見出し画像

こんにちは。

 1945年8月15日正午に玉音放送が流れ、「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」と、日本政府がポツダム宣言を受諾し、降伏することが表明されました。

 しかし、その裏では条件付き降伏に反対するクーデターが各地で起きて、鎮圧されていたという事実もあります。これらの事件に適用された法律を考える上で、「松江騒擾事件(まつえそうじょうじけん)」(大判昭和21年9月27日、日本文化史研究34号124頁)を紹介したいと思います。

1 どんな事件だったのか

 昭和20年8月24日未明、尊攘同志会会員の岡崎功(おかざきいさお)は、サブリーダーの長谷川文明や国防服を着た男子隊員、もんぺ姿の女子隊員ら数十人で「皇国義勇軍」を結成して、松江護国神社に集合しました。岡崎らは、武器として日本刀やダイナマイト、銃剣を持って、島根県庁を焼き討ちした後に、新聞社や発電所を襲撃しました。さらには、島根県知事や検事正の暗殺までを計画していましたが、足並みがそろわず、やがて警官と軍隊によって全員検挙され、騒擾罪(現在の騒乱罪)で起訴されました。

【刑法106条】 
 多衆で集合して暴行又は脅迫をした者は、騒乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一 首謀者は、1年以上10年以下の懲役又は禁錮に処する。
二 他人を指揮し、又は他人に率先して勢いを助けた者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
三 付和随行した者は、10万円以下の罰金に処する。

2 大審院の判決

 昭和20年12月20日に、松江地方裁判所は岡崎功に対して無期懲役の判決を下しました。これに対して弁護人側が「量刑が不当である」として大審院に上告しましたが、昭和21年9月27日に大審院は「上告の理由がない」と棄却し、松江地方裁判所の刑が確定しました。

3 大審院最後の事件とその後

 最高裁判所が設置される前の大審院で扱われた最後の事件として、岡崎には無期懲役が言い渡されましたが、実際に岡崎が刑に服したのは6年7カ月で、その間に、「第二次世界大戦終結恩赦及び日本国憲法公布恩赦における減刑令の修正」と、「平和条約発効・講和恩赦」の大赦令により、岡崎の犯罪がなかったことになり昭和27年に出所しています。
 ここでいう大赦とは、国会の承認がいらない内閣の閣議決定で司法権に干渉して、国家刑罰権の全部または一部を放棄させるもので、三権分立の例外とされています。日本国憲法の発布や国際連合加盟時にも大赦令が発動されていたことについても知っておいてもらえれば幸いです。

では、今日はこの辺で、また。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?