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自叙伝No.1

波瀾万丈の人生公開!(経営者)


「#自己紹介」

初めまして、ペンネーム「トレジャーハンター」です。
お立ち寄り頂き ありがとうございます。

このブログを通して、自分がこれまで歩んで来た人生を振り返り、これから何をして、何処に向かって行こうとしているのかを書き綴ることで、自分のドリームマップの再構築を図ることを目的に書いてみようと考えております。 

ご興味は、ある方がいらっしゃれば、是非ご一読を頂ければ幸いです。

はじめに

 私は、これまでに10社以上の企業を立ち上げ、潰した人間です。

 現在、宮崎県在住 56歳 男性です。 
4人兄弟で 兄・姉・自分・弟の順です。 
ただし、私が、15歳で父が他界し、31歳で兄(元関取)が他界し、45歳の時に姉が他界し、50歳で母が他界しました。 残るは、私と7歳年下の弟だけです。(短命家系)

 小さい時からスポーツが大好きで、小学校1年から4年までは、剣道・水泳をやっていて、5年からは、野球と水泳をしていたお蔭で現在も持病は、ありますが、一応生きていです。

最近は、SNSのやり過ぎか、軽い糖尿病からなのか視力がかなり落ちてきまして老眼鏡が必要となり始めています。

 昨年2022年1月に懲りずに再々起業しました。しかもやったことのない飲食業を始めたのです。

会社名は、「株式会社アクトインターナショナルフード」です。
名前が長いと言われそうですが、これには訳があります。

世界中の美味しい食べ物を探求して、私の住む地域の方々に珍しくて美味しい食べ物を提供することで、少しでも喜んで頂き地方を元気にしたいという思いをコンセプトとしました。

後、社名が長くなったのは、社名占いで調べて字画の良い名前を選んで結果です。

ハワイに行った時の画像
最初にやりたかったお店

 最初にやりたかったお店は、ハワイで見たときに感動した日本にも複数店舗あるトニーローマでした。

お洒落で、スペアーリブやロブスターを食べさせてくるとお店は、地方には無かったからです。

ただ、先立つものが必要でしたので、まずは、経験の無い私が簡単にスタートさせられる飲食業となると、やはり有名店のフランチャイズに加盟して学ぶことが手っ取り早いと思って2022年4月に、神田カレーコンテストで優勝して殿堂入りを果たした、日乃屋カレー開店させました。

頑張ってオリジナルのカレーも3カ月ごと出したり、テイクアウトにも力を入れたりもしたのですが、材料費の急激な高騰と毎月ロイヤリティーなども合わせると採算が合わ無かったので、思い切って今年1月20日に1年も経たずに閉店しました。

 しかし、同じ場所で2023年2月17日東京まぜそば喜彩をオープンさせました。 この決断が吉と出るか凶と出るかは今から次第です。

併せて、2022年9月2日には、横浜家系ラーメン龍麪家をオープンさせたので現在2店舗経営中です。 

 普通にこんな話をすると、「ぼっけもん」と言われそうですが、私は、これまでも多くの「ぼっけなこと」をしてきました。

 これから、話をすることは、私の人生記録であり、本当の人生劇場なので読んで下さる方がおられたら何でも良いので何か感じて頂ければ幸いです。

私は、15歳の時に亡くなった父が営んでいてその後母が資格を借りて繋いでくれていた薬店を、20歳で引き継ぐところからのスタートです。 

もちろん、お金も無く、頭も良くなかった私は、高校卒業後、大阪の医療専門学校に入学して、薬種商という資格、危険物取扱の資格、販売士の資格を得ました。 

薬種商という資格は、現在はなくて登録販売業者という資格に変わっているようですが、平たく言うと調剤だけが出来ないだけでそれ以外の薬は売ることが出来るという資格です。

その当時は、薬科大学を4年(現在は6年)を卒業すると頂ける資格でした。
薬局と薬店の違いはあれど、大学に行かずにその資格を得るのは大変で、当時合格率は、受験者の10%に満たない合格率という難しい試験でした。 

小さいころから、父の商売を見て育ったので接客業が自分には向いているなぁとは思っていましたが、この資格を得ていなけば、薬店を引き継がずに、薬品問屋に就職するか、子じゃれたお店で、ダーツやビリヤードも出来るショットバーでもやろうかなと思っていました。

それから、当時、高校入学したばかりの弟が入学1カ月で高校を辞めてしまったので、母にも頼まれたこともあり一緒に小さな薬店を2人ですることとなりました。

それから、地元のデパートの薬店が空いたので入らないかとのお誘いがあり、小さな薬店ですが2店舗経営となりました。 

その後、デパートが時代の流れで閉店することで思い切ってロードサイドにドラッグストアーを出店 売り場面積100坪程 駐車場50台 30年前はは、今の様な大きなドラッグストアーは無い時代でしたので、だいぶん注目を集めて地方紙の新聞メディア等にも度々取り上げられました。

30年前のドラッグストアー画像

そこから、店舗展開して、瞬く間に5店舗程経営するようになりましたが大手のドラッグストアー進出もあり、価格競争(仁義なき戦い)がスタート。

店舗で利益を出せなくなった時に思い付いたのが九州の小さな薬店を回り、250店舗の小さな薬店と繋がり、大型店舗と戦く為に共同仕入れをする会社を立ち上げたのです。

お年寄りの経営が多かった薬店を250店舗まとめるのも大変でしたがPOSレジーを導入してもらい売り上げの管理を一括でするシステムを全店舗に入れてもらうことも大変でした。(1台250万)

使い方の説明、発注システムの説明を一店舗後とに回り説明したり、売り場の構成や棚割りの提案、共同仕入れすることで得るメリットの説明など、当時は九州中を駆け回っていました。

皆さん、一人ひとりが経営者でしたし、昔の薬屋さんというとかなり癖が強い人も多かったですし、推奨されている薬品も違いました。

それも、ポスレジーを統一することでデーターを溜めて、統一の推奨品を決めてメーカーと交渉することで一店舗では、まとめて取らないと安くしてもらえなかったのものが、共同仕入れをすることで1個単位でも安く仕入れられる仕組みを作りました。

 これは、これで当時は上手く行っておりましたが、薬局薬店の多くが、そもそも、お年寄りが多かった為、閉店するお店も次々に出てきました。

 次に考えのが少ないお客様でも最大の利益を出すには、PB商品を生み出すことだと考えて、共同仕入れ会社で風邪薬・胃薬・ビタミン剤などもオリジナル商品を作りグループ内で推奨販売することで差別化を図る仕掛けづくりを始めました。

これも、数年は上手く行きましたが大手ドラッグも次々にPB商品を安い価格で売り出してきました。

次にやろうとしたことが相談薬局に必須であった漢方薬や健康食品(クロレラ・黒酢・酵素製剤)などの開発でした。

少ないお客様でも、それぞれが自社の開発商品を柱にすることで他にお客様が流れないと思ったからです。

ただし、自社商品をつくるには、相当な製造ロットが必要でした。なので、当時スタートしたばかりの楽天ショップで医薬品・医薬部外品・化粧品・健康食品・コスメを販売することも始めました。

 まだ、医薬品や医薬部外品、化粧品、医療雑貨なども通販で売っている人は少なかった時代です。 

当然良く売れましたが当時の石原都知事から、石原知事名で対面販売が基本である医薬品を通販で売るとは何事かと、厳しい行政指導が入り医薬品の販売を断念。

共同仕入れ会社で始めた黒酢や健康茶(五葉茶)に絞り販売を再スタート
これがバカ当たりしまして、当時のネット商品上位100位内に入り、健康食品部門では堂々の第一位となりました。

いち早くネット通販に舵を取ったかことが良かったと思います。
その後、共同仕入れの会社は、グループに加盟していた薬店の閉店で解散となりました。

そのことから、これから先の時代は、ロードサイド型ドラッグストアーは淘汰されて大きなドラッグストアー数社だけでしか生き残れないのは、明らかでしたので薬店経営を辞めて思い切って健康食品・化粧品・コスメ商品などのメーカーになることを決意。

薬店経営を辞めることで昨日まで敵であった大手ドラッグストアーに自社開発商品を納めるメーカー業へと業態変更しました。

20年程前の出来ことです。  
続きは、また次回



 

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