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ジャン・コクトー『声』にかんするメモランダム

00. 那覇文化芸術劇場なはーとについて

久茂地小学校跡地に、那覇文化芸術劇場なはーと、通称なはーとが開館したのは2021年10月31日。

土地柄、沖縄の伝統芸能を強く後押しするというのはあたりまえの展開でしょうが、わたしが注目したのは、幕開け公演のひとつとして、マームとジプシーによる演劇『Light house』が上演されたこと。

その後も、気になる公演がぽつぽつと続いています。

2022年2月 マームとジプシー『Light house』
2022年5月 束芋×ヨルグ・ミュラー『もつれる水滴(Tangled drop)』
2022年8月 マームとジプシー『cocoon』
2022年10月 神里雄大/岡崎藝術座『イミグレ怪談』
2023年9月 『バラ色ダンス 純粋性愛批判』(構成・演出・振付: 川⼝隆夫)
2023年9月 Co.山田うん『In C』

要するに、舞台芸術の現在、という感じがする。
なはーとには、この調子でどんどん「現在」を投げ込んでほしいもの。それで10年くらいあとに、那覇が演劇都市みたいになっているといいなあ。

そのうえで、さらなる無い物ねだりをすると、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、福岡といった国内の大都市に並ぶということではなく、上海、ソウル、東京、那覇、台北といった感じの並びであってほしい。つまり東アジアってことです。
なんなら、沖縄環太平洋国際フィルムフェスティバルに準じて、環太平洋という枠組みでもいい。だって、那覇にはそれだけのポテンシャルがあるように思うから。

空想はこのくらいにして、話をもどすと、以上のようなラインナップの延長線上に、

2023年10月 和田ながら×新垣七奈 ジャン・コクトー『声』

があるように感じます。
これはなはーとの自主事業で、「出会い」シリーズ① と銘打たれており、第2弾は2024年11月に予定されているようです。

02-a. 和田ながら×新垣七奈 ジャン・コクトー『声』を観劇しながら

ウェブサイトから概要を引っぱってきます。

 なはーとでは、出会いシリーズと題し、新たな形で舞台作品を創造していくシリーズを立ちあげました。
 20世紀の代表的なフランスの作家で、ジャンルを問わない前衛作家として小説、映画、演劇、オペラなど多くの作品を生んだジャン・コクトー(1889-1963)。
 今回は1930年に初演された戯曲『声』に、京都を拠点に活動し、いま注目の演出家・和田ながらと「演劇ユニット多々ら」として沖縄県内で精力的に活動する新垣七奈が新創作します。
 さらに、舞台美術には現代演劇に初挑戦となる彫刻家・丹治りえと、ドラマトゥルクに劇作家・兼島拓也を迎え、挑みます。

那覇文化芸術劇場なはーと ウェブサイトより

演出家の和田ながらと出演の新垣七奈については、今回、初めて知ったお名前。「ながら」と「なな」って、こんがらがりそうですが、大丈夫、おぼえました。たぶん。
彫刻家の丹治りえは、今年の夏、個展を拝見し、これが記憶と(忘却と)想起をめぐる、たいへん興味深い作品だったので、わりと好印象をもっています。
ドラマトゥルクというのは、いったいどういう役割なのか見当もつかないのですが、劇作家の兼島拓也については、『ライカムで待っとく』という舞台が高評価を得ていると耳にしています。なはーとで上演すればいいのにね。

こういうふうに、知っていたり、知らなかったりがありつつ、なんとなく「ひょっとすると、これはおもしろい座組なのでは?」と直感するところがありまして、劇場に足を運んだ次第ですが、しかしながら、わたしの背中をいちばんに後押ししたのは、コクトーの戯曲を渡辺守章が日本語に移し替えたという点なんですよ。

ジャン・コクトーを渡辺守章が? 岩波文庫で出ているマラルメやジャン・ジュネの印象があったので、おなじくフランス文学とはいえ、ちょっと意外な組み合わせのような気がしたのです。

さて、開演10分前、あわてて入場すると、小劇場はほぼ満席。
舞台装置は、ワンルームマンションの一室といった趣ではあるけれど、家具や調度品、あるいはオブジェの数々が、すべて蛍光グリーンで統一されていて、なにやら近未来を思わせる雰囲気。この完璧な造形も期待値を高めてくれる。

さあ、それで、いざ上演が始まると……。

基本的には、ある女が電話先の相手に対し、途中、混線らしき状況をさしはさみながら、ヒステリックに泣き喚くだけ、というのが、90分間続く。延々と。
いやあ、最初から最後までイライラさせられました。
途中で退場しようかと思ったくらいに。

痴話喧嘩の光景を、電話のこちら側だけで演じる、というのが肝で、当然、相手の姿は見えないし、電話口の声も聞こえない。だから、相手が男なのか女なのか、舞台上の情報からは、じつはわからなくて、いっそのこと、レズビアン同士の愁嘆場だったら、それはそれでおもしろい試みだと思うのだけど……。

女の狂騒は、ひいき目に見れば正調メロドラマ。コクトーがこんなテキストを書いたのか、という驚きはあるにはあるけれども、でも、なんといってもコクトーですからね、醒めた視線というか、どこか底意地の悪さも感じとれる。

この底意地の悪さと言うのは、渡辺守章の日本語訳にも感じられ(というか、観客は日本語をとおして、この演劇に接しているわけだから、そもそも転倒した話ではある)、これは絶対わざとやっているにちがいない、というくらい、仰々しい「女言葉」を投入しているのですよ。あまりにも過剰で、それゆえ、歌舞伎や文楽のように、様式美すら感じさせるような。

このコクトー/渡辺の扱いづらそうな戯曲、おおよそ100年前の初演時はともかく、2023年においては悪趣味なコメディであり、グロテスクなパロディにしかなりえず、それを実現するには、たとえばですけど、過剰な女性性を身にまとった、怪物的な身体性をもつドラァグクイーン(男性)が、喜劇的な悲劇を大げさに演じるほかないと、そんなようなことを思ったりもしたのです。

そもそも、コクトーって同性愛者として知られているわけでしょう? 「現代」の「演劇」として、コクトー/渡辺のげんなりするほど退屈な「せりふ」に生命を吹きこもうとするのであれば、演劇論的にも(?)ジェンダー論的にも(!)、なにかひねりがないと成立しないのじゃないかなあ。

そのあたりのひねりというのは、SF的というのかゲーム的というのか、そういうふうな舞台装置にほの見えてはいるけれど、それがどういう意図をもっているのかはよくわからない。

また、新垣七奈の演技や衣装も、「女性(の身体)」が「女性(の表象)」をトレースしているようにしか思えず、舞台空間でのリアリティということを考えると、うーん、どうなんだろう。演劇なのに、肉体性もけっこう希薄な感じだし。

唯一、現前性をもっているのが、彼女の七変化する発話、つまり声だけ。
……ん? あっ! 声!?

02-b. 和田ながら×新垣七奈 ジャン・コクトー『声』リーフレットを読む

入場時に渡されたリーフレットに、スタッフのコメントが載っていて、今回は舞台にあらわれた「ヒステリックに泣き喚く女」に辟易させられたせいもあり、このイライラの原因を探ろうと、終演後、劇場の灯りがついて、すぐさま目を通したのですが、一読後、苦笑してしまいました。

というのも、わたしのイライラは、制作側のイライラでもあったから。
『声』を最初に読んだ時に抱いた印象は? という問いかけに、演出、出演、美術のお三方は、こう答えていらっしゃる。

主人公の女性にまったく共感ができませんでした。感情的で、男性にとって都合がよく、悲恋にからめとられていく女性、というサブイボの出そうな鋳型。「ですわ」「よ」というリアリティのない語尾の頻発。この共感の不可能性をどのように創造的に乗り越えられるかが課題だ、と思っていました。

演出/和田ながら

大袈裟なわりに単調な話だなって感じでした。テキストから想像する女性は悲痛な表情を浮かべ、泣き、叫んでいて。これを演るのかと稽古前から億劫でした。

出演/新垣七奈

え、こんな女の人いるの?と、半分くらいまで読んで怖くなり一回途中で台本を閉じました。

美術/丹治りえ

ですよねえ。こんな女に感情移入なんてできませんよねえ。

観客であるわたしから、否定的な感情、それもかなり強い感情を引き出したという点で、制作側の意図はどうあれ(つまり観客をイライラさせようとしたのかどうかはおいといて)、この公演は成功だったのではないか、とも思います。

ただねえ、ペーター・ハントケの『観客罵倒』じゃあるまいし、観客はイライラするために劇場に足を運ぶわけじゃあないんだよ、ともいいたい。小声で。

それからもうひとつ。
和田ながらのコメントには、観劇中、モヤモヤしていたことへのヒントも記されていました。

最初の読み合わせの時には、これを「バ美肉(バーチャル美少女受肉)おじさん」が演じるのであれば納得できるかも、というようなことを話していました。

演出/和田ながら

バ美肉おじさん!

この「仕掛け」ないしは「設定」をそのまま受けとると、新垣七奈の希薄な肉体性もじゅうぶん理解できるし、また、どう転んだって「電話越しのダイアローグ」ではなく、「一方的なモノローグ」にしか聞こえないという問題も、じつは中年男性がナルシスティックに自家中毒を起こしているだけ、ととらえれば、おおいに納得できる。

ああ、なるほど。
ミステリ小説でいうところの、これは叙述トリックだったのか。

というふうに、手品の種明かしめいたものとして受けとめるのも、よろこばしいことではないのだけど、ただ、『声』という戯曲を解釈するにあたって、こうしたひねりを視えないように、そう、「視えないように」埋め込むのは、いかにも現代的だし、あっぱれだと思う。

これ、劇中で明示的に「じつはバ美肉おじさんなんですよ!」みたいな演出がなされていたら、おそらく観客は(すくなくともわたしは)白けたはず。
そして、バ美肉おじさん的な「なにか」が「視えない」からこそ、20世紀においては不在のダイアローグだったものが、21世紀においては非在のモノローグへと変換されたのでしょう。

00. ふたたびなはーとについて

前にも書いたように、この「出会い」シリーズは、なはーとの自主事業であり、ということは、那覇市の予算が用いられているわけ。
なのに、この無双ぶり。こうした心意気は高く評価したい(まあ、実質的には担当者の腕力に多くを負っていると思うのだけど)。

行政と文化芸術って、ある局面では食い合わせが悪いところがあるというか、最悪の展開としては、全方位的にいい顔をしようとして、結果、おもしろくもなんともない企画や事業が動いていたりするじゃないですか。

その点、今回の企画はじつにフリーダム。だってねえ、もっとあたりさわりのない戯曲を選んだっていいんですよ? でも、そうしていない。そこは単純にすごいし、えらいなと思います。演劇都市・那覇というのがありうるとして、その可能性というのは、こうした意味も含めてのことなんですよね。

公演日 2023年10月21日(土)、22日(日)
会場  那覇文化芸術劇場なはーと 小劇場


03. 渡辺守章が日本語訳したジャン・コクトーの戯曲『声』を読んで

以上の文章を書いてから、デュラス/コクトー、渡辺守章訳『アガタ/声』(光文社古典新訳文庫、2010年)を買い求めました。10年以上も前の刊行物なので、あいにく品切れ。メルカリで出品していた方がいたので、そちらを購入。

舞台/身体では少々わかりづらかったところが、戯曲/テキストでは視覚的にはっきり明示されています。なにが? 電話先の相手の「沈黙」が。
沈黙を示す記号として「・・・」が用いられ、このもの言わぬ時間、渡辺によると「コクトーは厳密に指定しているように思える」とのこと。

 作者自身が言うように、「対話である独白」──如何にも作品は、電話のコードの先にいるはずの〈不在の男〉との対話である。しかもここでは、〈不在〉は〈沈黙〉によって表される。一般に録音技術が進んでからの作品なら、受話器の向こうにいる「相手の声」を、それなりに変形して再現することが出来るから、作者も〈不在〉を〈沈黙〉で表すという選択は取りにくいかもしれない。その意味で、この〈不在=沈黙〉という仕掛けは、この戯曲の生命線である。

渡辺守章による解題「『声』三題──電話という〈装置〉をめぐって」

「バ美肉おじさん」という補助線をあたえられて、わたしは「不在のダイアローグ」から「非在のモノローグ」へ、という具合に、この上演を解釈したのですが、コクトー/渡辺の時代には、対話(ダイアローグ)による可能性と不可能性、つまりコミュニケーションなるものが、ひとまず想定されていたように思います。

けれども、和田/新垣の時代になると、そもそもそこに(どこに?)古典的な意味での「人間」は存在しておらず、にもかかわらず、テクノロジーによって拡声された独白(モノローグ)だけは、ありとあらゆる場所でやかましく鳴り響いている、といった状況に変わってしまった。

渡辺守章は高名なフランス文学者であり、辛辣な批評家であり、おまけに腕こきの演出家でもあるという、おそるべき人物でして、このコクトーの『声』もまた、自身が演出することを前提に、禍々しくも痛々しい日本語に移植されたもの。演出家としての視点から、渡辺はこうも記しています。

しかし台詞劇として演じる意味は、これらの〈沈黙〉も含めて、戯曲を〈演戯の譜面〉として読み起こす作業である。
 それは先ず〈声の譜面〉であるが、単なる「独白」とは違って、「対話の相手のいない対話」であるから、演出家にも俳優にも、異常な集中を強いることとなる。
(中略) 
そこには、様々な断絶も飛躍もあるので、つまり観客には目にも見えず、耳にも聞こえない〈他者性〉の暴力そのものを、自分の内的な身体、、、、として取り返さなければならないからだ。

渡辺守章による解題「『声』三題──電話という〈装置〉をめぐって」

ここでいわれる他者性の暴力というのは、ある意味、牧歌的な言いようで、今日的なテクノロジカル・ランドスケープのなかでは、自己も他者もなく、合わせ鏡のような状況のなかで、人間ならざる人間の声、もっというと、もともとの声が欠如したまま、反響音だけが増幅されている。

だから、いまになってあらためて思い返すと、新垣七奈のゲーム的身体が発した、奇妙になまなましい「声」は、テクノロジーの廃墟にあって、なお、人間が手放すことのできない、かすかな希望のようにも感じられるのです。まあ、これは好意的に過ぎる感想かもしれません。

先に「正調メロドラマ」と書いたものの、渡辺守章の解題を読んでいくうちに、これは全然、正調ではないなよあと、考えを改めました。だって、メロドラマの基本である「ふたり」がいないのですから。
だからこれは、正調ではなく、破調のメロドラマ。
その破調ぶりが、「現在」の情勢と奇妙につりあっていて、そうした「現在」を、和田/新垣は「異常な集中」をもってして(コクトー/渡辺の「ことば」に呑み込まれ、撤退戦を強いられつつ、それに抗いながら)ファンシーかつヒステリックに現前せしめた──とりあえず、そんなふうに評価しておきます。 (O)


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