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カンボジアの過去と現在

Mad Monkey $30 Tour
チャーハンを食べながら1時間半後のツアーの出発を待つ。壁の黒板に目をやるとホステル内のイベントの参加者出身国と、その人数が書かれている。遠く離れたイギリスが一番多い。何カ国あるのだろう。本当に世界各国からバックパッカーが集まるホステルらしい。Japanはあるか。1人も見当たらない。そもそも東アジアの国が1つもない。皆安宿には泊まらないのだろうか?それとも性格上そういうイベントごとには参加しないというだけのことだろうか?(後からスタッフに聞いて分かったことだが、そもそも日本人の客を見ることはないらしい)

そんなことを考えていると優に身長2メートルはあるであろう髭もじゃの男性がバーカウンターで何か注文し、俺が座っていた席の斜め後ろのテーブルに腰掛けた。ほかに座る人はいない。同じ1人旅のようだ。とっくに食べ終わっていた俺は席を立って少し声をかけてみる。返ってきたのはゴリゴリのブリティッシュイングリッシュ。タイ北部からラオスを経由してシェムリアップに入り、つい昨日プノンペン入りしたらしい。化学の修士課程を修了し、9月にPh.dのコースが始まるまでの間3ヶ月旅を続けるという。すぐに打ち解け、これまでの旅の思い出などをシェアした。彼も今日同じツアーに参加するらしい。旅仲間ができてよかった。

トゥールスレン(S21)
もう間も無くしてツアーの招集がかかった。15人ほどの参加者は俺を除いて皆欧米風の顔立ちだ。4台のトゥクトゥクで目的地に向かう。市内にあるS21には程なくして着いた。あまりこの施設に予備知識はない。ポル・ポト政権下で市民の拷問が行われた場所らしい。ガイドに案内され音声ガイドを受け取る。指定された場所でこれを聞くことで理解を深めていく。なんと日本語のガイドがあった。UNESCOの支援を受けているからだろう。平和教育の重要拠点として整備されている。1975年ポルポト筆頭のクメールルージュが占拠するまでは高校として使われていたらしい。なるほど校舎の面影が残る。中庭にはマンゴーの木がなり、空も青く晴々としていた。しかし異様なのは、壁伝いに張り巡らされる何重もの輪状の有刺鉄線。鉄格子がはめられた校舎の窓。不気味さの正体がどんどん明るみになっていく。覚悟はしていたが校舎の中には拷問の様子が克明に記録されていた。使われていた足枷・手枷のついた鉄のベッドの横には、この施設が発見された当時の写真が架けられていた。原型を留めない黒い塊が一部をベッドに固定されたまま崩れ落ちていた。それが人だと、そしてその写真が俺の目の前のベッドを写したものだと認識するのには時間がかかった。「拷問」むごい行為であることは当然分かりつつも、それは言葉の上でのことだった。その悲劇の空間に身を置き、それが現実のことだと知覚した途端、それは実となって感じたことのない恐怖心を掻き立てた。しかしそれらから目が逸れることはなかった。むしろこの光景を記憶から消すまいと身体が動いた。錆びついたベッド。血痕だろうか。今も生々しく残るしみ。くまなく見た。クメールルージュが敗れ去り、もぬけの殻になったこの場所に、初めて足を踏み入れた敵国ベトナム兵は何を感じただろう。ひどい匂いが何年もとれなかったという。普通の暮らしをしていた人たち。なんで鞭で撃たれるのか、なんで磔にされるのか何も分からなかっただろう。ガイドの声と目の前の光景を何度も反芻し、想像を巡らす。他のツアー参加者は先に進みこの部屋には俺1人が残された。

俺も変わったな。ホロコーストの話を初めて聞いた時のことを思い返した。小学校4年生の時だ。担任が道徳か何かの授業で話してくれた。その日から話を思い出し、眠れないことが続いた。徹底して直視するのを避け、「ドイツ」という単語にさえ恐怖を覚えるようになってしまっていた。NHKのドキュメンタリーなどで二次対戦のヨーロッパ戦線を記録したものは、いつ出てくるかとどぎまぎし、すぐにチャンネルを替えた。でも今なら目を背けずに観られる。恐怖を感じなくなったわけではない。めちゃくちゃ怖い。だがその感情と「目を背けたい」という衝動が完全に分離するようになった。理性を持ちながら、客観的にその恐怖の正体を見つめられるようになった。成長とともに物事の捉え方はどんどん変化した。全ての人がそう捉えられる訳じゃないし、そうあるべきとは全く思わない。辛い現実を直視するのは大きな心的負担が伴う。ただ「見たくないものは見なくていい」と割り切ってしまうのは時として危険だ。何に嫌悪を感じ、何に戦慄するのか。その正体の輪郭を掴もうと足掻く姿勢は常に忘れないでいたい。ここで拷問を行ったのは無垢の少年・青年たちだったという。「やらなければやられる」そんな状況下で、心が殺され鬼と化してしまったのだろう。しかし、ごく数人の生存者のうちの1人が語る。「いかなる状況であれ人の尊厳を踏み躙るような行為は罪深い」無自覚は時に罪となる。人としてどうあらねばならないか、何をし何をしてはいけないのか。日々新たな経験に身を浸し、自らに問い続け、どんな時でも崩れることのない、自らの寄り処となる軸を築いていかなければならない。

トゥクトゥク内
一行は再びトゥクトゥクに乗り込み次の目的地に向かう。俺が乗ったトゥクトゥクには、先ほどのイギリス人の他に、カンボジア人のホステルスタッフの女性、チリ人の男性がいた。チリの男性はずっと英語教育の学校に通っていたせいか英語にクセがなく、見た目も相まって俺はずっと英語圏の人だと思っていた。日本から始まり、韓国、ベトナムと東から西に向けて旅をしているという。俺とは逆ルート。日本という単語に反応し、カンボジア女性スタッフが日本の食を褒めちぎってくれる。一番最初に出てきた形容詞がcleanなのが印象的だ。チリの陽気な男性もそれに続いて、日本旅での食の思い出を語る。ワカメと豆腐の味噌汁をとにかく絶賛していた。日本人以外にとってもホッとする味らしい。あとはワサビをタコスのアボガドソース感覚で山盛りにして食べたら悶絶したらしい笑笑

少し郊外に出たところでエアーズロックのような岩のような、山のようなものが遠くに見え始めた。同時に辺りに酷い悪臭が漂う。思ったとおりだ。その正体はゴミの集積場らしい。こんな市民の生活の近くにあるんだ。ガイドさんも不平を言っていた。

最近カンボジアではガソリン筆頭にものすごい物価上昇が起きているらしい。政府の生活困難者に対する支援もないのだという。「国民から搾りとるくせ、与えることはしない」そう呟く。興味深いのはシェムリアップのトゥクトゥクドライバーさん同様「政府はベトナムに迎合している、隣国カンボジアの急速な経済成長を望まないベトナム(カンボジアから見ると強国)の言いなりになっているんだ」実際がどうであれ、市民感覚としては根強いものなのだろう。他にもクメール語の表記や発音体形がいかに複雑かという話や、家庭の裕福さで学校でいじめがあったり、交友関係が決められてしまったりということが普通にあるという話を聞いた。(これは日本でも経験する人がいるのだろうか)

そんなこんなでワイワイ話しているうちに1時間ほどが経ち、市外にあるキリングフィールドにたどり着いた。

キリングフィールド
プノンペン中心地から車で1時間ほどの場所にあるキリングフィールド。この旅行の中の大きな目的地のうちの1つだ。うず高く積まれた頭蓋骨の写真がずっと印象に残っていた。ここで行われたことも「虐殺」という2文字でその実態を正確に把握しないままでいた。単なる多くの人の死であって、どんな人が殺されたのか、どんな殺され方をしたかなど考えたこともなかった。この場所に運ばれてくるのは先ほどのS21で拷問の末、事実無根の供述を吐かされたひとたちだ。赤ん坊であろうが関係なく、家族全員が皆殺しにされる。むごいのはその殺し方だ。銃弾が高価であるという理由から、銃殺はされなかった。使われたのは農作業で使われるくわや棍棒などだ。もちろんすぐには死ねない。想像を絶する苦痛に耐えながら徐々に息絶えていったのだろう。赤ん坊は母親から取り上げられ、頭を大木に叩きつけられて殺されたという。この場所が発見された当時は、残骸が大量に木に張り付いていたという。人間のしうる行為だろうか。目の前の木でそれが行われていたのだろう。あたりは泣き叫ぶ声で満たされ、それを掻き消すように大音量で音楽が流されていたという。音声ガイドでは、当時流されていたそのままの音源が流される。日本の演歌のよう歌だった。背景を知って聞くと異様に不気味だった。

音声ガイドに、この場所は追悼施設だと何度も伝えられる。俺が歩くこの地面の下にもまだ眠っている遺骨が無数にあるのだろう。今でも雨季には人骨が地表に露呈するという。例の人骨の塔に訪れたのは最後だった。S21やキリングフィールドの他の場所で知識を得ずしてこれを見ても、感じることは少なかっただろう。何人もの虐殺被害者の写真を今日を通じて見てきた。眼鏡をかけていて賢そうだから、手がスベスベで労働者とはみなされないから、という理由で、拷問され、最後に殴り殺された人たちだ。今日ここで感じたことは一生忘れてはいけないと思った。

プノンペンエンドラン
さてさて一行はまたがやがやとおしゃべりしながらMad Monkey への帰路に着いた。着くと昼食のAmokとカンボジアデザートのタピオカココナッツヨーグルト的なのが出てきた。これが美味い。ココナッツミルクの優しい甘みでスプーンが止まらなくなった。ほぼ半日が残ったので今朝会ったイギリス人大学院生Tobby を誘い、カンボジア王宮を観に行くことにした。ハリーポッターのキャラクターみたいな名前だよねって言うと、それはDobbyだと言われてしまった。にわかがばれた。カンボジア王宮はゴリゴリの仏教聖殿だったが、旧統治国のフランスの影響を受けてか、細かい装飾が壁を飾るロココ様式だった。仏壇は赤、金、緑寺細かい彫刻がされており、どこか日本のものとの共通性も感じさせた。日本人の若者の宗教感について聞かれたが、俺含め、特定の宗教を信仰してない人が多いんじゃないかと伝えた。ただ結婚式はキリスト教式に、葬儀は仏教式にやる人が多いよと伝えると驚いていた。宗教はどのライフイベントを通じて一貫するものなのだろう。Tobbyも別に敬虔なキリスト教徒というわけではなく、教会に行くのはクリスマスの時くらいだと言う。先進国では信じるものの対象が多様になってきていて、その対象が宗教という人が少なくなってきてるんじゃないか、なんて勝手に考察する。雨季の東南アジアでは、夕方になると雷が鳴り、文字通りバケツをひっくり返したような豪雨が降る。光速と音速の差から落雷との距離を測るTobby。”Rough guessing though (概算だけどね) “立派な髭と長髪を蓄える学者風の彼が言うとむちゃんこかっこいい。

結局夕飯まで一緒に食べた。地元民向けの露店で9000リエル(320円くらい)の豚生姜炒めを食べる。言葉が伝わらないから、写真で料理を選べる店にしている。食べていると痩せ細った7-9歳くらいの男の子が近寄ってきて、悲しそうな目をして、遠くを指差し”Mammy”と言ったあとお腹をさすり、”Money, Money”と手を差し出してきた。ねだってきたのは1000リエル。日本円にするとたったの35円。まさか本当にこんな経験をするとは思っていなかった。こうした子供が少なくないことの表れだろう。お金をあげて帰ってもらうことは簡単だ。だけどそんなことをして彼の一瞬を救えたとして根本的な解決には何もつながらない。むしろお金を得る手段が”すがる”ことになりかねないと思った。旅慣れているTobbyは気にするなという。俺は何度も手を合わせて謝り”すまん、あげられないんだ”と言った。だけど耐えられなかった。600リエルを差し出し”これででいいか”と聞くと、こくりと頷く。残酷なことをしてしまった。すぐに無くならない、ずっと残り続けるものをあげたかった。

昔毎日かあさんというアニメがテレ東でやっていた。「カンボジア編」の中で、ブンジとフミに、俺が遭ったのと同じように少年が駆け寄りお金をねだる。「お母さん、かわいそうだからあげようよ」とブンジが言うと、母は首を横に振る。ブンジはポケットに入れてあった飴玉を見つけ、「これならあげてもいい?」ともう一度振り返る。母は優しく微笑みながら頷く。ブンジは2つあった飴玉の1つを少年に差し出し、もう1つを自分の口に放り込んでニコリと笑いかける。少年も恐る恐る口に入れたあと険しかった表情が一気に緩む。少年にとっても、ブンジとフミにとっても、何よりそのカンボジアの少年にとっても、この瞬間は楽しい思い出として一生残り続けるだろう。(これ見たの小学生の時1回限りだ。なんでこんなにはっきり覚えてるのか書いてて不思議だ)

美しい景色も、教科書でしか学ばなかった辛い現実も、全てをこの身で感じた充実したカンボジア滞在だった。明朝にはホーチミン行きのバスに乗る。次の旅では何を得られるのだろうか。

Tobbyと一緒にご飯
スプーンは大体水か消毒液かわからない液体に浸されている

追記: まだ記憶が鮮明なうちにきちんと記録しておきたかった1日でした!!内容も重いし、なかなか書くのも億劫で時間がかかってしまった😓書き出したら思いが溢れてしまって大長編になってしまいました笑 S21とキリングフィールドではさすがに写真撮る気にはなれなかったけど、見る価値あると思うので、気になった人はぜひ調べてみて下さい!

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