小説 雨上がりの博物館 6

隣の部屋へのゲートの向こうに、大きな絵が見えた。おそらく、曼荼羅のようだ。沢山の円や正方形の中に、大小、様々な格好の菩薩がびっしりと配置され描かれている。

どんどん近づいていく。予想よりとても大きい。
歩きながら、先ほど展示されていた、高僧の文書を思い出した。
内容は、

国宝とは何か。
悟りを求める心を持つ人を国宝という。
宝石や珠ではない。
世の一隅を照らす人が国宝である。

そんな事が書かれていた。

私は特に大きな両界曼荼羅の前に立った。ほぼ正方形の、高さが2メートル以上ある、2種類の曼荼羅が並んでいた。
どちらも中心に一番大きな菩薩が描かれていて、中心から離れれば離れるほど菩薩が小さくなっていた。

一方は、幾つかの円が接していて、その上に沢山の菩薩変えかれていた。それらの円はさらに大きな円で囲まれて、その内外の隙間に沢山の仏尊が描かれている。絵の外側の仏尊は本能や苦悩を抱いていて、中心に進むほど、煩悩や苦悩を知恵や悟りへ昇華した菩薩になるそうだ。

絵の左寄りの円の中に、仲良く2人で話していそうな菩薩が見えた。久保田さん夫妻に見えてきた。佐藤さんも園長も見つけた。

絵の下の端に、少し物憂げに外を向いているのがいた。どうしても親近感しか湧かない。どうやら今の私は、絵の右下の角近くの、大きな円の外の端のようだ。私は死ぬまでにどこまでいけのか。

悟りを求める心を持つ人を国宝という。

国宝までの道のりも、まだまだ途方もなく長いようだ。

一方、中心に割と近い右方に福々しい顔が見えた。夫に見えてきた。割と徳が高いようだ。とすると、どうやら私は、夫の何か足枷のような物になっているようだ。そんな気がしてきた。

私の少し左に、変に目を見開いた仏がいた。何となく課長に見えてきた。私はどうやら課長と同レベルなようだ。思わず苦笑いになった。

家族、友人、ご近所さん、会社の人。曼荼羅を眺めているうちに、かつて出会った人々の顔が沢山浮かんできた。暫くすると話し声まで聞こえてきそうになった。みんなから一斉に話しかけられても困る。隣の絵を見ることにした。


もう一方の曼荼羅も、一番大きな菩薩が描かれていて、中心から離れれば離れるほど菩薩が小さくなった。こちらは、いくつもの正方形が中心から重なり、その上に沢山の菩薩が描かれていた。絵の外側に行けば行くほど、動きや表情が豊かになる。それは智慧をどのように実践していくか、内面をどう行いとして実践していくかが表現されているからだそうだ。

沢山の小さな仏に何かを教えているような菩薩が見えた。園長の顔が浮かんできた。
反対側の方に、小さな仏を諭しているような菩薩が見えた。久保田さんだろうか。そうだとすると、その上の祠のような物の中にいる菩薩は、きっと久保田さんのお兄さんのようだ。

世の一隅を照らす人が国宝である。

私は今、何の一隅も照らせていないと思う。そして、今のこの生活を続けた先にも、一隅を照らせるようになっている自分が全く見えないとも思った。
だから佐藤さんが私の前に現れてくれたのだろうか。無駄足をさせられて最初は大迷惑だと思ったが、少しも迷惑じゃなかった。私に違う方向へ行ってみてと、きっと教えてくれたのだ。

そして意外と徳の高い私の夫も、今は特に一隅を照らせているようにも思えなかった。少なくとも私にはそう見えた。その原因は実は私にあるのかもしれない。そうとも思えてきた。

そして何より、曼荼羅の中の大部分の菩薩にまだ顔が浮かんでこない。ということはまだまだこれから、沢山の素晴らしい人に出会えるのかもしれない。
そして私は今、心も、そしての実践としての行動も変えた方が良いのだろう。少なくとも、今のままでは良くない。家族のためにも、みんなの為にも、そして自分の為にも。曼荼羅を眺めているうちにそのように感じてきた。

さらに様々な仏像の前をゆっくり歩きながら、心の中で聞いてみた。
「私に照らせる一隅は何ですか。何も持ってない私が出来ることは何ですか。何が残せますか。」
何も浮かばない像の前をいくつか通り過ぎた。

ある千手観音の横顔が見えた。私はその横顔に引き寄せられるように近づいて行った。まだその前に立っていないのに、ある種の親密性を感じた。この前見たテレビ番組で特集されていた女性の横顔に見えてきた。赤ちゃんをいつも背負っている。里親を20年以上されている方だった。
その女性の手は、朝から晩までほぼ止まる事は無いだろう。千手のようだ。私もこの女性のように何かできたらなとふと思った。

千手の観音の後ろに出口が見えてきた。
私は明るい出口に向かって歩き始めた。

すると、左側の囲の向こうに突如、一際大きな仏像が現れた。座っている体勢ななのに、私の身長より高い。大きなお顔の見開いた眼光の鋭さにとても迫力があった。
閉館近くなり、辺りに人はほぼいなくなった。
この大きな像にも聞いてみた。
「私に照らせる一隅は何ですか。何も持ってない私が出来ることは何ですか。何が残せますか。」
「いつも言ってるじゃないか。利他だよ。他者の救済に励むんだ。」
叔父さんだった。
「救済と言っても、特別なことばかりでもないんだよ。無目的な対話や問答にも、人を癒す力があるし、それは意外と真理に近づいていける物なんだよ。頭と心を使って、周りの人と対話を持って、自分らしく楽しく生きていることだけでも、きっと誰かの救済になるものなのだよ。」
自分に取り柄がないことで、前に悩んだ時も、こんな風に励ましてもらった事を思い出した。
「そうなのかな。」
私は以前と比べてそんなに成長していないのかな。と言う気持ちを込めて言った。すると、
「何でもやってごらんよ。僕はね、君を信じてるよ。大丈夫。」
と聞こえてきた気がした。私はしばらく考えてから言った。
「そうなのかな。ありがとう。」
私は、次は何か出来るのかな。そんな気持ちを込めて言った。


雨は上がっていた。
博物館の外のベンチに座り、ベンチのすぐ後ろにある大木に茂る枝葉に半分遮られた空を見上げた。雲は疎らに流れて、所々小さく青空が見え始めていた。

「何でもやってごらんよ。」
また聞こえてきた。

私はスマホを取り出した。そして転職サイトに登録してみようとしたが、やはりやめた。今度の転職は、お給料がいくらになるかはそんなに重要じゃないかもしれない。もっと自分のやりたい事を良く考えてからにしようと思った。

「水田さんは、里親会の人の雰囲気に似ているよ。」
久保田さんの声が聞こえた気がした。

そして、私は転職サイトの代わりに、検索してみた。
「アルバイト 乳児院」

スクロールする指が、少しだけはしゃいだように忙しなく動いた。これからどんな人に会えるのか、何が起こるのか、久々に感じる胸が高鳴りを、少し照れくさい気持ちになりながらも嬉しく感じていた。

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