見出し画像

(1)発酵する酵母、(2)仮留めのためのステープラー、が与えられたとせよ

人間の知覚というものは謎めいていて、眼の前に何かが存在していたとしても、そこに意識を向けないかぎり、それが「在る」ということを、なかなか認識しない。

となると、ビアレストランでアートワークが展示されたとして、おいしいビールを求める客は、展示にわざわざ目を向けたりはしないだろうし、そもそも展示物があることにすら、気づいていなかったりする。
そこに在る、にもかかわらず、作品が透明化しちゃってるんですね。視えているけど、視えていない。

逆に、展示を目的に足を運んだ客は、そこがあたかもギャラリーであるかのようにふるまい、生真面目な鑑賞者として、作品のみに集中する。
ビアレストランであるということは、きれいさっぱり忘れ、ビールを注文するなどという世俗的なことにまでは考えがおよばない。暑い日のビールは最高なのに。

To beer, or not to beer, that is the question!


わたしなんか、ビールも飲みたいし、作品も見たいし、というどっちつかずの欲張り人間だから、クルマなら40分程度で行けるのに、でも、それだとアルコール摂取は絶対にダメなので──ということで、片道90分ほど要するバスを利用し、那覇から沖縄市まで、半日がかりの小旅行を敢行したのですが、その結果、思いもよらぬ贅沢な時間を過ごすことになったのは、ビールのおかげか、それともアートのおかげか。

という二項設定はよくないな。

どちらかが主で、どちらかが従ということではなく、ビールとアートのセッションがもたらした、〈生成変化〉の只中に、期せずして投げ込まれたのだ、と解釈しておきましょう。

「さっきからお前は、いったい何を言っているのだ?」といぶかしく思っている方に、あらためて説明しますと、クリフガロというビール醸造所+ビアレストランで、美術家・花城勉のエキシビションが開催されたのです。


黒沢清の映画を思わせる不穏さ


そうですねえ、セッションというからには、ビールがピアノだとして、アートはトランペットとかサクソフォンとか……? 

いや、クリフガロという空間がピアノで、花城勉の作品はピアノの弦に挟み込まれたネジやボルトのような異物と見立てたほうが、輪郭はスッキリするかな。

強引な解釈であることは重々承知の上でいうと、花城勉展「VALUE 2024 Connected」は、ジョン・ケージの楽曲「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」の空間的変奏なのだ、ということです。

Intruder による Interlude


とはいえ、楽曲/演奏/空間の解釈については、聴衆/観客に委ねられているという意味で、「4分33秒」を参照したほうがいい。
あいにく、いま、手元に適当な資料をもちあわせていないから、困ったときのWikipedia先生を頼りにすると、こんなふうに書かれている。

楽譜では4分33秒という演奏時間が決められているが、演奏者が出す音響の指示がない。そのため演奏者は音を出さず、聴衆はその場に起きる音を聴く。演奏者がコントロールをして生み出す音はないが、演奏場所の内外で偶然に起きる音、聴衆自身が立てる音などの意図しない音は存在する。沈黙とは無音ではなく「意図しない音が起きている状態」を指し、楽音と非楽音には違いがないというケージの主張が表れている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


これをいただいて、パラフレーズしてみる。

美術家がコントロールをして生み出す動線はないが、展示場所の内外で偶然に起きる出来事、鑑賞者自身が見立てる解釈などの意図しない展開は存在する。空間とは平滑ではなく「意図しない出来事が起きている状態」を指し、美術と非美術には違いがないという花城の主張が表れている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の記述を改変

(あの、速攻で言い添えておきますけど、花城勉さんご自身は、こんな「主張」はしておりませんので、念のため。)


Angelic conversation


さて、カウンターに腰かけ、おいしいペールエールを飲み、この空間を愉しんでいたところ、突如、最高の観客が登場する。

小学校高学年くらいのチャーミングな女の子が、iPhoneの液晶画面をのぞきこみながら、嬉々として撮影をくりかえしていたのです。
おまけに、どうやら彼女なりに画角や構図を考えているようでもある。飽きることなく。

その無邪気かつ思慮深い動きは、空間に合わせて、ダンスのような舞踏のような、何らかのパフォーマンスを実践しているようにも見え、その場所その時間にしか生起しえないエフェメラルな情景に、わたしはあっけにとられつつ、言いようのない多幸感に包まれてしまった。

聞くところによると、ビールというのは、麦芽とホップ、そして酵母や水の相互作用によって、〈生成変化〉してできあがるらしいけれども、彼女もまた、エンジェリックな酵母として、空間の中を優雅に駆け抜け、その繊細きわまる発酵によって、空間は調子トーンを変化させていく。

というよりも、花城の作品やクリフガロで醸造されるビールの、もっとも核心的な部分、つまり、在ること(being)ではなく、成ること(becoming)が、よりいっそう、あらわになったと言うべきでしょうか。

「作品」や、それに対する「鑑賞」という、ある意味で限定された関係が解きほぐされ、あらゆるものが空間化されていくというか。


(1)発酵する酵母、(2)仮留めのためのステープラー、が与えられたとせよ


ちなみに、その日は最高の観客だけでなく、最低の観客(!)もいたのでしたが、いまふりかえると、あの子がいなければ、少々モヤモヤした気分を抱えたまま、クリフガロを後にしたのかもしれません。
ためらうことなく言うならば、彼女は〈恩寵〉そのものだった。


Las Meninas


このような〈体験〉をもたらした最大のきっかけは、やはり花城のアートワークにあるわけだけれども、ここで留意しておきたいのは、実体としての造形がどうのこうのという以上に、わたしたちの身体を含みこんだ〈空間〉に対する働きかけにこそ、本質が宿っているという、その一点なんですよね。

その働きかけは、けっして視ることができず、個別の体験と、それにともなう記憶としてしか認識されないから、作品そのものもしだいに揮発していく(醸造と言い換えるべきかもしれません)。

在ることから、成ることへ──。

だから、わたしは花城の作品を、制作や創造(creation)としてではなく、操作(operation)ととらえてみたい。
あるいは、ケージのひそみにならって、準備や計画(preparation)と呼びたい衝動にも駆られています。 (O)


花城勉展「VALUE 2024 Connected」
会期:8/31(木)〜9/16(月)
会場:クリフガロ(沖縄県沖縄市)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?