように、もう戻れないところまで来てしまっている感じがあります。
廃墟のような町中華屋で、両親の幻覚?を見ているシーンは、かなりおぞましいなと思いました。そこに父親と思われる死体があることも含めて……陽毬もそれを見てしまっているんだもんな……ホラーすぎる。

冠葉は「兄だから」、かつての高倉父のようになろうとしていました。妹のために汚れ仕事もして、それでも妹は助からないのだと言われて、もう心が壊れかけていたのかもしれない。心身共にボロボロになって、それでも彼を動かすのは陽毬への想いと、家族を守ろうという心なのだから強い男だなあ。
冠葉から陽毬への想いは、恋愛感情であることも描かれていますが、同じくらい家族としても愛していたんだと思います。恋愛感情と家族愛が両立しないわけではない。冠葉にとっての運命の相手が陽毬だった。
「家族」が大きなテーマのひとつである本作品ですが、冠葉は人一倍、家族愛が強いですよね。家族愛というか父性というか。
実父に連れられて組織にいた幼少期、真砂子とマリオを逃がすために、実父への交換条件のように冠葉だけが組織に残った描写もありました。
冠葉が、男らしさや父親という役を己に課しているのは、台風の日の高倉父の背中を見たことが大きな要因と思っていました……が、組織から実の妹弟を逃がそうとしたところを見るに、高倉家に来る前からすでに、「きょうだい」を大切にしたいという心は強かったんだろうなと思いました。
愛のためなら無限実行をする男で、自己犠牲も厭わない。(この自己犠牲は桃果にも通じますね)
ただそれは、冠葉を大切に思う人たちにとっては気が気では無いですが……。
終盤で晶馬と冠葉がぶつかり合ったり、陽毬は自分のために「犠牲」をしている兄を傍で見守ることを選んだり。真砂子も、愛した兄を守るために強くなろうとしてきた。
彼らは互いに想い合っているのに、現実がままならなくて心臓がギュッとなります。

◆晶馬

晶馬は作中で一番視聴者の目線に近い常識人として描かれていますが、彼もまた過去に囚われているこどもです。
彼は、特に両親との思い出描写が少ないですよね。
冠葉目線ではいい父親・母親として描かれているし、両親を含めた家族で海や水族館に出かけた写真もアルバムには多くありますが、逆に、10年前に冠葉や陽毬を迎えるまでの両親との思い出はあまり語られていない。
冠葉や陽毬に出会うまでは晶馬はひとりぼっちだった。少なくとも、両親の所属する組織は晶馬にとっての居場所ではなかった。
晶馬が本当の意味で家族を得たのは、冠葉や陽毬と出会ってからなのかもしれません。血の繋がりがあるから家族ということではないし、両親と険悪でなかったとしても、そこが居心地のいい場所であるとは限らないですし……。
晶馬に兄と妹が出来て、家族ができてよかった。自分の作ったごはんをおいしそうに食べる冠葉や陽毬を見ている時の彼は幸せそうですよね。
でも晶馬も、親が犯した罪や、傷つけた人や残された人々(苹果たち)への罪悪感を抱えて生きている。
「加害者のこども」であるという自覚がある。普通の幸せは許されないと思っている。世間から「償い」を求められてきた彼が、苹果ちゃんを突き放すシーンはつらいですよね……。陽毬が家を出て、晶馬だけがあの家に残るところも……。

◆陽毬

病弱ながら明るい少女である陽毬も、かつて育児放棄されていたような描写があります。
陽毬を放って帰ってこない母親、「選ばれなかった」子猫、その子猫を自らに重ねて、幼い陽毬はこどもブロイラーに行こうとします。
陽毬と同じく、自らこどもブロイラーに向かった多蕗もそうですが、こどもにとって「親に見てもらえない、愛されない」ことって、すなわち「死」なんですよね。大袈裟ではなく、多くのこどもにとっては、親こそが世界なので。
可愛いは消費されていらないものになる。選ばれなかったこどもは居場所がない。そんな孤独の中で、陽毬は晶馬に、多蕗は桃果に「見つけて」もらえた。それって文字通り運命が書き換わるような出来事のはずです。
陽毬が晶馬が好きだという描写は初恋であり、家族としての愛であり、特別な存在だったのだろうなと思います。
彼女がはじめて得た家族、冠葉と晶馬という兄たちとのしあわせな時間。
だからこそ、色々な衝突で高倉家のこどもたち三人の「家族」がほどけていくところは、展開を知っていてもなお辛かったです。
しかし、世界からいなくなった「兄」たちから、しっかりと愛を受け取った事実は「あった」というラストシーンでもまた泣きました。

◆苹果

TVシリーズ視聴時、物語の前半は「ピングドラム」かと思われる日記を所持しており、多蕗に犯罪スレスレのストーカーをしている苹果ちゃん。がむしゃらで暴走しているような少女ですが、段々と彼女の行動原理も明かされていき、暴走したような行動にもある種納得がいったのを覚えています。
姉の桃果を失ったことで父と母は喧嘩が絶えず家庭が壊れてしまったのだと思い、自身が「桃果になること」で家族を繋ぎ止めようと奮闘する様。
日記への執着とストーカー行為は、かなり滑稽で的外れではありますが、彼女なりに家族を繋ぎ止めようとしている必死さでもあります。
一人で無我夢中に突き進むところは、方法は違えど、冠葉とも似ているところがありますね。
苹果ちゃん、晶馬や陽毬と親しくなって、日記を失い姉の日記の呪いから解放されたあとは、そのエネルギーというか……おそらく彼女が本来持っている、純粋な愛と献身を晶馬や陽毬に向けています。
晶馬は加害者の息子として、自分は許されない存在だと苹果ちゃんを突き放しますが、それでも彼女は「運命を受け入れて強くなる」「あきらめない」と晶馬に寄り添います。
「だから私のためにいてほしい」。桃果が多蕗にかけた言葉と同じ「愛」を感じます。
やり方はめちゃくちゃですが、真面目で一途で「愛」を惜しみなく他人に与えることの出来る、まっすぐな女の子だなあと思いました。

◆真砂子

団体から逃れたあと、夏目の家で育てられた真砂子さま。
彼女と弟のマリオは、実の兄である冠葉の犠牲によって10年前に夏目家へ帰されたようです。
真砂子はその行いを冠葉に見捨てられたと思っていたようですが、冠葉の愛は実妹である真砂子にも向いていました。冠葉はいまの三人家族を愛していますが、実の妹弟のことも必死に守ろうとしてきた。不器用な冠葉らしい守り方でしたが……。
後編の彼女は、危ない道に走り続ける冠葉を引き留めようと必死です。
幼いころに引き続き、今も、突き放した言葉をかけながらも真砂子の危機には身を挺して守ってくれた兄・冠葉。
実兄からの愛をしっかりと確認した彼女が、強く立ち上がるシーンは本当に美しかったです。
兄と弟を守るために強くなろうとして、実際に強くなった彼女は立派ですね。眩しい……。

◆荻野目桃果とは何者だったのか?

物語への疑問はこれに尽きます。彼女は本当に神様のような存在だったのでしょうか。
多くの人々は、運命の乗り換えが行われて世界の風景が変わっても気が付かない、しかし桃果だけはその乗り換えのすべてを記憶していると言っています。自らの身体を犠牲にして、運命の乗り換えを行うことができる選ばれた存在。
特別なこどもとして生まれたのが、彼女なのでしょうか?

作中においては、生前の桃果を直接知っている語り手が彼女を神格化している多蕗とゆりなので、どこまでが桃果の本当なのかはわかりませんが……、少なくとも彼らにとっては特別な存在だったことは事実です。
世界を乗り換える力は、自己犠牲を必要とするものである。彼女が自分を犠牲にして運命を書き換えたからこそ、多蕗とゆりも彼女の「ことば」を信じることができたのかもしれません。
しかし、ゆりに向けて「この世界のすべてを愛している」と言った桃果は、本当に等しく皆を「愛して」いる博愛主義者だったんでしょうか。
彼女が本当に「すべて」を愛していたのか、または多蕗とゆり(とうさぎ)が特別に桃果に「選ばれた」のかは定かではないですよね。多蕗やゆりが語る「荻野目 桃果」も、所詮は主観なので、偶像かもしれない。
しかし、作中の「愛」の起点が彼女なのは間違いない。愛に飢えたこどもたちに愛を与えたことは本当です。彼女が与えた「愛」は、多蕗とゆりにも受け継がれており、これからも繋がっていくんだろうなと思います。

しかし今回の劇場版での「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」の様な姿をした大きい桃果は、神様のような存在そのものでしたね。
眞悧が呪いの象徴ならば、桃果は愛の化身……神のようでした。
世界のすべてを俯瞰して、こどもたちに「何者かになれる」と告げる彼女は、格好良かったですね……。

◆眞悧という男

眞悧くん、自らを「幽霊」だと名乗り「呪いのメタファー」だとも自称している彼。
「呪い」という名乗り通り、切羽つまったこどもたちの前に現れ、特に冠葉の前に多く姿を現していたように思います。
冠葉が取引をしている電車のシーンでは、冠葉たちの両親を背後に引き連れており、冠葉にとって(両親が)「呪い」そのもののように描かれていました。
(物語前半での)苹果にとっての桃果も、冠葉にとっての両親も、それぞれの行動指針ではありますが、ある意味呪いでもある。

生前の彼は、団体を作った存在でいいんでしょうか。
「この世界が嫌いだ」と気づいた彼は、間違った世界を壊すために行動を起こし、桃果にその計画を止められます。
眞悧→高倉の両親→冠葉へと続く団体との繋がりは、呪いの鎖のようです。

また、眞悧くん(ちいさいペンギン)と桃果のやり取りはアツかった!
劇場版でも桃果は眞悧の(懲りない)行いを妨げようとしていました。
世界の全てを嫌いだと言う青年と、世界を愛している少女。
ちいさい冠葉と晶馬、桃果の「愛」と「ディスティニー」に完敗していましたね。眞悧くんの退場の仕方、ロケット団? と笑いました。
それにしても桃果さま(大)は強いな。やはり何者なんだ……。

◆ちいさい冠葉と晶馬

劇場版においては物語の読者として登場した彼ら。
物語の軌跡を辿るように全てを知って、絶望して、しかしそれでも諦めずに何者かを思い出したこどもたち。間違いなんかじゃない! はよかった。
「俺たちは陽毬のお兄ちゃん」だからと陽毬(のぬいぐるみ)を押し上げた二人。最後のひと押しをしたのは桃果。TVシリーズの最終回にも繋がる構成です。
冠葉と晶馬の想いが、陽毬の元へ想いの詰まったボロボロのぬいぐるみと、兄たちがいちばん伝えたかったメッセージが届いたのだと思うと、ただ込み上げてきます。
彼らの痕跡が何も残らない世界でも、欠片を残して愛を届けた。
本当に、届いてよかったな……泣けてしまう……。

◆作中のキーワードとメタファー

・「林檎」について
TVシリーズの時は漠然としか分かっていなかったのですが、冠葉が見つけた林檎を晶馬に半分与える→(おそらくその後に)幼い晶馬が陽毬に出会い林檎を渡す→陽毬が本編ラストで「ピングドラム」を冠葉に返す。これで円環になったということなのかな。

・冠葉と晶馬が閉じ込められていた、出られない箱
これ、TVシリーズで見た当時は、実際に冠葉と晶馬はネグレクトをされているか、もしくは親からの愛に飢えているという比喩なのかな? 同じ空間にいるのは精神世界ということなのかな? と思っていたんですけど、劇場版で再視聴して違う解釈もできるかなと思いました。
実際に二人は檻の中に閉じ込められていたのではないかという説です。
高倉父は、こどもブロイラーについて聞かれた時に、自分たちが手を出せない機関だと言いながらも、多くのこどもがそういう目に合っている事実については心苦しそうな表情をしていました(だからこんな世界は間違っている、と続く)。作中では、実子である晶馬のことも虐待していたような描写はありません。これは前述と被りますが、晶馬は他のこどもたちに比べて晶馬から両親への感情というか、こどもの目線での親への回想描写は意図して少ないように思います。
箱については、冠葉の実父が組織で「おそろしいこと」をしていたという真砂子の言葉や、その実父が真砂子とマリオを欲しがっていたこと。対して、冠葉は組織から妹弟を逃がそうとしていたことから、何らかの理由で組織には「こども」が必要だった?
高倉の両親がそれ(冠葉の実父の行い?)を知っていたのか否かはわかりませんが、同じ日に生まれた冠葉と晶馬という「運命の子」を、儀式とか……なんかそういうもので、断食させていたとか、通過儀礼とか、観察していたとか、そういうのもあるのかな~と思いました。
箱のシーンの時系列がはっきり分かってないのですが、冠葉の実父の葬式で「冠葉くんと晶馬は知らない間に仲良くなっていた」という母親の言葉を聞くに、晶馬の両親は本当に「箱」のことを知らなかったのではないでしょうか。気づかなかったのだとしたら、晶馬もまた陽毬と同じく「いなくなっても気づいてもらえない(見つけてもらえない)」こどもだった可能性もあります。
箱については、どこまでが現実の話なのかは明言されていませんが、ひとつの説として……。
急にふんわりした話になってしまいました。ここについては、論拠よりも私の願望が強く出ているため、ふわふわです。
ただ一つの捉え方としてそういうのもアリだなあと思いました。

◆劇場版を見て

観てよかった~~~~!! これに尽きます。
前後編、映画館の大画面で観られてよかったな……と噛みしめています。面白かった。
劇場版の再編集、登場人物ごとに編成された構成も見やすかったし、「そらの孔」をはじめとした新規カットや追加台詞、また、人々のいないリアルな街(都内)の風景が流れるシーンもよかったです。物語の幕間のように感じるし、リアルとファンタジーの境目のような不思議な感覚も感じました。
BGMも、トリプルHの挿入歌もいい!!!! 

桃果の「きっと何者かになれる」というメッセージはアツかった。
また、桃果を起点にした「愛してる」のリレー、円環が完成した……。
「家族」とは、血の繋がりなのか? 同じ家に暮らしていれば家族なのか?他人とでも寄り添い合って家族になることはできる。血の繋がりよりも強い絆で結ばれることもある。
親に愛されなくても、特別な誰かに愛されて、愛して、はじめて彼ら「こども」たちの存在証明は果たされるという事なのかなと思いました。

・主題歌「僕の存在証明」
配信された日から聴き続けているこの曲、誇張なしに100回は聴いてると思います。
後編を見終えた帰りの電車でも、余韻で泣きそうになりながらこの曲をエンドレスリピートしていました。
詩の良さを挙げているとキリがないので、一フレーズだけ触れます。
・2番のサビの歌詞、「アイを無くしても」。
「アイ」は「愛」だと思っていたんですけど、
「I love you」の「I」なのかな? 愛でもあるかもしれないけれど、どちらにもかかっているのかな? と気付いたのは後編を見終えてからでした。
後編のタイトル、「僕は君を愛してる」が大画面に表示されたのを忘れられないせいかも。
「僕」がいなくなっても、「(君を)愛してる」は残っている。
文字通り、己の身を焦がしても、生きることで罰を受けても、それでも最愛の妹に「大スキだよ!」のメッセージを伝えた兄たちのことを思ってまた泣きました。愛……。
歌詞については、今更気づいたの?! と思われても恥ずかしいし、語っておいて的外れでも恥ずかしいのですが、新鮮な感想の墓場としてここへ残しておきます。

以下は2022年7月24日上映後の舞台挨拶ライブビューイングのメモ書きと感想です。
うろ覚えもいいところなので、わたしは己に都合のいい嘘を言ってるかもしれない。そういうテンションで読んでください。
()内は私の蛇足感想です。

・OPは荻野目桃果が「神様」にもとれるような演出になっている。
(めちゃくちゃいい!!!!!!! 演出意図を知った上でまたしっかりOP見て泣きました。確かにOP冒頭、神様への呼びかけで桃果が映るんですよね……)
・TVシリーズのOPでは別々の方向に走っていた3人が今回は同じ方向に向かっている
(これは本当に泣けた)
・本編最後の「愛してる」は(キャラクターがキャラクターにかけた言葉という意味だけではなく)観客にも向いている、そして、愛してるの輪がみんな(観客)に繋がる。
(円環!!!)
・物語終盤の、、炎に包まれた桃果と晶馬の別れのシーン(ありがとう、愛してる)での「私も……っ」は10年越しの追加台詞。
10年前は苹果役の声優さんの提案に、監督は当時はここに台詞入れるのは違うかも?と思っていたが、今回の劇場版ではそういうパタ~ンもあってもいい、ということで追加されたらしい。
(視聴した記憶がうろ覚えながらクライマックスでここにこんな台詞あったっけ?! になってたけど、声優さんと監督がいっぱい考えて追加された台詞と聞いて、すご~い!になった。いいシーンです)
・最後、「こどもたち」を思わせるリアルペンギンが空を飛ぶ。飛べない鳥が飛べるようになる。
(モデルになっているサンシャイン水族館の天空のペンギン、いいですよね……水族館に行きたくなった)


こどもたちが身を犠牲にしてボロボロになりながらも、愛の円環が完成した話。兄二人と妹が必死につくった家族という居場所の話。
何度でも観たい物語です。

これは完全に余談ですが、前編の時に前後編分のムビチケを購入し、後編の頃には絶対無くしてるよな~と思ったら案の定無くしました。失せ物に気を付けよう。
(これを書いてる間にムビチケを発掘し(よかったね!)、もう一度観に行きました。また新鮮に泣きました)


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