『ちはやふる』とはどんな物語だったのか?

 ある日、ひとりの少女が砂漠の真ん中に佇み、如雨露で水を撒きはじめた。
何人かの旅人は足を止め、少女を嘲笑った。もっと多くの人々は少女に一瞥もくれずに歩き去った。来る日も、来る日も、少女は水を撒いた。足下につくられた小指の幅ほどの轍に水が流れはじめた。雨一滴降らない空の下、乾いた大地の上にわずかな澱みができた。少女はそのわずかな変化に喜ぶでも落胆するでもなく、次の日も水を撒き続けた。いつの日か少女の足下に小川が流れていた。何処からかやってきた人々が鍬やバケツを手にして川幅を広くしていった。べつの誰かは川岸に種を蒔いた。どんどんと人が集まってきて、それぞれに自分がやるべき仕事を見い出していった。長い月日の後、そこは砂漠の交易の中継地として欠かせない豊かなオアシスになっていた。天を衝く摩天楼の下、大河の川岸に佇む少女に、新聞記者がマイクを向けた。『どうしてあなたは楽園を作ろうと思ったのですか?』。少女は戸惑いながらこう答えた。『わたしは、ただ、砂漠に水を……』


 2022年8月1日発売の『BE・LOVE』9月号で『ちはやふる』(末次由紀・著 講談社)が15年の連載を終えて最終回に至った。
 ずっと好きだった漫画連載が見事に完結したことを言祝ぎたい気持ちと、あの愛すべきキャラクターたちとこれでお別れになってしまうことの寂しさにこころが引き裂かれ、3ヶ月経ってもわたしはこの作品を語る糸口さえ見つけられないでいる。それでもちはやふる全二四七首のすべてのページをひっくり返しても「おまえは何もしないで寝転んでいていいよ」と甘えた唆しをしてくる箇所など一ページもない。だからわたしも(本当に気が重いのだけれども)わたしなりにお別れを告げなくちゃならない。

 『ちはやふる』はどこからどう褒めていいか悩むほどの名作(になってしまった)なのだけれど、なにはともあれこのマンガが題材とした“競技かるた”を扱うその手付きの誠実さについては特筆しなければならない。物語は最初から最後に至るまで“競技かるた”の試合の描写に終始する。それでいて欠片も無機質にも事務的にもならず、札を取る一挙手一投足にありったけの思いと感情が乗る。主要キャラクターの名前は札の読みと結びつけられ、読手が読む札一枚ごとに彼らの生命と魂が乗る。おそらくは神のきまぐれによって百人一首の17番、在原業平の歌の決まり字と同じ名前を持って生まれた少女、千早はその縁に引き寄せられるように競技かるたに夢中になっていく。神代の時代、人の名前には呪力があり、おいそれと他人に本名を明かすものではなかったのだそうだ。ちは・ちはや・千早――およそこのマンガほど主人公の名前が多く呼ばれたマンガも珍しいだろう。あなたの、そしてわたしの名前はこの世でもっとも短く確かな魔法だ。1000年の時を生き延びた歌に“いま”を生きる人の名前が載る。テクニック――というと無味乾燥すぎるのでやはりここは魔法と呼びたいが、そんな魔法をひとつ使うことでこのマンガはマクロとミクロのレイヤーを多層に同時に描くという発明を成し遂げた。

 このマンガほど他人の感想を聞くのが面白かったマンガはない。
  ある人は幼なじみ三人の三角関係にひたすらにハラハラし、ある人はその試合で並んだ札の配置の妙を語り、キャラクターの心情と歌の意味のケミストリーを褒めちぎり、ある人はただひたすらに一人のキャラクターに思い入れていた。
 あまりにも各人に思い入れのあるレイヤーが違うので「おれたちは本当に同じマンガを読んでいるのか??」と首をひねったことも一度や二度ではない。よく考えればこれは凄いことだ。わたしと同じ角度で同じ熱量で「ちはやふるは凄い!」と語っている人を見たことがない。それはみんなもきっと同じだろう。
 それなのに……(ついに)辿りついた最終回を読めば、まるで最初からこの終わり方が決まっていたかのように、見事に首尾一貫した「スポーツマンガ」「青春マンガ」として『ちはやふる』は完結しているのだ。それ以外の読みようなどあるはずもない。読み終えてしばらく経ったいまになってもキツネに化かされたような気分だ。これはまたどんな魔法だろう。「いったい15年間、毎月(あるいは半月ごと)やきもきしていたのはなんだったんだ。この終わり方以外あり得ないじゃないか。他にどんな終わり方があると思ったんだよ!?」。20年後にこのマンガを5日で一気読みする未来の読者は、この15年のわたしのあわてふためきぶりを見て失笑するかもしれない。
 それでも……やはりそれはかけがえのない日々だった。本を投げ出して(ごめんなさい)天に拳を突き上げ咆哮したときもあれば、主人公と一緒に奈落の底に落ちていくような気分になったこともある。千早の15年に一喜一憂しながら併走できたのは、この上ない歓びだった。これだけはリアルタイムで追っていた読者だけが味わえる特権だろう。

 それにしてもこの最終回の限りない優しさ、慈しみはどうだろう。
 死闘を繰り広げた四人は言わずもがな、画面の端にちょっとだけ描かれた人物に至るまで、この物語に登場した人物すべてに手を差し伸べずにいられない、なんかこう大乗仏教みたいな懐の広さはなんだろう。読み込んだ人ほど、思い入れのある人ほど、この最終回には震えずにいられないんじゃないだろうか。

 わたしは最終回のとあるシーンの、階段の上に見えた人影に震えるほどに感動してしまった。
 そうか。『ちはやふる』は1000年前の物語であり“いま”の物語であり、6年前に置き忘れた荷物を取りに戻る、長い長い物語でもあったんだな、と。

 「内なる子供」(インナーチャイルド)という心理学用語は、あまりポジティブな意味で使われるタームではないようだ。それでも病理学的な意味でなくても、わたしたちの胸の中には大なり小なり置き去りにしてきた過去の自分がいる。物云わぬ子供たちがじっとこちらを見つめている。その子供たちに手を差し伸べること――余談ではあるが競技かるたを描いたこのマンガで果たして何千、何万回を手を差し伸べる描写が描かれたことだろう?――限られた頁数でそこまで描ききったことに驚嘆せざるを得ない。1巻で口の奥に刺さったちいさな棘を50巻で抜きにくる。そんなマンガが他にあろうか。

 かくしてこのマンガは大団円を迎えた。
 それでもこのマンガは――ああ、よかったね、と本を閉じて終わりにさせてくれない。
 唆してくる。忘れられないあの情熱が、あの友情が、お前はそのままでいいのか、とおれの背中を突いてくる。


 しょーがない、おれももう一度、自分の人生頑張ってみるか、と重い腰を上げざるを得ない、そんな秋の夜なのだ。

(了)

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